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第八章の76◎恥が中心の文化

 ルーズベネディクト氏は、著作「菊と刀」の中で、西洋は「罪の文化」、日本は「恥の文化」だと述べています。日本人にとっては神から下される罰というよりも、マナーを守らなかった事に対して、世間という人間社会から与えられる罰の方が重要であり、人々の行動を律する要因となっていたのです。
それは「恥」を心得なければ、仲間外れになり、日本では生きて行けない事を意味するからなのです。
作田啓一氏は「恥」とは、「公衆の場で嘲られたり、拒否されたり、笑いものにされたりという自己の姿を想像することで生じる感情である」と定義しています。
彼は、戦後の日本でこの「恥の文化」が後退した一つ目の原因は、バーチャル技術の進歩で、現実から妄想世界にしばしば移動し、現実での恥や圧迫感、責任感などを緩和してしまうことで、現実に帰っても非現実の感覚を忘れられないでいる日本人が多くなってしまったからと述べ、二番目の原因は、戦後の経済成長に伴い都心への移住が増えた為に、大家族制度が減少し、都会とその周辺に核家族が形成されるようになった事をあげています。
 つまりは、「村社会」の影響が薄まってしまってしまい、マナーを守らなかった場合の社会的なペナルティが緩くなってしまった事が原因だと考えられるのです。
 かつては電車に乗る際に、周りの乗客の人々も仲間であり、連帯感を感じていたものが、今では周りの乗客は、「赤の他人」であり、全く「関係ない」存在として捉えているのでしょう。
 ですから最近の若者は、ペナルティが無いからと、電車の中で床に腰を下ろしたり、化粧をしたり、食べ物を食べたりして、マナーを守らなくても恥ずかしくないようなのです。
 逆に、昔は電車の中でも赤ちゃんにお乳を与える事が、マナー違反では無く不思議ではなかったのに、今ではそのようなケースは殆ど無くなってしまいました。
これらの結果として一番の懸念は、マナーを守らない人が増えて来ており、歯止めを掛ける手立てが無いという事なのです。
 街を歩いていて、傘同士がぶつからないようにお互いに譲り合う、傘傾げは日本人ならば当たり前の江戸しぐさなのですが、相手が中国人だと避けて貰えません。
 これは、他人の領域を犯す行為でもあり、不法侵入罪でもあるのです。
また、歩きスマホでも同様に、他人の進路妨害や、停止する為の時間を奪う泥棒行為でもあるのです。
 マナーは、お互いの権利を尊重し、気持ち良く生活する為の知恵で有り、ルールであるので、マナーを守れない人間には、集団生活をする資格が無いのです。
 ですから日本人は、恥の文化を忘れてはならないですし、外国人には「郷に入れば郷に従え」で、日本の恥の文化を受け入れて欲しいのです。


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