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人間は、演じられている。

人間は元来、無垢で白痴な存在として産み落とされたのだから、脳機能が正常に働いている人間が、次元の違いはあれど、何かしらの社会というものに順応していられるのは、全ての個体が社会が望むように、演じているからに他ならない。

実存は本質に先立つという話の通り、人間は自然物である為に、鋏のように紙を切るなどの明確な目的を持って、作為された存在ではない。

しかし、遺伝子によって、その個人の趣向は予め決定されているのだから、全くの白紙の状態で産まれているのではない。
つまり、社会や環境に書き加えられる事のみで、個人の人生が、絶対的に決定されているという事でもない。

しかし、例えば宗教2世などは、どれだけその個人がその信仰に反感を持ったとしても、扶養状態である時にはその環境、独自の社会的規範(経典に書かれている事)から逃れられず、人生に大きな影響を及ぼす事は間違いない事実だ。

また、世界は弱肉強食、優勝劣敗で構成されており、弱者救済という思想は自然界の法則に反した間違いであるという主張をした人間が存在したとしても、一度その人間が甘いミルクチョコレートを食べたいと思えば、知らず知らずのうちにフェアトレードで取り引きされた商品を購入し、行儀よく食べているだろう。

その人物は、流通されているチョコレートが、全てフェアトレードで生産されている場合、チョコレートを食べたいと思えば、消費という活動を通して、自らの思想に反する活動を、余儀なくされている。

それと同様に、SHEINの激安価格は、不当な労働搾取によって、達成されていると知りながら、商品を購入した場合、その人は何かしらの良心の呵責を感じるべきなのだろうか?

しかし、こうも考えられるだろう。
資本主義社会という競争を余儀なくされるシステムの中で、潤沢な資産を持っていない個人が、よりコスパの高い商品が存在した時、その個人の思想信条に関係なく、購買意欲が湧いてしまう、つまり、能動的に主体性を持って購入したのではなく、これは受動的な欲求で、これは買ったのではなく、むしろ、買わされたのだと。

では、SHEINという会社に責任があるのだろうか?誰かが、アパレル産業によって財を成したいと思った時、既にその世界には、通常の手段では競争相手として太刀打ち出来ない存在があった。
だから、競争に勝つ為には、この様な手段を取らざるを得なかった。むしろ、本来思想的には望まない、売り方を社会のシステムに誘導させられた、これは、売ったのでは無い、売らされたのだと。
確かに、これは詭弁である。
個人の決定と会社の決定では、あまりにも社会に対する影響が違いすぎる。
労働のルールがまだ、しっかり定まっていない場所で、ここでなら環境対策の費用も削減できる、会社が儲かればいい、という発想は売上至上主義で、公共性がなく、自分勝手だと言えるだろう。
しかし、売り上げ至上主義が生まれる要因として、資本主義社会が作り出す、競争原理の影響というのは、否定できない。

個人レベルでは、労働搾取という問題が存在しても、責任の主体は消せてしまう。
会社という組織は、複数の個人によって、構成されている。
会社の決定は=社長の決定になるのだろうか? 
確かに、最終決定を下すのは、社長か何らかの代表者だろう。
しかし、その決定を下す前の、社内の空気、発言等を、社長や代表者は全く加味しないだろうか?
上場している株式会社であれば、株主の意向も会社の判断に影響される。
そして、株価は、世間という実態のない風評によっても変動する。

際限のない他責化である。誰もが当たり前に、責任なんて取りたくないし、あえてリスクを取ろうとはしないだろう。

ここで話を戻そう。
殆どの人間は皆、演じているのだ。
これが、第一の段階で、前提として、最も重要な事である。

そして、よく言われている事だが、人間には大きく三つのキャラクター、三つの役回りがある。

"ベタ"と"メタ"と"ネタ"だ。

ベタはピュアに楽しみ、メタはそれを俯瞰して見る。

ネタは演じているという事である。これはどういう事だろうか、つまり二重演技である。あえて演じているんだという風に、演じさせられている。私は、人間存在の中で、このキャラクターの割合が一番多いと確信している。彼は演じているという事には気付いているのだが、結局それも演じさせられているに過ぎない。

容姿端麗で、自己承認欲求の高い個体が、役者業を志す、これは、不思議な事だと思いませんか?

