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劇場と映画と

(1/7 四谷「イメージフォーラム」)

「七日間、映画について」という題をいただいた。題を与えられるというのは、あたかも注文を受けたようで、ちょっとした書き手気分に、よしひとつという気にもなる。
 とはいえ、それがこと「映画」となるとたいへんだ。あまりにも漠としていて、どこからどう入り込んでいけばいいのかと思い悩む。というのもぼくはさほど映画に精通しているわけでもなく、学生のころはひまだったせいもあり、実にたくさん観たけれど、それ以降はさっぱりだ。しかも映画は劇場でしか観ないと、意固地なまでに決めていて、一年に観る本数などはそうたいしたことはない。
 家人曰く、ぼくは「かたよっている」ので、劇場にいそいそと足を運ぶ映画が、汎用性のない、かたよったものばかりであることも認めざるを得ない。
 シネコンで同日に複数のスクリーンでかかっているような映画はまったくといっていいくらい観ていない。なにをやっているかさえ知らない。
 しかし、映画は大好きである。映画について、なにかもっともらしいことは言えないけれど、心に強く刻まれた記憶と体験についてなら、いくらかは書けるのではないかと思う。

 さて、いただいた題を、自分勝手にすこし変奏してみる。さきにも言ったが、自分にとっては、映画とそれをかける劇場というのは切っても切り離せない関係にある。むしろ近年は、好きな劇場でやっている映画を観にいくというのが常になっている。劇場の会員になって、そこでいまなにをやっているだろうと探し、おもしろそうだったらでかけるという、作品重視というより、劇場に重きがあったりする。

 好きな映画館がある。映画館、劇場、いいかえれば場なのだけれど、ぼくには場はとても大切なもので、いい映画体験にはかならず劇場の記憶が不可分に存在する。
 映画そのものもまた場であると思っていて、劇場という場のなかに、映画というもうひとつの場が立ち上がって、ふたつの場がメタフィジックに、ときに幻想的に交わる。それが映画という体験だと思っている。

 この連作では、映画そのものではなく、それを観た劇場の話をしようと思う。その一回めは「イメージフォーラム四谷」だ。
 イメージフォーラムといえば、渋谷金王坂をのぼって青山学院に行く手前を右にはいったコンクリートの建物を思い浮かべることだろう。もちろん、ここも大好きな場所で、ずっと会員である。コロナで休館になるまえも「娘は戦場で生まれた」というとてもいい映画を観させてもらった。
 そのイメージフォーラム、青山にやってくるまえは、四谷にあった。そこは映画館というよりは、映画を上映する、なんというか映画に関する場所のようなところだったと記憶している。
 学生だった80年代には、イメージフォーラム四谷のような、私設の上映館がいくつかあった。アートシアター新宿(ジュク)、ACTミニシアター、アテネ・フランセの視聴覚室などは、そういったちょっと変わった上映館で、いまもたくさんある、いわゆるミニシアターとよばれる映画館のさきがけのようなものだった。
 四谷にあったイメージフォーラムは、おそらく当時熱狂的にはまっていた寺山修司の関連で知り、出入りするようになったと思う。天井桟敷が制作した16ミリ実験映画も、ここ四谷で観たはずだ。
 映画もさることながら、上映している「その場所」に行くことが、ひとつの意思をもった行動としてあった時代だった。ロビーにはアジビラまがいのチラシがあちこちに置かれ、極彩色のポスターは雄弁に語り、カウンターの向こうにいる女性はなにやら物憂げだった。上映前には山谷スタイルの佐藤重臣がやおら現れて、なにやら講義のようなものがはじまったりもした。
 
 そんな劇場のひとつ、四谷にあったイメージフォーラムで観た、大好きな、そして忘れることのない印象を残した映画がある。
パトリック・ボカノウスキーの「天使」。
 限りなく重層的で美しいイメージの連鎖に幻惑され、二度,三度と四谷に足を運んだ。どこかでやったら、もう一度観たい映画だ。


(2/7 渋谷「ユーロスペース」)

