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能代工業を7年ぶりのセンターコートに導いた男たち 渡邉竜也編(2)

2014年度ウインターカップ 準々決勝。名門・能代工業、7年ぶりのセンターコートへ――その瞬間に、どれほどのバスケファンが心を躍らせただろうか。奇しくもあれから7年の月日が流れた。7年ぶりに能代工業をセンターコートに導いた選手たちはあの日何を感じ、そして7年後の今、何を思うのか。4人へのインタビュー連載の2回目は、地元秋田でスキルコーチとして活動する渡邉竜也に話を聞いた。(前編はこちらから)

主な登場人物:
長谷川暢 2014年当時3年生、背番号4番、キャプテン。現在はBリーグ 秋田ノーザンハピネッツでプレー
渡邉竜也 2014年当時3年生、背番号7番。現在は地元秋田でスキルコーチとして活動。YouTube「FiND basketball school」で動画レッスンも配信
猪狩渉 2014年当時3年生、背番号12番。卒業後、スラムダンク奨学金8期生としてアメリカに渡った。現在は米独立リーグTBL ダラス・スカイラインでプレー
盛實海翔 2014年当時2年生、背番号14番。翌年は4番を背負い、キャプテンとしてウインターカップ3位の成績を収めた。現在はBリーグ サンロッカーズ渋谷でプレー
佐藤信長 能代工業OB。日本のトップリーグでプレーした。2008-15年の能代工業HC(ヘッドコーチ)。現在は東洋大学男子バスケットボール部HC
小野秀二 能代工業OB。選手として日本リーグや代表で活躍したのち、HCとして日本の数々のトップクラブで指揮をとった。2017-21年の能代工業HC。現在はBリーグ 大阪エヴェッサのアカデミー校長(ゼネラルアスレティックマネジャー)
俺たちはチャレンジャーだ

宮本 信長先生は割と下の世代を積極的に使っていた印象があります。猪狩渉選手もそこにもどかしさを感じていたようですが、渡邉さんはどうですか?
渡邉 まさに渉と一緒です。いつもそれで話が広がるんですけど(笑)。当時、僕もはっきり先生に言われたことがあって、シュートを1本でも外すとすぐに交代が来るんですよ。大体盛實が呼ばれるんですけど、僕は「お前には1本しかチャンスはない」って(笑)。
宮本 えぐい(笑)。
渡邉 「それで結果を出さないんだったら、俺はお前を使わない」みたいな感じでしたね。当時からプロのようなシビアさがあって、いつも「同じくらいのレベルだったら、下の世代を使う」とはっきり言われていました。当時シューターで天秤にかけられていたのは僕と盛實なんです。結局は3年生になる前に結果を残さないとなかなか難しかったなって感じですね。
宮本 それは高校生という3年間のストーリーだと結構しんどいですよね。
渡邉 そうですね。
宮本 2014年のウインターカップも正直3年生は長谷川暢だけがいて、他を支える2年生みたいなチームだったじゃないですか。それでもウインターカップを勝ち上がれたのは3年生の力が大きかったと猪狩選手も言っていましたが、印象的なゲームとかありますか?
渡邉 本当に1つ1つという感じが正直なところで、あの時、暢が1回戦、2回戦は全然ダメだったんです。暢は責任感が強すぎて、負けた時の責任は全部自分にあるっていうタイプなので、プレーも全然上手く行かないし、いつもはみんなに声をかけるのに喋らないし。これはやばいぞっていう空気感だったのをチームで支えたのが1回戦、2回戦でした。3年生はもちろん、2年生も頑張ってくれたし、チームで暢を支えて、先生も含めてチームで「最後は暢しかいないぞ」っていう雰囲気を作って、3回戦の東海第四(現東海大札幌)あたりから徐々に調子が戻ってきて、最後は暢がやってくれました。当時アシスタントコーチで入っていた栄田先生は、ちょうどいい距離感で選手とコミュニケーションをとってくれる方で、それがすごくありがたかったです。ウインターカップのときもホテルに帰ってからミーティングをやってくれましたし、試合前の声かけだったりは支えになりました。
宮本 どんなミーティングが行われたんですか?
渡邉 チームでやるべきことの確認や当日の流れ、試合までのモチベーションの保ち方など、技術面に限らず試合前のメンタリティーの部分を栄田先生にはサポートしてもらいました。朝の散歩とラジオ体操は毎度のルーティンでしたね(笑)。特にウインターカップは夕方の試合も珍しくないので、試合前の過ごし方が凄く大事になってくるんです。食事の取り方なども細かく教えてもらいました。
宮本 なるほど。渡邉さん個人としては、ウインターカップにどう臨みました?
渡邉 ウインターカップの予選あたりから、絶対にそこで活躍したいと思っていたので、ウインターカップに向けた準備を今までより多くやりました。シューティングを多くするとか、本当に小さな準備を重ねてきて、プレータイムも伸びました。ウインターカップはコンディション的にはすごく良かったんです。シュートも入っていたし、準備してきたことは間違ってなかったと思えましたね。
宮本 そのウインターカップで7年ぶりに能代工業がセンターコートに戻ってきたことは、能代工業への思いが強い渡邉さんにとっては特別なものだったかなと思うんですけど、僕らの年代の感覚でいうと、能代工業はあそこにいなきゃいけない存在なんですよ。
渡邉 そうですね。それをずっと練習中から先生にも言われていましたし、能代工業の歴史や伝統の中で「そうだよな」とは感じていました。ただ、僕らのなかでは「強い能代工業であるべきだ」というメンタリティーをなくした方がいいという話になったんです。
宮本 それは3年生の中で?
渡邉 そうですね。あと実際は先生もそう思っていたところはあったみたいです。優勝が当たり前というメンタルでは臨まないで、しばらく勝ってないんだから俺たちはチャレンジャーだと。「必勝不敗」という横断幕がありますけど、1つ1つ勝たないと優勝なんてできないし、センターコートにも立てない。だから今までのマインドというかメンタリティーは捨てて、1つずつ勝ち上がることにシフトしていました。