つまり、自分が承認されたいという欲求を満たす為に、他者を演じる事で評価されようとしているのです。

この様な、自己の在り方が成立するのは
人は皆、本当は演じているのだから、通常の生活で評価を受けるのは、演じていないという前提での、演じている行為への評価になるのです。

それが、こと役者業になると、演じているという前提での、演じている行為に対する評価になります。

つまり、他者から与えられた役をこなしているなと見なされている時に得られる承認こそが、自分が思う、"最も正確な自分"に対する評価になるので、"自己"承認欲求が高い純度で、満たされるのです。

ベタとメタとネタの関係を示す、例を出しましょう。

テラスハウスを単純に、その設定を信じ込んで楽しんでいる人がベタです。

そして、それを俯瞰して、これ台本あるだろ、何で絶対恋愛に発展するんだよとかツッコミを入れるのがメタです。

そして、ネタの人は、メタに対してそれは野暮だよ。大体皆んなそんな事は理解しながら、騙されやってるんだよ。お前は、ディズニーランドに行って、ミッキーとハグする時、これは本当はミッキーじゃなくてきぐるみを着たおじさんなんだとずっと思ってるのか?不幸な奴だな。全部分かった上で、その瞬間は自分が楽しむ為に、夢の国に来たと思うんだよ、いうのがネタです。

しかし、テラスハウスでは、実際に、ドラマ内の行動に誹謗中傷が集まり、自殺しました。メタの人から見れば、ほらみろ、フィクションと現実の境目がついてない人間が、たくさんいるじゃないか。
俺たちの指摘は、やっぱり正しかった。リアルを装ったドラマ制作側も、それを支持していた奴も、その問題を軽く見ていたから起こった事故だ。お前ら、全員殺人犯だぞ!ドーン🫵という訳です。

明らかに史実ではない、「一目瞭然のドラマでも、この作品はフィクションです、実在の人物や団体とは関係ありません。」という注意書きがありますが、それによって、作品がつまらなくなる事は殆どありません。

しかし、リアリティや夢の世界を謳った作品に限っては、こういう但し書きは面白さを損なう事になります。

例えば、夢の世界でミッキーとハグする前に、ミッキーだと思ったら、中におじさんが入ってた、詐欺だ!と言われる事を恐れて、これは本当はミッキーではなくて、中におじさんが入ってるけど、ハグしてもいいか?と確認を取られたら、
冷めてしまうでしょう。

また、ホストやキャバクラに恋愛商法というものがあります。
アイドルにも、彼氏、彼女が、いない様に振る舞うという、商法があります。

それが商法というのは重々承知の上で、裏では何してるか分からないと思いながら、それでも信じて、騙される覚悟で推して楽しんでるんだ!とネタの人は当然いうでしょう。そして、それは全く問題がない事です。

しかし、現にそれが嘘だという事が発覚すると怒ってしまう人がたくさんいます。僕は、推しというものへの理解が浅いので、商品を購入するなどの金銭契約が発生する度に、嘘でも怒らないで下さいねと、確認を取ればいいのに、とピュアに思っていました。そうすれば、解決まではいかなくても、問題の縮小には繋がるのにと。あえて、そうしないのは、本気にしてる人が一部ではなく、結構沢山いて、そういう人はお金を沢山使うから、その金が取りっぱぐれるのが嫌で、
やらないだけだろと。しかし、これは何処までいっても、相手が何を考えてその選択をとっているのかは、その個人にしか分からないので、単なる陰謀論なのです。しかし、正直にいうと、私はまだこの説も捨てきれないでいます。

しかし、自分に置き換えてみると、少し理解できる様になりました。
私がキャバクラに行って、営業だと思いながらも、キャバ嬢に恋愛営業をされることを楽しんでいたら、ある日突然、金銭が発生する業務が始まる度に、これは営業だからと前置きされて、営業されたら、分かってるよ、いちいちうるせーな、冷めたわと言って不快になると思うからです。

何故怒るのかと考えたら、少しは自分もベタ(ピュア)でもあるからです。もしかしたら、本当に自分の事が好きなのかもしれないと、どこかで思いながら、その営業で少し騙されながら、それを楽しみたいのです。

作品の登場人物が死ねば、それが嘘だと分かりながらも悲しくなるのは、その作品を見ている時、これは嘘の話だ嘘の話だといちいち思いながら観ないからです。自己投影してベタ(ピュア)に楽しみます。

本当は人間には、ベタとメタとネタという三つの役職があるのではなく、人によって、70%ネタで、20%ベタで、10%メタだ、という様に、全ての要素が少しはあるのだと思います。
結局、その個人を構成する一番多い割合の役職の意見を言う事になるのでしょうが。
何度も書きますが、第一段階として、人間は全て無意識に演技させられています。つまり、前提として、全てはネタなのです。

ベタ(ピュア)な部分が多いという事は、恥ずかしいと思うかもしれません。ベタ(ピュア)な自分をメタ(俯瞰)な自分が、馬鹿にするからです。しかし、そのメタ(俯瞰)の自分は、俯瞰であることを演じているだけ、ベタ(ピュア)な自分もそう演じているだけなのです。

第二段階の認識として、現れるのが、ベタを演じる人、メタを演じる人、ネタを演じる人という内訳なのです。
その選択の要因となるのは、環境に応じるための生存戦略、遺伝的趣向によるものが大きいでしょう。


そして、私が人間存在の何たるかを最も正確に簡潔に描写していると確信している、ボードレールの悪の華という詩の和訳があります。一部抜粋して記述します。
※訳者の意訳が含まれているので、ボードレールの意図が正確に反映されていない可能性もあります。