「忘れた!」
と同時に左手から落ちるバッグ。このときの衝撃を経験していなければ、いまほど映画が好きではなかったのではないかと思っている。
 落ちる、あるいは落とすという行いまたは現象は、ぼくにとって、もっとも鮮烈な映画的体験なのである。
「ツィゴイネルワイゼン」で、青地豊二郎の手から落ちるウイスキーポケットボトルのカバー、「天使」でのミルクのはいったコップ、「ストーカー」の投げられたボルト、さらにさらに、デビッド・リンチの映画では、あらゆるものが落ちて、落とされているではないか。
 映画のなかで、なにかが落ちるとき、落とされるとき、ぼくの心は無条件に震える。そして、むしろ身構える。落ちる、落とすことによって、それまで滞っていた物語が一瞬にして移動するかのように思えるからだ。

 おそらくこれまで観た数少ない映画のなかでも、ジャン・マリー・ストローブ=ダニエル・ユイレの「アメリカ」は、ひときわ特別な光を放っている。
 左手から落ちるバッグ。このカットを観た瞬間に、自分のなかで、なにかがガラッと変わったのをはっきりと覚えている。すべてをさらわれるような出来事、映画とはかくもさらっていくものなのかという、事件ともいえる体験だった。
「アメリカ」を観たことで、その後の映画に対する気持ちが大きく変わったと思う。フランツ・カフカをここまで見事に映像として現前化してみせる、その知性と体力、そして映画の力に心底おののいた。

 この映画を作ったストローブ=ユイレに感謝しなければならないのと同時に、この映画を上映してくれた映画館にも、ありったけの感謝の気持ちを表したいと思う。
 その映画館とは、かつて渋谷桜丘町にあった「ユーロスペース」だ。渋谷駅東口をでて、横断歩道を、246号線をまたぐようにして渡る。するとそこに、渋谷という繁華な街の離れ小島ともいえる一角が現れる。音楽を志すひとたちのための楽器店が往来を占め、心意気を醸す飲食店がならぶ。奥にわけいり、かつて渋谷エピキュラスがあったその辺境は、文化の端っこにあって、しかししっかりと文化を支えてきたという気概に満ちている。
 桜丘町というからには桜が咲くのだろう。ゆるやかな坂が、そのゆるやかさが好きで、自然と足が向かってしまう。
「ユーロスペース」は、かつてその坂道の途中にあった。いまは円山町にりっぱな映画ビルとして君臨しているが、桜丘町のころは、雑居ビルの間借りのような映画館だった。
 映画館を運営するのがむずかしいのは、タッパが必要だということ。つまり天井が高くないといけない。スクリーンはすこし見上げるくらいの配置がちょうどいいからだ。
 残念ながら、桜丘町の「ユーロスペース」は、どうしようもなく天井が低かった。フランソワ・トリュフォーの「突然炎のごとく」の車上の名シーンも前のひとの頭が邪魔で、ジャンヌ・モローしか見えなかったし、字幕も両端が読めなかった。
 でも「ユーロスペース」では常に素晴らしい映画がかかっていた。「ユーロスペース」が東京になかったら、ぼくの人生はまったくちがったものになっていたかもしれないとさえ思う。
 ストローブ=ユイレ、アキ・カウリスマキ、ヴィタリー・カネフスキーをはじめ、実にたくさんの素晴らしい映画監督とその作品群を届けてくれた、その功績には、感謝してもしきれない。

以前は桜丘の坂をのぼった。いまは道玄坂からくだっていく。
「ユーロスペース」、いつまでも。


(3/7 渋谷「ジャンジャン」)

 その劇場の地下へとつづく黒い階段のことは、はっきり覚えている。たくさんのチラシやポスターに睨まれながら、まるで闇の世界に吸い込まれていくように、ゆっくりと降りていく。
 暗くなだらかな座席の向こうには、四角い舞台が愛想もなくごろっと転がっていて、それを前から、右から、左からと、取り囲むようにして観客が腰かける。さほど広くない劇場内に、時としてこれでもかとばかりに詰め込まれることもあった。
 高校生のころから、渋谷「ジァンジァン」には、よく芝居を観にきていた。別役実の戯曲のものが多かった。四角いばかりの板には、別役戯曲のシンプルな舞台装置がよく似合っていたのかもしれない。ベンチとバス停、ときに電信柱だけのときもあった。余分なものはなく、それ以上は劇場の闇があつらえてくれた。
 渋谷駅をでて、丸井のほうへ。パルコにむかうゆるやかな坂を公園通りと名づけたそのとば口に、立派なキリスト教会がある。教会のなかに入ったことはない。いつもそのすぐ手前にある間口の狭い階段を降りていくか、そのあたりに腰かけていた。

