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歪んだ時間

 ひとは進歩するものだと、ぼくはそう信じていた。近代化し、社会が成熟していくなかでひとは学んでいく。悪しきをあらため、良きを取り入れて、少しずつではあろうが、ひとは成長し、人類の歴史を前へと進めていくと信じていた。
 だからこそ近年よく聞くようになった「退化」ということばに、少なからぬ戸惑いがあった。進化はその歩みがたとえ遅くとも、方向性はしっかりと描かれていたはずだ。よもやそのベクトルが反対の方向を指してもどってくるとは思いもよらなかった。
 
 昔にくらべたら昨今の云々といった、どこか紋切り型のぼやき節とはちがった「退化」の兆し、あるいは悪弊の繰り返しが、たしかに目にはいってくる。
 それは退化というよりも、意図的にどこかの地点に戻ろうとする意思のようにも感じる。ゆっくりと遡行していくのではなく、仕切り直しといわんばかりの強引さで、その場所や時間からもう一度はじめようとするご破算の思考のように思う。
 政治家が掲げる「もういちど」や「取り戻す」といった言い回しは、かつての良き時代や栄光や繁栄の地へと、ひとびとを誘惑する。いまという時間が閉塞していればいるほど、理想の地は甘美な記憶を発し、ひとびとは回帰の触感にほだされる。
 
 知性や経験から少しずつ進んできたはずの貴重な時間は、そのまま失われた時間と見做される。そして現在の窮地をもたらす以前の時間まで一気に時を巻き戻そうとする意思が拡大する。
 この論法に添うなら、そこはどうしても美しい場所であり、至福の時代でなければならないだろう。しかしほんとうにそんな場所や時間があったのだろうか。その問いに応えるべく、美しさと至福を纏うような「粉飾と修正」が意図的に施されることになる。
 
 また、歴史は繰り返されるという。これは循環のサイクルだ。ベクトルがぐるっとまわって同じ場所にやってくる。その円環の運動を内包しながら、大きな筐体は少しずつ前に進むなら、これもまたひとつの弁証法的な進化のかたちだと思う。
  地球環境改善への取り組み、人権意識の向上、ジェンダーやLGBTQ+への配慮、さまざまな偏見の払拭、ハラスメントへの指弾など、実に多くの領域でぼくたちは進化してきたと思っている。数え切れないほどに内省し、制度や法を作り、少しずつだが築いてきた。
 
 ところがいまウクライナで起こっていることは、それらの進化を真っ向から否定する、まぎれもない戦争である。それも前世紀の反復のような泥と血の匂いにまみれた、ひとがひとを憎み殺す戦争のかたちだ。
 プーチンはかつての栄光の地である「ソヴィエト連邦」にひとびとを連れ去ろうとしている。あまりに理不尽な理想を押し付けられたウクライナのひとびとの抵抗にあって、それを大きな力でねじふせようとしている。目の当たりにしている国々は外交や経済制裁で止めようとしている。しかしそれをなんとも思わず強引にことを完遂しようとするなら、たくさんの血が流れるのをただ傍観するだけになってしまう。
 核兵器をもった超大国が、理想の旗のもとになにをやろうとも、それが強引であればあるほど、その運動を止めることはできない。そういう事態をいまぼくたちは経験している。そしてそれははじめてのことではない。第二次世界大戦のあとも紛争や戦争はあとをたたなかったし、超大国の都合や理想に多くの国やひとが巻き込まれては理不尽な血を流してきた。
  停戦交渉がまとまらなければ、そう遠くないうちにキエフで大惨劇が起きる。時間のベクトルが大きく歪んでいくのを感じる。進化していこうとする意思と、かつてあったどこかにもどろうとする意思が、同じ時間軸にあって、歴史という名の大釜で混ぜられているようだ。
 
 歪んだ時間のなかで、見当識を失った巨大な権力者が、自己とその理想の崩壊の果てに、破滅のボタンを押さないとはだれも保証できない。歴史はこれまで最悪の危機を乗り越えてきたというが、それがこの先ずっとそうであることにはならない。
 いまは大きな歴史的事件のただなかにあるのかもしれない。歪んだ時間。暗澹たる胸に手をあて、必死になってことばを探している。
 

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