我らが心を占めるのは、我らが肉を苛むは、
暗愚と過誤と、罪とケチ、乞食が虱を飼うように
だからわれらは飼いならす、忘れがたない悔恨を。
われらが罪は頑だ、われらが悔いは見せかけだ。
思惑あっての告白だ、だから早速良い気になって、泥濘道へ引返す。
空涙、心の汚れはさっぱりと、洗い流した気になって。

新潮文庫 悪の華 和訳 堀口大學


本音の吐露、罪の告白というものも、ボードレールは徹底的に疑います。
罪の告白なんて、その人が損をするのだから、100%贖罪の気持ちから出たのだと思うかもしれませんが、私は違うと思います。
そこに、少しは思惑がある、過剰に思い悩んでいる風に見せて、自己劇化して
いる少しの衒いが、良心の呵責に耐えかねたと言う中に、許されて楽になりたいという欲望が、少しはあるだろうと問いかけるのです。
ここで、救いとなるのは、100%の本音も、100%の建前も存在しないということです。

だからこそ、弱肉強食だと強がって演じている人に、お前はフェアトレードで取引されたカカオを使ったチョコレートを食べているじゃないか、バカめ!それはどうなんだ?と問い詰めても、それくらいは別にいいでしょ、と言うのです。
なぜなら、弱肉強食、優勝劣敗だ、弱者救済をするな!と100%思っている人間なんて本当は存在しないからです。

最後に、もう一度、問題があるのに、責任の主体が消えてしまう事について考えてみましょう。

民主主義が、成立する理念の中に、一般意志というものがあります。
複数の説や定義がありますが、簡単にいうと、政治家が誤った政策を行なったとしても、その政治家は国民の投票行動の結果として、代表者として選ばれたのだから、責任はその政治家一人ではなく、投票の権利を持つ全ての国民にもあるよね、という事です。

ラディカルな一般意志の見方をすれば、物を買うことも、視聴することも、RPする事も、いいねをする事も、感想を書き込む事も、あらゆる消費行動は、自身の主義主張、思想を表明していることになります。

しかし、現実的に考えれば、そんな事をいちいち気にして、全ての消費活動を行う事は難しく、無意識に、自分の思想と反した消費行動をしてしまう事に対して、責任感を持つ事は難しいでしょう。

そんな事は知らされていなかった、私たちは、能動的に投票したのではない、購入したのではない、受動的な状態にあり、投票するよう誘導されたのだ、購入させられたのだ、だから仕方ない!と。メタな演技をすれば、そうして他責化することも出来るでしょう。

メタを演じる事が、必ずダメだということではなく、また自分には、全くメタな部分がないという事もありえません。メタ認識という能力は、問題を把握する為に役に立ちます。動物と違って、人間には、メタ認識の能力が備わっている事が分かっており、それによって人は社会という概念を信じ、生活圏内に存在しない赤の他人まで、思いやる行動が出来るのです。

世界は複雑に出来ていて、物事は調べれば調べるほど複雑に出来ていて答えを出す事が難しいと言うことが分かるだけです。一貫性を求めてしまう人間の性から、現実の複雑性や矛盾に耐えられず、陰謀論などの世界をシンプルに捉えられる魅惑的な虚構へと誘引されてしまうのです。

ベタ(ピュア)を演じるという事は、言わば、自己を意図的に視野狭窄に陥らせるという事です。何故そうするべきかと言うと、ホースの噴出口を狭めれば水圧が増すように、視野狭窄とはパワーを持たせる事ができるのです。カルト的熱狂という表現が指し示す様に、教祖様の言うことが全て正しいという、圧倒的な視野狭窄は、現実の認識が「無知の知」という無力感や虚無感しか与えないのに対して、世界の真理を得たという全能感を与えるのです。

活力が無ければ活動を起こす事はできません。
正しい人間の在り方を認識した後ならば、視野狭窄の危うい反面だけでなく、パワーだけを取り出すことができる筈です。

簡潔に言えば、自己投影する現象の事を被投性と呼ぶのですが、私はこの深度が最も高い状態がベタ(ピュア)を演じている時だと思います。

マリオカートで、コントローラーだけを動かせば良いのに、身体も一緒に動かしている人を見て笑った事はありませんか?
しかし、その人と貴方では何方が幸せなのでしょうか。
貴方はゲーム内のマリオというキャラクターを動かしていて、その人は、自分がマリオになって操作しているのです。
一度、他者の目に晒されれば、その人は馬鹿にされて現実に引き戻される事が殆どですが、そうでなかった場合には、その人の方がよりゲームを楽しめるのではないですか?

私たちは今こそ、正しい人間存在の認識を踏まえて、恥ずかしがらず、出来る限り、一人一人がもう少し、ベタ(ピュア)を演じるべきなのではないでしょうか?

現実の問題をメタ(俯瞰)で認識した後に、他人事として冷笑して終わるのではなく、個人の主体性、主観性を取り戻し、自分事として真剣に捉え直す事が自分の選択に対して責任を持つ、真摯な演技へと繋がっていくと思います。



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