 きょうは、いつもの芝居ではない。寺山修司の短編映画の上映がある。
「トマトケチャップ皇帝」「書見機」「一寸法師を記述する試み」「蝶服記」といった、いつものラインナップに「ローラ」もあった。
「ローラ」は二回目だ。この短編をかけられる劇場は限られている。というのも、上映に際して特殊な仕掛けが必要になってくるからだ。「ジァンジァン」ならではの上映会にいさんででかけていった。
 この映画はもう上映されることはないだろう。少なくとも完全なかたちでの上映はもうずいぶん前からできなくなっている。
 顔を白く塗って黒い下着のような衣装をまとった三人の女が、スクリーンにあらわれる。彼女たちはこちらを見ながら、ときに悪口雑言を交えながら観客を挑発してくる。そのうちひとりの男を名指しでからかいだす。すると、観客席にいたその男がスクリーンに向かって言い返す。そして食べていたピーナッツを女たちに投げつけるのだ。
 それでも挑発をやめない女たちに苛立ってか、男はとうとう席を立ち、スクリーンがはられた舞台にかけあがる。そして男はそのままスクリーンのなかへ引き込まれ、女たちにもてあそばれる。服を脱がされ、パンツもはぎとられ、そしてふたたび劇場にもどされる。着ていた服で股間を隠しながら、男は出口に去っていく。
「ローラ」はスクリーンを選び、劇場を選ぶ。そして若き森崎偏陸さんが、その場にいなくてはならない。
 上映が終わって、寺山修司がでてきた。四角い舞台に椅子をおいて、やや猫背に、マイクを抱きかかえるようにして訥々と話し出した。
 質疑応答の時間になって、手をあげたら指された。ぼくは立ち上がって、大きな声で質問した。生意気盛りの問いかけをだまって聞き終えると、一瞬だけ、鋭い眼光でこちらを見た。
 
 渋谷「ジァンジァン」は、ずいぶんまえになくなってしまった。年末になると浅川マキが「ジァンジァン」でライブをやっていたせいか、「かもめ」の一節が、連鎖反応のように浮かんでくる。
かもめ かもめ 笑っておくれ
かもめ かもめ さよならあばよ


(4/7 池袋「新文芸坐」)

池袋北口、「文芸坐」。
要塞のような建物のなかには、ふたつのスクリーンがあり、ひとつは弐番館としてロードショー映画を、もうひとつは独自のセレクションによる名画をという番組構成だった。喫茶店があり、地下には「ル・ピリエ」という芝居小屋もあった。
 大学時代、そこでたくさんの映画を観た。たんなる映画館以上の「場所」としての強い個性が、その建物から漂ってきていた。その「文芸坐」の終わりは、ひとつの時代、文化のかたちの終わりでもあったと思う。
 まったくと言っていいほどに姿をかえて戻ってきた「新文芸坐」には、正直なところ、気持ちがはいらなかった。近代的なガラス張りの内装のパチンコ屋さん。かつての面影はこれっぽっちもなかった。
 2000年12月12日、「新文芸坐」の再興に異和感を感じたぼくは、池袋北口に近寄ることもなかった。しかし一番の信頼を寄せているひとから、しきりに「新文芸坐」はすごいと、なんども聞かされてはいた。果たしてなにがすごいのかと問うと、映画館として完璧だと言う。いやいやそんなはずはないと固辞していたものの、あまりの熱量に、久しぶりに池袋北口から向かった。
 エレベーターを上がって、左にいくと券売機があり、その横にはガラスに和田誠さんが描いたたくさんのイラストが目にはいる。きれいなロビー。小さなチケットをもぎるのは、あきらかに半身に麻痺がある支配人だ。
 ひとりひとりに「ありがとうございます」と声をかける。なかにはいると特大のスクーンがあり、なによりも座り心地のいい椅子が出迎える。どこに座っても観やすい配置になっていて、かつての「文芸坐」のコンセプトをそのままに体現していることに、大いに驚いた。

