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【小説】バ美肉を買いに
『今日の晩御飯はバ美肉なので、帰りにお肉屋さんで買ってきてください』
17時30分、妻からのラインにはそうあった。
直後、僕は残っていた仕事を敏速に片づけ、終業時間ちょうどに会社を出て肉屋へと向かった。
帰宅までに時間をかければ、それだけお腹をすかせた彼女を待たせることになる。
それはあまりに罪深く、想像するだけで胸が痛む。
愛する家族のため、一刻も早くこのミッションをこなさなければならない。
しかし、バ美肉とはいかなる肉であろうか。
とりあえず店の前にやってきた僕は、こちらに背を向けて作業をするお肉屋さんに声をかける。
「すいません、バ美肉はありますか」
僕の問いかけに応じ、ぬっと身を突き出したのは、丸太のように太い腕の、凶悪な人相をした巨漢だった。
「バビ……馬肉かい?」
「いえ、あの、たぶん違います」
言いながら、もう一度スマートフォンを確認する。
うん、間違いない。
「バ美肉、です」
「あまり大きな声で言うんじゃねぇよ」
肉屋の男は顔をしかめ、声のトーンを下げた。
「バ美肉を買いにきたのかい」
こちらに顔を寄せて、僕を品定めするようにじっと見つめる。
「あんたがかい? 買ってどうするんだい」
「晩御飯にするそうです」
「晩御飯」
肉屋にとってその返事は意外だったようで、一瞬気圧されたように身を引いた。
「……食ってもうまいもんじゃないと思うがね」
「しかし、妻が」
妻がそう所望しているのだ。我が家の女王が。
物事が思い通りに進まなかったときの彼女の恐ろしさは、僕が世界で一番よく知っている。しかもそれが、僕が指令に逆らった結果だったと解釈されでもしたら……考えただけでも身の毛がよだつ。
肉屋は何も言わず、腕を組んでこちらを見据えてくる。
困った。どうしよう。
「……ないようでしたら別の、代わりになるようなものとかは」
「そうは言っても、豚肉や牛肉じゃあ、バ美肉の代わりにはならんだろう」
「そう……いうものなんですか……あっ、鶏肉では?」
「ならんだろうなぁ」
肉屋が顎をかく。
「お兄さん、その様子じゃ、あんたバ美肉が何かも知らんようだね」
「寡聞にして……」
「そうか。いや、確かにウチにはそれがある。あるが、そう簡単に売れるもんじゃない。諦めな」
「僕も簡単に諦める訳にはいきません」
「それが何かも知らんのに、か?」
「妻が家で待っていますので」
「……別のものじゃだめかって聞いてみな。やめといた方がいい」
僕はスマートフォンを取り出し、彼女を刺激しないよう言葉を選びながら、バ美肉の購入が困難である旨を伝え、別のものに替えられないかを尋ねた。
メッセージを送ると、返事はすぐに来た。
『今日の晩御飯はバ美肉なので、帰りにお肉屋さんで買ってきてください』
帰ってきたのは、最初とまったく同じ文面だった。
こういうとき、妻はまだ怒ってはいない。
だが、次はない。
「だめだと言っています」
「……」
肉屋はしばらく押し黙り、困ったように頭をかいた。
「あんた何キロだ?」
「え?」
「体重だよ。何キロだい」
「50キロちょうどです」
「じゃあ、たぶん足りるな。病気はねぇか」
「というと」
「心臓やら胃やらはどこも悪くしてねぇよな」
「会社の健康診断はオールAです」
「よし」
肉屋が頷いた。自分の覚悟は決まったというようなしぐさだった。
「案内してやる」
そう言って一度奥に引っ込み、水の入った桶と柄杓を持って戻ってきた。
「手を洗え」
確かに、食品を扱う店に入るのならば衛生面は大事だ。
肉屋は水で両手を洗い、そのあと口も濯いだ。僕もそれに倣って同じようにする。
招き入れられた先には小さな木造りの扉があった。肉屋が扉の前に立ち、何度か深く頭を下げ、手を打ち合わせた。見様見真似で同じことをする。
「ついてこい」
肉屋が扉を開け、大きな体を縮めて潜り抜ける。扉の先には、地下へと続く階段があった。
先導されるまま下りていくと、すぐに広い空間に出た。
吐き出す息が白い。それでずいぶん気温が低いことに気づいた。
見れば、あちこちに肉が吊るされている。解体場と保存庫を兼ねている場所のようだった。