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少しのきっかけで自分のプレーも性格も変えられる

宮本 7年ぶりにセンターコートに立って、そのあと渡邉さんは岩手大学に進学します。どうして岩手大学を選んだんですか?
渡邉 高校で、挫折とまではいかないですけど、もっと自分の良さを出せるところでプレーしたいと思いました。関東の2部とか3部の大学からお話はあったものの、挑戦するなら関東1部がよかったというのも正直なところで。自分のプレーを最大限に発揮できる場所でやりたいと思って、岩手大学を選びました。
宮本 自分の力でどこまでいけるか、みたいな?
渡邉 そうですね。兄が岩手大学に進んでいたので、そういう繋がりもあって知っている大学だったし、スタイルが能代工業とも似ていて、ここでなら自分の特徴を活かせるなと思いました。
宮本 その4年間はきっと「能代工業の選手だ」みたいな見られ方をするじゃないですか。どんな感じでしたか?
渡邉 まさに、です。僕はそういう見方をされるのが好きではなかったんですけど、途中で「自分で選んだ道でここまできたのになんでそういう否定的な考え方をしているんだろう」と思ったんです。単純に結果を出せば、やっぱり能代から来ててすごいなと思われる。そう気づいてからは吹っ切れて、これまで以上に結果にこだわるというマインドでやっていました。それはやっぱり暢や渉から学んだことがたくさんありましたね。少しのきっかけで自分のプレーも性格も変えられると思いました。
宮本 コートでのあり方というか、バスケ人として?
渡邉 そうですね。それまではそういうきっかけを自分自身で潰していたと思います。ちょっと嫌なことがあれば不貞腐れて態度に出しちゃうこともあったし、だけど、きっかけ作りは自分でできることだし、それこそ能代工業に行かなかったら絶対に気づけなかったことだと思います。
宮本 大学を卒業してからはどんな道に進まれたんですか?
渡邉 一度、静岡の実業団チームに入りました。その後、秋田に帰ってきて、普通の仕事をしています。秋田に戻ってきた時は、バスケット以外で何かスキルを持って歩んでいこうという気持ちがあったので、バスケットを捨ててもちゃんと生きて行けるように、社会人として違うステップを歩もうと思ったんです。教える仕事なんですけど、そこで改めて教えることが好きだなと気づいて、「あ、バスケットを教えたいな」って思ったんです。今は仕事をしながらバスケットのスキルコーチをやっています。

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宮本 能代工業を卒業した7年前は今の自分をイメージしていましたか?
渡邉 いやー、全く(笑)。それこそ高校の時の話に戻りますけど、暢とかは自分の理想に対して、みんなを巻き込みながらやっていました。暢のそういうところが僕は好きで、近くで見てきたから自分もやれると思えましたね。
宮本 能代工業を卒業した7年後、渡邉さんは巡り巡ってバスケに戻ってきました。これからの7年のビジョンがあれば聞きたいです。
渡邉 そうですね。渉がよく「今までの実績は変えることはできない。でも、これからの自分の行動で新しい道は作れる」と話してくれるんです。だからゼロからのつもりで留学もしたいし、もっと知識を得て、機会があればBリーグにも挑戦したい。もちろん海外のリーグとかもコーチとして携われるチャンスがあるなら、チャレンジしたいですね。
宮本 地元秋田への思いはやっぱり強いですか?
渡邉 あります! それはもう本当に。
宮本 秋田ノーザンハピネッツも強くなってきて、逆に能代工業は能代科学技術高校に名前を変えて、1つの歴史が終わりました。それでも自分の経歴には能代工業という名前が残るなかで、「秋田で勝負をしていくぞ」という気持ちはありますか?
渡邉 秋田にこだわる理由はまさにそこで、能代工業の名前が変わってもバスケットが強い県でありたいし、やっぱりバスケットが好きな方が多いので、もっと盛り上げたいという気持ちは本当に強いです。
宮本 そういえば、渡邉さんは能代工業の7番でしたよね?
渡邉 そうです。
宮本 今、後ろに能代工業の7番のユニフォームが見えた時に、すごく鳥肌が立っちゃって。7年をテーマにしたインタビューで伝統的に能代工業のシューターがつける7番の選手の話を聞いていることに今、気づきました(笑)。
渡邉 ハハハ。それも含めて、秋田の能代工業を背負って頑張りたいと思います!

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渡邉竜也コーチのレッスン動画はこちらのinstagram, YouTubeから!


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