 この完璧な映画館に興味を持ち、支配人永田稔さんに、インタビューを申し込んだ。ロビーの一角で2時間近く話をうかがったときの印象は、いまなお鮮明に残っている。残念ながらそのときの模様を記事にしたホームページもすでになく、手元に原本も残っていない。
 話をうかがって以来、この映画館の大ファンになった。行くと永田さんがいて、「いつも遠くからありがとうございます。」と声をかけてくれる。というのも奇遇なことに永田支配人の娘さん夫婦はぼくと同じマンションに住んでいるのだ。
 ある日、仕事に向かおうと自宅をでると、すぐそこに紙を手に持ち、なにやら上を見上げる永田さんがいた。思わず「永田さん、どうしたのですか?」と訪ねると、このマンションに用があってやってきたと説明しだした。
「ぼくもここに住んでいます。」と答えて以来、「新文芸坐」で会うと「あんな遠いところから」とねぎらってくれる。

 映画館は気持ちのいい場所。なにするわけでもなく、ただ腰かけてボーッとしていると、映画がかかる。寝てもいいし、乗り出してもいい。上映中とその前後はひとそれぞれの時間なのだ。落ち着くところ、逃げ込むところ、考えるところ、そして観るところ。映画館ってそういう場所だと思う。そういうひとたちをやさしく迎えてくれるのが、いい映画館なのではなかろうか。
「新文芸坐」でたくさんの映画体験に出会った。そのなかでも一番印象に残っているのが「成瀬巳喜男特集」の二週間。あれは実に不思議な経験であった。
 成瀬の特集がはじまるや、最初はまばらだった客席が、日を追うごとに人数が増えていくのだ。ぼくも毎日通っていた。なぜか成瀬の映画を観ると、もっと観たくなってしまう。明日は用事や仕事があっても、どうにか都合をつけて観にいきたいと思わせる。成瀬の映画は、そんな魅力に満ちあふれている。
 そして毎日通うなか、ぼくと同じように毎日やってくる馴染みの顔が増えてくる。一週間も経つ頃には、あの広い観客席がいっぱいになった。受付で配られる小さなリーフレットが足りなくなるほどに、「成瀬巳喜男特集上映」は、たくさんのひとでごった返した。
 朝起きると成瀬を観にいかなければという気持ちになる。こんな経験ははじめてだった。「新文芸坐」は日替わりで二本ずつ上映していた。きょうもこの二本を観たくて観たくてしかたなくなる。あの時、二週間の上映期間のうち十日以上は客席にいた。日を追うごとに増えていくひとは、ぼくと同じに「きょうも観たい」とやってくる。それはそれは特別で不思議な二週間だった。
 その後、京橋にあるフィルムセンターに通い、成瀬巳喜男のほぼすべてを観ることになる。数ある多様な成瀬巳喜男作品なかでは、いわゆる「芸道もの」といわれるジャンルが大好きだ。
有名な「鶴八鶴次郎」もさることながら、「芝居道」の戦時下でのかけがえのない美しさは格別だ。なかでも大好きなのが「桃中軒雲右衛門」である。
ここに出てくる月形龍之介は、他の出演作品と較べても、ひときわ輝いている。西へむかう列車内でのシーンは忘れがたい。思い出してもムズムズする。
 成瀬巳喜男とは、ひとを映画中毒にさせる、実に危険きわまりない作家だと思っている。そうこうするうちにまたもや観たくなる。そして、成瀬巳喜男という希代の作家を教えてくれたのが、池袋北口「新文芸坐」なのである。


(5/7 御茶ノ水「アテネ・フランセ」)

 そこへの道は、御茶ノ水からではなく、水道橋からゆっくりと坂をのぼっていくのが好きだ。ひだりがわには総武線の線路がのびて、空もひろい。
ときには毎日のように、さいかち坂というおもしろい名前のその坂を、あたかも学校にいくような気分で歩く。登りきる手前で右に折れると、一風変わった建物が現れる。「アテネ・フランセ」だ。
 学生のころ、友人たちの何人かは、ここにフランス語やドイツ語を習いにきていた。文字通り、語学の学校として、ときに文化の交流の場として、「アテネ・フランセ」は長い歴史をもっている。

