現代川柳の中の文芸性〜川柳の入口各論

 『金曜日の川柳』という一句鑑賞アンソロジーが手元にあります。その中には「若手」と呼ばれる年代の作者の句もあります。最先端の川柳は、今までの川柳とは何かが違います。川柳の「穿ち」「軽み」「おかしみ」という三大要素に「落とし」まで考慮して、一言で言うとコミュニケーションの受け答えや切り返しを期待する川柳形式において、最新の川柳はチューニングを変えているのではないかと思います。
 前回、読み方が現代川柳と異なる若手作者の川柳を「文芸川柳」と名づけたものの、概要しか書いていないので、論の整理を含めて、詳論を述べていきます。
 僕の考える「文芸」は、言葉を用いて世界を起こして、何か山場を作って、観測を打ち切る。川柳の歴史でいうと、本来連歌で連綿として続けることで成り立っていた「つかみ」から「落とし」までを17音でやらなければならないという制約があります。これが非常に難しい。短くても意味が通じると思って、短い言葉の会話を想像して、例えば、おしゃべりの中でずっと黙って話を聞いていて、最後にぽつりと一言言って落とすのが上手い人がいますが、あれだって、他の人たちの会話がぽんぽんと続いていることが前提なので、会話なくして落としはないんです。
 短い言葉で「つかみ」をするには、多くの場合外部文脈を必要とします。ぼくは俳句詠みなので、俳句の例を持ち出しますが、川柳に比して俳句の得意とする「世界の立ち上げ」においては、季節の言葉や地名の情緒的な文脈を利用します。読者が想像しやすい世界観を参照して、テーマに共感や気付きを生むようです。俳句は、「言い仰せて何となる」という教えがあるように、「つかみ」をした後は、「付句(つけく)」や「挙句(あげく)」に任せて、俳諧・俳句として独立しても「読者に委ね」てしまいます。俳句は投げかけたきりで落ちは語らないという文芸形式のようです。
 「俳句化する川柳、川柳化する俳句」という言葉を聞いたことがあります。お互いがお互いに似てきて、両方とも俳句と川柳の中庸に近づいているようです。川柳も季語の情緒を借りたり、俳句も切字を使わず敢えて流したり、相互が相互に似てきているのは思うところがあります。作り方が「つかみ」に特化した俳句と「落とし」に特化した川柳が、文芸になるために両方の属性を持つようになり、俳句は川柳に学び、川柳は俳句に学んだ結果なのでしょう。
 話が抽象的になってきました。気分を変えて、『金曜日の川柳』に鑑賞されている実作を見て行きましょう。

  五十歳でしたつづいて天気予報  杉野草兵
  世界からサランラップが剥がせない  川合大祐

『金曜日の川柳』ほか

 以上の句を比較検討していきます。杉野句は、わかりやすい「つかみ」を作ることなく、テレビのニュースショーという共通認識を利用して、状況を説明します。テレビを見ないことが珍しくなくなって、将来的にこの句の「場面の前提」が読まれなくなっていく可能性が高いですが、テレビ世代ならこれだけでニュースショーだと分かる文脈です。「あるある」の光景の切り取り方を工夫することで、光景が突然不気味なものに変わってしまいます。ニュースのアナウンサーの情緒破綻ぶりを表現したいという意図も読み取れます。今、たまさかテレビを見ている人には、アナウンサーがこんな淡々と喋るかいなと疑う人もいそうです。今テレビを見ていると、オーバーアクションを取るようにシフトチェンジしているみたいで、アナウンサーも泣いたり笑ったりしますもんね。話が脱線しましたが、内容に「軽み」があって、「おかしみ」というより奇妙さはありますが、「穿ち」がある。これが、川柳の形式に則った「現代川柳」として好例であると思われます。
 川合句、「世界」で「つかみ」を作ります。「世界から」という言葉には重みがあります。そして、生活の身近なフレーズを添えて、一見して脈絡のない二つのフレーズが一句の中にぶつかります。これは「二物衝撃」という手法です。わかりやすい言葉を使いながら「二物衝撃」によって非常識な世界観を作り出しています。俳句の「二物衝撃」は、一見脈絡がなさそうだけど、どこかに連想のきっかけがあるものですが、川合句にはそれが見当たらない。もしかしたら、サランラップのメーカーが世界進出しているとか、地球儀を保護しているビニールを見たとか、そうした脈絡があるのかもしれませんが、それは理屈で、感覚的に見ると、共感的というより光景のプレゼンテーションをしているように読めます。「こういう光景、面白そうだけど、どう?」という問いかけは、発句(俳句)の「問いかけ」に似ているように思います。しかし、さらりと読んだ多くの読者が共感できないテーマが「穿ち」を喚起せず、消化不良のまま「剥がせない」と言い切り、その言葉の強度が「落とし」となっているようです。テーマはあるようだけれど、なんだかぼんやりとしている感じは、旧来の川柳とは違う傾向です。それゆえ、本稿では、川合句に代表される傾向を「文芸川柳」と呼んでいます。
 僕が直感的に新傾向の川柳を「文芸」と定義した理由は以上のように説明できますが、今見てきたように、「文芸川柳」は川柳の三原則を狙った作り方をしていないと考えられます。むしろ、一つの物語の断章を川柳のフォーマットに乗せて、「つかみ」「テーマ」「落とし」を要件とした、川柳の文脈とは違う新たな「文芸」と言えそうです。川柳を素因数分解して俳句の要素を取り入れることで、物語の「つかみ」と「落とし」を確保して、一つの文芸に昇華させた形式であると理解した方が良さそうです。このように川柳を換骨奪胎することで、今までのセオリーでは川柳になり得なかった「独白」が可能になっています。作者の思いを言葉に込めることは、読者の共感の可否のリスクが伴いますが、川柳に新たな可能性を示したことは間違いないでしょう。
 「文芸」化が川柳の俳句化の延長にあるとすれば、川柳の派生型と言えるのですが、ただの派生ではなく、川柳の構成要件を素因数分解して、文芸として再構成されることを狙った野心的な変化であるため、「文芸川柳」を旧来の「川柳」の枠として語ることには注意が必要です。見かけ上は川柳の形式を採っていますが、川柳の精神をそのまま伝えているとは言い難いです。むしろ、川柳の精神性(詞章の切り返し)を伝えているのは大喜利で、「型は残っているが志は残っていない」文芸川柳と「型は破ったが志は残っている」大喜利を比較して、その歪さがなんとなく現代的で興味深く思います。

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