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見知らぬ乗客(日記の練習)

2023年7月13日(木)の練習

 夜、職場のひとに電車が遅延していると教えられる。それなら遅延が解消される頃まで仕事をして帰ろうと思ったら、あっという間に終電の時間に。遅延のこともすっかり忘れていつものように会社を出て駅まで歩くと、電光掲示板の次発電車に発車予定時刻が表示されていないところでようやく思い出す。見立ては甘く、遅延は解消されないまま通常の倍の時間をかけてようやく乗り換えの駅に着いた頃には、乗り換えるはずだった私鉄が接続もなく終業していて途方に暮れる。

 あきらめてタクシーに乗ろうと思ったところで、そういえばこういう場合は何か補償があるかもしれないと駄目元で改札の案内窓口に戻る。忙しそうにしている駅員に恐る恐る事情を説明すると、慣れた感じで交通系ICの履歴を確認して、私鉄に問い合わせて代行輸送の手配をしてくれた。タクシーが来るまでここで待っていてください、と言われて、案内窓口のなかで待つ。同じようなひとが後から来ては、同じように窓口のなかで待たされる。立ったまま塚本邦雄『夏至遺文 トレドの葵』(河出文庫)の続きを読むが、うまく頭にはいらない。帰れるかどうかかわからない宙ぶらりんな状態だからかもしれないが、そもそも立ち読みという状態がこの小説と合わないような気がする。文庫化されることが椿事なのだから、塚本邦雄も自身の小説が立ち読みされるなんて思ってもいなかったのではないか。

 利用している私鉄の名前が呼ばれたので案内カウンターの前に進み出ると、隣に立っていた萌黄色のワンピースの女性も同じように進み出る。駅員に、同じ方面のお客様同士で同乗してほしいという。まったく見知らぬひとと同乗する機会なんて滅多にないので緊張するが、それで帰れるなら文句はない。さらに駅員からは、別の駅員がタクシー乗り場から乗車するまで案内をする旨とともに、別の改札口にも同じ方面に帰るお客様がいるので三名で乗車してほしいと言われる。三人が三人とも赤の他人なのだから、ひとりふえようがさほど気にはならない。ふたりとも肯くと案内窓口を出て、タクシー乗り場のほうへ連れていかれる。もうすぐ案内の駅員も参りますので、と言われて歩いていると、別の改札口でふたたび待たされる。改札口では初老の男性が駅員に怒号を浴びせている。案内してくれていた駅員も足早に駆け寄るので、思わず女性とふたりで顔を見合わせてしまう。危惧した通り、三人目の乗客はこの男性であった。
 すこしして案内のために現れた女性の駅員に対しても、初老の男性は頭ごなしに怒鳴りつけている。「名前は」と駅員に大声で訊ねると、名前を確認してからSNSにだろうか「拡散してやるからな」と脅しのように言っている。図らずも同乗することになってしまった女性は怯えた表情を隠さず小声で「どうしよう」とつぶやく。隣で、もうこのくらいの年齢のひとがSNSを介して脅しを言うようになったのだなとまったく関係ないことを思う。平謝りする駅員に連れられてタクシー乗り場に向かう間も、前を歩く駅員の背中に初老の男性は「後悔するぞ」と何度も叫んでいる。

 悪いことには悪いことが重なるという使い古された常套句に頼ってしまうが、遅延の影響でタクシー乗り場には帰りを待つひとびとが列を成していた。迎車ではなくタクシー乗り場に来た運転手にタクシー券か何かを渡さなければならないようで、タクシーに乗るまでは案内してくれた駅員も付き添わなければならないらしい。歩いている間はすこし紛れていた険悪な空気がタクシー乗り場のある外に出ると夏の夜の蒸し暑さと一緒にじっとりと迫ってくる。この空気のままタクシーという密室に閉じこめられるのは気が鬱いだ。しかし、ぽつりぽつりと私と女性が会話をするようになると、それを聞くうちに、みずからつくった険悪な空気がのちのち車内でみずからの首を絞めそうだと気づいたのか、初老の男性はいつしか黙りはじめ、ようやくタクシーの順番が来た頃には先程まで悪し様に罵っていた駅員に「お疲れさま」とまで声をかけるほどに冷静さを取り戻していた。深夜の幹線道路をタクシーに乗って見知らぬひとたちと黙って帰る。会話をするわけでもなく車窓から東京の街を見るともなく見ながら帰る時間は、思ったよりもいやな感じはしなかった。同乗したふたりに、おやすみなさい、と言って別れる。
 後悔して謝るくらいなら他人を不快にすることを初めから言わなければいいのに。そう纏めるのは簡単だが、生活のなかで一貫してその通りに振る舞えるひとは多くない。その類の後悔がないと言い切るひとは、却って他人を不快にさせていることに無自覚なのか、人格が破綻しているかだろう。誰しもみずからを悪人とは思っていなくて、当人にとってはささやかな傲慢が往々にして他人を傷つけている。

 ロジェ・グルニエ『長い物語のためのいくつかの短いお話』(白水社)を読み終える。

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