 語学がからっきしなぼくは、教室のまえを素通りして、4階の「アテネ・フランセ文化センター」に向かう。
「文化センター」ときくと仰々しく感じるだろうが、その実際は、ちょっとした講堂といったふうで、そこで窓に暗幕をかけて映画を上映するものだから、どちらかというと視聴覚室というほうがしっくりくる。
 その「文化センター」は、一般の映画館とはちがった、シネマテークとしての色彩がつよく、ひとりの作家のレトロスペクティブといった大きな特集が組まれる。そのため好きな監督のときは、いきおい毎日通うことになったりするのだ。
「アテネ・フランセ文化センター」で、いちばん観た作家は、フレデリック・ワイズマンである。一年に一度くらいは特集が組まれていたときがあって、そのたびに坂をのぼり、ワイズマンのドキュメンタリー映画を、日に二本,三本と観る。以前、観たものもまた観てしまう。
 ワイズマンの映画は、映画を観るというよりも、そこにでてくるひとたちに「会いにいく」という感じなのだ。そのせいか同じ映画でもいつも新鮮に映る。その作品群は、教養香る文化村や岩波ホールよりも、パイプ椅子がならぶ「文化センター」のカジュアルさが合っているようで、ぼくとしてはこちらのほうが楽しい。
 お尻をもぞもぞさせながら、5時間46分の大作「臨死」もここで観た。
「高校」「ストア」「パブリック・ハウジング」「メイン州ベルファスト」「聴覚障害」「チチカット・フォーリーズ」などなど。こうして題名を書くだけでワクワクする。ひとびとの顔が浮かんでくるのだ。映画の力のひとつが、そこに現れるひとたちの存在の強さそのものにほかならないと、ワイズマンは教えてくれる。
 映画とは、スクリーンに突如としてあらわれる見知らぬひとと向き合う体験なのかもしれない。そのとき作り手は、両者を引き合わせる紹介者だろう。そしてフレデリック・ワイズマンこそ最良にして最高の紹介者だ。

 ワイズマンは、ぼくたちをいろんな場所に連れていってくれる。動物園、デパート、役所、病院、オペラ座、裁判所、障害者施設、ボクシングジム、ときに軍事演習にも。
 そしてそこにいるひとや場所そのものを、あるがままに見せてくれるのだ。ワイズマンはそこに連れていくだけで、なんの説明もしてくれない。観客はただただ自分で見て、聞いて、感じるばかりだ。多くのドキュメンタリー映画が、力技で狙いや意図を無理やり押し付けてくるけれど、ワイズマンはそういったいやらしいさとは無縁だ。作り手=紹介者が否応なくかられてしまう創作への誘惑や雄弁になりがちな個の発露から、どこまでも距離を置こうとする、その知的で紳士的な態度こそが、ある意味で、映画製作者としてのもっとも優れた資質なのではないかとすら思う。

 ワイズマンたちはカメラを向ける、音を録る、そして編集する。しかし観ているぼくたちは、その一連の行為や意思を見逃してしまうほどに、スクリーンと対話している。知らぬうちに、まんまと出会わされてしまうのだ。なにを話すか、感じるかは観客にまかされている。
映画が終わると、「不思議な国のアリス」の猫のように、姿は消えて、うっすらとした笑いだけを残していくチェシャ猫こそが、フレデリック・ワイズマンの印象だ。


(6/7 高田馬場「早稲田松竹」)

 二本立てがありがたい。なにより安くてありがたい。たくさん映画館にいれてありがたい。
 どんな映画を選ぶのか、はたまたどの映画とどの映画を組み合わせるのか、納得したり、意外に思ったり。目当ての一本にでかけたら、期待していなかったもう一本に感動して、得した気分になったりもする。

「早稲田松竹」は、そんな二本立てのたいせつな映画館。まず建物がかっこいい。映画が好きで煙草も好きなひとたちが、入口のすぐわきでくゆらせては、いま観た映画の余韻に浸っている。券売機もどこか懐かしい風情で、入って小さな券を差し出すと、映画への静かな情熱を持ったひとたちがもぎってくれる。
 席を決めると、まずトイレにいく。これは映画を観るときの儀式みたいなものだ。用を済ませて、洗面をキョロキョロと。あった。早稲田松竹名物、お掃除担当オギノさん手作りのアート作品だ。食品トレーのうえに、ヤクルトの容器やちいさな指人形などを使って、色鮮やかなブリコラージュ。これをちらりと見る。トイレが混んでいなければじっくり見る。でてもすぐに席にはもどらない。壁に貼られた、公開予定のポスターをチェックしてまわる。
 弐番館としての番組構成だけでなく、劇場によって、独自の特集をはさんでくれるのが、なによりの楽しみだ。こんどはどんな料理をお皿に盛ってくれるのかと、あたかもレストランに行く気分になる。
 信頼している劇場と運営しているひとたちだからこその特集上映で、これまでたくさんの名画に出会うことができた。
 テオ・アンゲロプロスもそのひとりだ。すべてのカットが名だたる古典絵画のように美しい。そしてゆるやかに、なだらかに語られることばが重なってくる。映画を叙事詩として焼き付けた希有な作家は、ひとりの女性に焦点をあてた壮大な物語に向かっていった。
 それは三部作として語られる人生だった。「エレニの旅」、「エレニの帰郷」での感動は、これまで観たアンゲロプロスの作品以上に強いものだった。そして完結編ともいえる第三部を撮影中に、アンゲロプロスは交通事故で亡くなってしまった。詩篇は、置かれたペンの下に未完のまま閉じられて、新たなる詩人によってつむがれることを願っている。
 映画と詩。詩と映画。映画は詩。詩は映画。詩人は死に、映画は詩篇を残した。「THE OTHER SEA」の反対側、向こう側、もうひとつの海。そこにはどんな景色があるだろう。
そのとき、はからずもパヴリコフスキの「COLD WAR」のラストカットが浮かんできた。ふたりが歩き出した世界には、きっとアンゲロプロスが待っている。