「ここは?」
「達絵婆、客だ」
肉屋は答えず、吊るされた肉の向こうに向かって声をかけた。
奥はさらに寒いのか、白い煙が霧のように立っている。
確かに、そこに誰かがいる気配がある。
だが、返事はない。
ただ何か硬いものどうしが、こすり合わさるような音がする。
僕にはひどく不吉な音に聞こえた。
しばらく待っても応答はなく、肉屋はしかたがないといった風に、音のする方に踏み入っていく。
そこには、胸元のはだけた着物をまとった老婆がいた。
老婆は肉屋を一瞥もせず、一心不乱に包丁を研いでいる。
「あのおばあさんは? 寒くないんでしょうか」
異様な光景に、さすがに不気味になり、僕は肉屋の後ろに隠れるように一歩下がった。
「あれがバ美肉のバだ」
「バはババアのバだったんですか」
「誰がババアだって?」
低く大きい、轟くような声がした。
ババアが顔をあげ、こちらを向いた。
怖ろしい貌のババアだった。吊り上がった目はぎょろりと剝かれ、大きな口からは鋭い乱杭歯が覗いていた。
「礼儀のなってない客だね。頭から食ってやろうか」
座っていたババアが立ち上がり、大股で歩み寄ってくる。
近づいたことでまた1つ分かった。
このババアは大きい。
あまりにも大きい。
垂れ下がった乳の長さだけでも、ゆうに2メートルはある。
僕がかなり小柄な部類に入ることもあって、本当に一飲みにされてしまいそうな迫力があった。
僕は慌てて発言を撤回する。
「美しいマダム、バ美肉の美とはあなたことですか?」
汚いババアが片方の眉をあげた。少し機嫌が戻ったのかもしれない。
こういうときは、わざとらしすぎるくらいがいいということを、僕は日々の妻との会話から学んでていた。
「バ美肉を買いにきたんだ」
肉屋の男がババアに耳打ちする。
「足りそうか?」
「ふぅん……そうだねぇ、まぁ、小さいのでギリギリってところかね」
ババアの黄色く濁った大きな眼球が、ギョロリと動いて僕を見た。
頭頂部からつま先まで、全てを見透かされるような視線だった。
「……いいよ、売ってやるからこっちに来な」
迷いなくババアについていこうとする僕の腕を、肉屋の大きな手が掴んだ。
「もう一度言うが、やめといた方がいいぞ。諦める気はないんだな?」
男の顔は真剣で、本当に僕を気遣って言っているのがわかった。
それでも、僕の心は動かない。
愛する家族のため、僕は自分にできることはなんでもやると覚悟している。
頷いて返すと、肉屋は呆れたように頭を振って、手を放した。
「何モタモタしてんだい! 早くおし!」
霧はさらに深くなり、手招きするババアの姿も、おぼろげな影としか判別できない。
三途の川の渡し賃なら、手持ちの現金で足りるだろうか。
霧の向こうはより異質な空間だった。
無機質な質感の椅子と寝台、それから広い机。机の上には、大小様々な絵筆と、瓶入りの色鮮やかな染料がいくつも並んでいた。
何かの作業場のようであり、芸術家のアトリエのようでもあった。
「服を脱ぎな」
ババアの指示に僕は従い、ランニングとトランクス・パンツだけの姿になる。
掌で腕をこする。寒い。
「全部だよ」
「パンツもですか?」
「全部だ。いやなら諦めて帰りな」
なにか宮沢賢治の小説のようだ。と思いながら、僕は下着まですべて脱いだ。
ババアが椅子を指さして言う。
「そこに座りな。手は膝の上だよ」
言うとおりにする。
ババアが、机の上にある絵筆を手に取った。細い筆を太い指先で、摘まみ上げるようにして持つ。
筆先に染料をつけ、僕の肌の上をなぞる。
「ふふ」
「こら、動くんじゃないよ」
「すみません、くすぐったくて」
絵だ。ババアは僕の体の上に絵を描いている。
「あの、いったいこれは……」
「動くなといっているだろう。おしゃべりは嫌いだよ」
しばらくじっとして、筆の動きに意識を集中させていると、ババアが真剣なまなざしで描いているものがなんなのかが少しずつ分かってきた。
大きな瞳や、ささやかな膨らみとくびれ、柔らかそうな手足、きっと美しい少女の絵だ。
僕の体とは別の輪郭が、僕の体の上に描かれている。
「そこに仰向けで寝そべりな」
次にババアは僕を立たせ、隣の寝台に寝かせた。
全身くまなく絵で埋め尽くせるように、さまざまな姿勢を指示する。
