俳句で知る「わたしの武蔵野」

 少し前の記事ですが、読売新聞の記事に、「武蔵野」という言葉について深掘りした記事がありました。

(参照)
・「武蔵野」はどこ?…範囲は様々、武蔵野市も「はっきり由来はわからない」 : 読売新聞


 武蔵野の醸し出す情緒は、作者によって異なる結果をもたらすというのが記事の結論でした。雑にまとめれば、「わたしの武蔵野」ということでしょう。それで話が終わってしまいますが、せっかくなので「わたしの武蔵野」を深掘りしてみます。
 俳句の質量が多く検索できるので、ネットで拾った俳句から五句選しました。

  涼しさや先武蔵野のよばひ星  榎本其角
  武蔵野の月の山端や時鳥  大淀三千風
  武蔵野に草はと云へば灯取虫  寺田寅彦
  武蔵野の水音聴くや西行忌  志城柏
  武蔵野の土となりたる波郷の忌  瀧春一

 ちなみに、芭蕉にも作例があります。

  武蔵野の月の若生えや松島種  芭蕉
  武蔵野や一寸ほどな鹿の声  芭蕉
  武蔵野やさはるものなき君が傘  芭蕉

 選句の傾向を見ていくと、武蔵野の土地や風景、生命を題材にした句に心惹かれました。人事や動物よりも、景物の方に強い関心を持っています。選句した段階で避けられないことですが、普遍的な武蔵野というよりは、単なる好みですね。「わたしの武蔵野」は、死を積み上げた土地の上に、人も自然も暮らしているような場所と認識しているようです。

余談

 2000年代のロックバンドが歌った「武蔵野」に関心を持っていた時がありました。地誌としての武蔵野を見るか、思い出の武蔵野を見るか、「公」と「私」が対比的で面白いのですが、どちらにしても死のにおいが醸し出されるように思いました。「武蔵野」の持つイメージから死のにおいを感じ取ることは、こうした作品からの蓄積もあったようです。

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