(7/7 ニューヨーク「MoMA」&恵比寿「写真美術館」)

 むかしはよかったなんていうつもりはこれっぽちもないのだけれど、広告に勢いがあったころ、助手だったにもかかわらずアメリカ東海岸のロケにいって、オフがニューヨークでという一日。
 師匠山崎秀和さんのお供で、ティファニーにはいる。娘さんにリングを頼まれてということで、ぼくは通訳兼交渉係といったところだ。あとにも先にもあんなにゆっくりティファニーを満喫したことはない。
 そのあとMoMAにて昼食を食べる。どうしてティファニーで朝食じゃなくて、MoMAで昼食なのかといえば、泊まっていたホテルからも近く、前の日にもきて、とても居心地がよかったからである。
 師匠は昼ビール。ぼくはそのころはほとんどお酒が飲めなかったので、食後は珈琲か何かだったと思う。庭のピカソなんぞ見ていると。テラス席のとなりの美人女性が話しかけてきた。
「日本人?」
特段驚くでもなく、こたえる。
「そうだよ。」
「住んでいるの?それとも‥。」
「仕事できたんだよ。ここは気持ちのいい美術館だね。」
「でしょう?」
彼女は英語が通じるとわかると、身を乗り出してこういった。
「このあと1時から、地下の劇場で小津安二郎の『東京物語』の上映があるのよ。」
ぼくは、これにはちょっと驚いた。時計をみると12時30分だった。
「へえ、そうなんだ。」
「観たことある?」
「もちろん、あるよ。好きな映画だ。」
「わたしはきょうがはじめて。すごく楽しみにしているの。もしよかったら降りてきたら。」
ぼくは、ふむと考えた。これからやることも予定もない。すでに三回は観ているものの、異国の地で外国のひとたちと観る「東京物語」も悪くないなと。師匠に事情を告げて、別行動をとることにした。
 
 上映間近の映画館に降りていくと、そこは満員の観客席だった。前のほうの端っこのあいたところに腰かけた。
 そして、MoMAで観た「東京物語」は、はからずも格別な映画体験となった。まず観客席からの熱量がすごかった。そしてなにより笑いが多かった。
「東京物語」って、こんなに笑う映画だったのかと思った。そして、きっとそうなのだろうと、合点がいった。小津安二郎はユーモアに富んだひとだったにちがいない。そして、ユーモアに富んだひとだからこそ、世界中のひとを魅了したのだと、そう思った。
 美術館や博物館で映画を観るのは、映画館での体験とはまた違った発見があると、そのとき感じた。日本だとどうだろう。MoMAほどの設備を持った、美術館や博物館はと思うと、これははなはだ心もとない。けれど、住んでいるところからそう遠くない東京都写真美術館があった。ここでは何度もいい映画を観させてもらっていた。
 そのなかで、一番印象に残っているのが、「パラダイス・ナウ」だ。この映画は、映画館ではなく、美術館で観られてよかったと、なぜかそう思えた。この日の衝撃と感動は生涯忘れない。
 そう、「パラダイス・ナウ」も実にユーモアに富んでいた。ぼくはこの自爆テロを題材にした映画でたくさん笑った。そしてそれは、かつてニューヨークで観た「東京物語」を思い起こさせる体験だった。
やっぱり、映画は素晴らしい。

(了)
 
 

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