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若き徳川家康公の人生を振り返る

幼名期の家康公

0歳から6歳まで

徳川家康公は1542年12月26日生まれ。竹千代という幼名でした。竹千代は、松平家の先祖から嫡男に対して付けられる名前でした。

家康公が生まれた当時、松平家は今川家と織田家の緊張状態のピークにあり、いつその身に何が起きるか分からない状態。英才教育などもままならない状態だったのかなと思います。

小さい頃の教育といえば、母の影響が大きいだろう、と思います。それは現代も同じで、人の人格は、母の考え方をモロに影響を受けると思います。
生みの母は於大の方。しかし、於大の方は水野家出身で、その水野家は家康出産後、織田方に付きます。当時松平家は、今川家に臣従状態だったため、於大の方は松平家から離縁されます。その時、家康公はまだ3歳。右も左も分からずの状態。その後は、松平家出身の於久(祖父・清康の姉)に育てられます。

家康公が数え6歳(今でいう5歳。幼稚園年長!)の頃、人質として今川家に行くことに。しかし、ここで事件が。案内役の戸田宗光が織田家と通じていました。

家康を船に乗せ、今川の領土へ向かう手筈だったのが、進路を変えられ、家康公の身は織田家に引き取られます。

0~6歳 振り返り

ざっとここまでが幼少期の家康公。簡単に振り返るだけでもかなりの波乱万丈です。明日死ぬかも分からない身として毎日を生きてきました。
この時代だと、そういったことが当たり前かもしれません。特に、大国に挟まれた小大名はそういった身に置かれることは武家の宿命でしょう。

大成してからの家康公は、”戦なき世を作る”ことをテーマにまちづくりを進めていきました。自分と同じような身の人間を作りたくない、という思いがあったのかもしれません。

6歳から元服

織田方の身に置かれた家康公は、その後2年間人質(ほとんど捕虜状態?)として過ごします。周りには家族や歳の近い人もいない。毎日が地獄のような日々を2年も続けます。

数え8歳(小学2年生頃)の時、ようやく本来の人質先である今川家に移りますが、今川家に行く前に父である松平広忠は家臣に討たれ、死んでしまっています。8歳に至るまでに、父もいなくなり、母とも離れ離れ。心がすさんでしまいそうです。

ちなみに家康公は、今川家では厚遇を受けたとされています。これは、今川義元の将来的な軍事戦略で、統治の難しい三河一国を徳川家康公に任せようと判断したものと言われています。
また、名軍師・太原雪斎を教育役に置いたとされています(所説あり)。

ここで能力をめきめきと伸ばす家康公。おそらく、織田家にいた頃の2年間の屈辱があったから、「死に物狂いで学んでやる!」という思いがあったのかもしれません。

数え14歳(13歳。中学1~2年生の頃)、ついに元服を果たします。今川家では、厚遇を受けた家康公は、今川義元・太原雪斎の背中を見て育ちました。

6歳~元服 振り返り

既に他の人とは異なる人生を歩んでいた家康公。昔の人は本当に苦境に耐え、頭を使って生き抜いてきたんだな、と感じます。

よく家康公は”忍耐の人”と言われますが、この幼少期の経験が人間を作り上げたのだと思うと、幼い頃の経験はとても貴重だな、と思わされます。

論語・孫子・貞観政要…。戦国武将は元服したら、戦に明け暮れる宿命のため、本を読む暇もなかなかないし、若い方が学問を学ぶ頃としては最も時間を割くことができるし、頭も柔らかく吸収しやすいので、最適です。幼い頃にこれらの書物に出会い熟読し、理解したからこそ、後の成功があったのだと思います。

現代では、昔と比べると命はとられないですし、休みも多い。書物を読む時間も当てられる一方で、命をかけて過ごすこともないため、学びに対して真剣になれない。感性を磨くためには、厳しい環境に身を置くことも、今の時代、大切なのかもしれません。安定した場所に身を置くことは大切ですが、勇気を出して新しい環境に飛び込むことも、大切に思います。

長々となってしまいましたので、ここまででひとまず終えることにします。

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