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信長公記(32)斯波義銀と吉良義昭の和睦

ようやく歴史書の読み解きができて少しうれしい。これから心に余裕が出来て、継続して出来たらいいな、と思う。

清州に近い、30里(約3km)離れた下津おりつの郷に正眼寺という会下寺えげでら(寺を持たない僧である会下僧がいる寺)がある。

要害ともなりそうな構えの土地。

上の郡の岩倉でここを砦にすると風説あり。

そのため清州の町人たちをかりだし、正眼寺の藪を切り取ろうと城から兵を出したが、町人が数えたら、馬上の者は83騎もなかった。

敵方も軍を出し、たん原野に3000ばかりの兵を備えた。

信長公は諸方を駆け回り、町人を集めて竹槍を持たせ、備えの後方をうまく取り繕い、先方へは足軽を出して適当にあしらった。
そうして互いに軍兵を収められた。

戦況半ばの弘治2年(1556)4月上旬、三河国吉良殿(吉昭)と武衛様(斯波義銀)の平和裏なご参会の交渉がうまくいった。

駿河(今川氏真)で吉良殿のお世話をし、武衛様には信長公がお伴をして出陣。

三河の上野原で双方互いに向かい合って軍兵を整列させたが、その間1町5段(約160m)もなかった。

武衛様、吉良殿が木几に腰を掛け、上下争いになることを承知して、どちらということなく10歩ばかり双方から真ん中へ進み出られたものの、格別のこともなく互いに黙礼して、また元の本座に戻った。

それで双方の軍兵はそのまま引き取りになった。

信長公は武衛様を尾張の国主として崇敬され、清州城を進上なさって、自身は清州の北櫓にご隠居になった。

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