なに?文句?

最近よく無気力になる。
夏バテだろうか。将来の行く末に希望が見出せないのも夏の暑させいなら良かったのだが。

みんな何を見出して生きるのだろうか。
僕は本当に大事にしたいことだけを大切にして生きていきたい。大好きな音楽。推しという言葉では収まらない存在となっていく湊あくあちゃん。腐れ縁の友達。残り続ける大切な気持ちと考え。

何かに囚われて生きていきたい。
価値を判断するに絶対的な基準があると、それは自分を追い込むことにもなるが絶対的な絶望はそこから生まれない。常に「良い」が頭の中で存在するし、それを目指せば良い。大変なことだが、達成感なども味わえるのだろう。「良い」を見失うと達成感も無くなる。過度の相対化は良くないというが、これは真理ではなく生きていく上での教訓だ。見ざる聞かざるのようなもの。

誰の生き方も否定したくない。これは僕の根幹にある考え方で、全ての生は儚さに由来する何者にも変え難い価値を持つと思うし、それこそが本物だと信じている。だが、全ての生が肯定されるのなら、僕の行く末を照らす明かりは無い。どの道も最終的に良いのであれば、何も目指す必要はない。

現実は目の前にあって、僕は大学生だが来年には就職を考えなくてはいけない。大学院に進むなら勉強しなくてはならない。レールである。これが僕の向き合うべき現実なのか?僕の向き合うべきはレールなのか?レールが現実の全て?社会ではそのレールを前提とした階層があり、レールを進むことは前提で、その上でこの人は恵まれてるだの幸せだの言う。多くの人がその価値の元で生き、僕もその価値による判断を食らう。仕方ない。お金を稼ぐためには、満足のいく生活を送るためには、自分の大切なものを守るためには、その現実と向かわねばならない。時間を犠牲にして、精神性を犠牲にして磨耗しながら働かねばならない。仕方ない?
僕は、それが、働くことが大切なものを犠牲する可能性があるのではないのか、と思うのだ。そうなると残るのは、働くことだけだ。生活費をする為に働き、働く為にまともな生活を送る。働きながら人生を謳歌することができる!と言う人もあるかもしれないが、僕にはそんなエネルギーは無い。大切なものを大事にするのは莫大なエネルギーが掛かるのに、生活にエネルギーを割いてしまっては、見失う。あまりADHDの脳内ドーパミンの少なさをみくびってもらっては困る。

これが大学生の想像力の欠如故の文句であれば良いのだが。最近の俺は頭が弱いのでその可能性も十分にある。この文は殴り書きなよで流石に酷いが、かつての文と最近の文比べるとかつての文の方が論理的に精緻である。論理という武器を捨ててしまった俺の文に何の価値が残るんだろう。

こんなこと考えずに無邪気に人生を送れる人間、社会的に流布する価値観に縛られて生きていけるのが1番絶望から遠い。僕はある意味羨ましい。どんなあり方でも素晴らしいのに、講師として他人を導くのはどういうことなのか?塾講師をしてると葛藤が多い。俺は、自分を選んでくれた生徒に無邪気な幸せを噛み締めてほしいだけだ。勉強など必ずしも必要なものでは無い。どんなあり方でも素晴らしいのに、なんでnoteでこうやって駄文を書いて、将来のレールについて何も向き合わず、「こんなんじゃ将来どうすんの?」などという周囲の人間に訳もなく焦燥感を抱かされ、その焦燥に潜む虚無に呆れて絶望してる俺の何が悪いのか?説明してほしい。もっと〜した方がいいよ。などと言う人間は僕からすると無駄な価値観に囚われているのだ。

まともだよと言う顔をしながら異常な価値観を押し付けられることに疲れたのだ。自らの異常さに目を背けて他人に押し付けて正当化する人間の存在に疲れたのだ。まだ寂しくてわんわん泣いてる方が1000倍マシだ。

本当に綺麗なもの。本当に素晴らしいもの。美しいもの。そういうことを感受できる心が残ってくれてよかった。押し付けに負けずに、感受できる心を大事にしながらある程度のところで妥協しつつ生きてゆきたい。その心を失う時が人生の辞めどきだろう。全ての生が美しいという考え方は自殺をも肯定する。僕の手で叩き潰される蚊でも同じことだ。他殺である。書いていたら鬱鬱としていたのがマシになってきた。言葉にするのは大きなことだ。面倒なことに思えるが、ときどき言葉にするのを我慢できなくなる。そういう時、noteは素晴らしいツールになる。誰か見てくれる可能性があるということが救いにねる。僕は見つけてほしいのかもしれない。すごくカッコ悪いしダサい。自分に自信を持ってどっしり構えるにはまだ若いのかなあ。まだ19歳である。痛々しい文章だし、俺も痛い。頭はボーッとしている。

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