口の中、瞼の上、さらには妻以外に見せたことがないような場所にまで、ババアは筆を滑らせた。
なぜこんなことをするのだろう。ババアは何者なのだろう。
様々な疑問が浮き上がるが、作業に没頭するババアは、問いかけても答えない。
「できたよ」
そう言われても、なにしろ自分の体だから、全貌がどうなっているのか僕にはわからない。
とにかく、ババアは自分の仕事のできばえに満足したようで、声にはかすかに誇らしげな響きがあった。
「ちょっと待ってください。バ美肉はどこですか? 妻に買ってくるように言われたんです」
「……お前、何も知らないで来たのかい。呆れたね」
ババアが大げさなため息をついて、優しい声色でつづけた。
「安心おし、仕事はちゃんとしたよ、嫁さんも満足するはずさ」
「そういうことでしたら」
「じゃ、御代をもらおうかね」
ババアが筆をおき、代わりにさっき研いでいた包丁を手に取った。
「……あの、それで、何を」
「お前、ここがどこだと思ってるんだい?」
ババアの腕がぬっと伸びて、僕を恐るべき力で寝台に押さえつけた。
「御代はお前の肉さ!」
僕は豹変したババアの迫力に圧されて、叫び声をあげることもできない。
彼女が冗談で言っているのではないことは明らかだった。
そして、もう逃げられないことも。
恐怖と絶望で全身が震えた。奥歯がガチガチと音を立てて鳴り、涙と鼻水が噴き出した。
「なんだ今さら、肝の太い男だと思ったのに、情けない」
「……いえ……」
けど、僕は愛する家族のためなら、どんなことでも耐えられる。
「大丈夫です……お支払いします……」
「じゃあ、じっとしてな! いつまでも震えてると、余計なものまで切り落とすよ」
そうは言うものの、体が言うことを効かない。
じっとしていようとする意志に反して、僕の肉体はババアの手から逃れようと暴れだしていた。
「おい! この馬鹿を押さえな!」
ババアがそう叫ぶと、僕を押さえつける腕がさらに増えた。
見えないが、おそらく肉屋の腕だろう。すぐ横で彼の声がした。
「俺は止めたからな。何度も」
「ご、ご、ご……っ!」
「ごめんなさい、ご迷惑おかけします」と言おうとしたが、歯の根が合わずになかなか言葉にならない。
その前に、ババアの包丁が背骨に沿って差し込まれた。
「ひっ!」
痛みはほとんど感じない。自分の肉体が、バターのようにスライスされていく感触だけがあった。
ひどい異物感と、喪失感。
ババアは絵の輪郭をなぞるようにして、包丁を滑らせていた。
「あーっ! あーっ!」
押さえつけられて身動きは取れず、僕は子供のように泣きわめくことしかできない。
ぼとりと僕の一部が床に落ちる音がした。
まるで耳なし芳一の結末だ。僕の体の、ババアの絵が描かれていない部分が、次々切り出されていく。
ババアが僕を握りしめ、人形のように空中に持ち上げた。その手に握られた包丁が、僕の目に突き入れられる。
完全に視界が閉ざされ、そこで僕の意識は途切れた。
……。…………。
……次に視界が開けた瞬間、僕はスマートフォンを取り出し、時間を確かめた。19時5分。
もうこんな時間か! これ以上遅くなると、おなかペコペコの彼女は泣いてしまうかもしれない。僕は寝かされていた場所から飛び上がるようにして立ち上がった。
いつもと手足の長さが違う、視界が低い、僕はバランスを崩して少しよろめいた。だが、そんなことは些細な問題だ。
「か、帰らなきゃ……」
「待ちな」
ふらつきながら階段に向かう僕を呼び止め、ババアが薄茶色の紙袋を手渡してきた。
紙袋には、肉屋の店名が印刷されていた。
「これは……?」
「釣りだよ。お前は小さかったから、ずいぶん少ないけどね」
ババアの言葉に、さっと血の気が引いた。1キロあるかどうかというくらいだった紙袋の重さが、手の中で急に重みを増したように思えた。
僕はごそごそと鞄からエコバックを取り出し、急いで中にしまった。一刻も視界から追いやりたかった。
2人に背を向け、階段を足早に駆け上がる。
今日の晩御飯が何であっても、それが肉料理なら、僕が手を付けることはないだろう。
(了)
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