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もしかして。。。の感覚

美容室の帰り道、浮かれた気持ちを抑えきれず隣のスーパーに潜り込んで、晩酌用に五百円程度の白ワインを買ってしまった。
何故浮かれているかと云うと、美容師さんとの会話が非常に楽しかったこととカットの仕上がりが良かったからだ。
美容室には大体二ヶ月に一度くらいのペースで行くのだが、とてもSNS上には書けないような内容をここぞとばかりに喋り倒してくるから気分爽快なのである。
極めてプライベート的なことや、私の仕事の裏事情など、ここでは書けないことが山のようにあるのだ。
こう書くと、まるで中途半端に文章を書いているようだが、そういう意味ではない。
私の場合はそこまで書くか?というくらい結構赤裸々に書いているつもりだ。
白ワインは取り敢えず冷蔵庫で冷やしている。
夜が来るまでに、この文章を書き終えてしまおう。

実は元々、自作品の取説みたいなものを書いていた。
何故なら村上龍氏が『村上龍文学的エッセイ集』で、そのようなものを書いていたから面白いのではないかと思ったからだ。
しかし、全て削除してしまった。
早い話が私如きが書いても、何の説得力もなかったからだ。
書き方に問題があるのだと思うが、「何様?」と思われたらどうしようとか、そんな気持ちがよぎった。
一歩間違えれば、ネタバレにもなりかねない。
要は技術不足という話なのだが、もっと時間がある時に吟味しながら書くべきだと思った。
そもそも、私にも書けるんじゃないか?と思うところが間違っているのかな?
しかし、私にも書けるんじゃないか?と思った瞬間と云うのはとても大きな好奇心に包まれている。
四十一歳にもなって「子供のような」と言ったら笑われるかも知れないが、文字通り「子供のような」好奇心だ。
色んな本を読んでいて、自分にも書けるかどうかで判断する時がある。
サスペンスを読んでいる時などは、とてもじゃないが私は死ぬまでこれを書けるようにはならないだろうなと感じる。
だけどちょっとした短文のエッセイなら、もしかして。。。という錯覚に陥るのだ。
実際書き出してみると、そう上手くは行かず、なんて自分は短絡的で愚かなのだろうかと少々落ち込んだりする。
もしかしたら書けるかも知れないという錯覚は、奢りや自惚れではない。
あくまでも好奇心やそのものに対する憧れから来るものだと思っている。

自作品の取説を書こうとして上手く行かなかったことは、誰かに見られたわけでもないのに妙に恥ずかしくて、何とも言えない情けなさを感じた。
しかし、村上龍氏はツイッターのbotでこう言っていた。

「俺は絶対にやれるという意志と喜び、それを才能と呼ぶ」

だとしたら、村上龍氏が自作品の取説みたいなものを書いていて、それを読んで面白かったから私も書いてみようかなと思ったことは決して愚かではないということが言える。
でき上がった文章が下手だったとしても、もしかして。。。の錯覚に陥った私は決して恥ずかしくはないと思うことにしよう。
もしかして。。。の錯覚は、寧ろ私のような「これからの人」にとってあった方がいいものではないだろうか。
本を読んだり音楽を聴いていて、もしかして。。。の感覚って物創りをしている誰もが持っているものなのかも知れない。
だとしたら、堂々ともしかして。。。の感覚を大事にしても良いだろう。
恥ずかしがる必要も、落ち込む必要もないじゃないか。
そのように考えると、無力な私にも少しだけ光が差して来て、やはり自分を信じながらこのまま進もう、そう思えた。
物創りしている人の多くは、自分の才能の有無に苦しんでいる。
勿論私もその中の一人だが、もしかして。。。の感覚を大切に頑張っていこうと思う。
それでいいだろう。

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