「宗教2世」は“信教の自由“を侵害されているのか?

はじめに

2024年6月19日に共同通信が伝えたところによると、安倍晋三元首相銃撃事件で起訴された山上徹也被告は、検察側が請求した精神鑑定で「完全責任能力」があることが認められたといいます。記事は、山上被告の弁護人たちが鑑定結果を踏まえ、被告の当時の精神状態を争わない方針であることも同時に報じました。

このニュースがSNSに広まった日、X(元Twitter)上で毎日新聞カルト・宗教問題取材班のアカウントは、記事を紹介するリンクに次のようなコメントを付して投稿しました。「責任能力に争いがない以上、「宗教2世」の問題でクローズアップされた生育過程(情状面)と、事件に至る動機面が公判のポイントになりそうです。」

毎日新聞は、安倍元首相が亡くなって8日後の2022年7月16日の朝刊には早くも「親の信仰「宗教二世」苦悩」という見出しの記事を掲載しており、他の主要な全国紙と比較しても積極的に「宗教2世」について報じてきた姿勢が目立ちます。「声を聞いて—宗教二世—」という連載に端を発した「宗教と子ども」キャンペーンは、『ルポ 宗教と子ども——見過ごされてきた児童虐待』として書籍化もされ、2024年3月に明石書店から刊行されました。

ところが、他でもなくこの本の中に、先ほどのXへの投稿とは食い違うような記述が見られるのです。「はじめに」の部分にはこんな文章があります。

 宗教二世という言葉がある。親の信仰の影響を受けて育った人たちのことだ。
 山上被告が、宗教二世といえるのかどうかは分からない。山上被告自身は、旧統一教会の信者ではなかった。山上被告の成育環境が、殺人という行為の免罪符になるわけでもない。

毎日新聞取材班編『ルポ 宗教と子ども——見過ごされてきた児童虐待』明石書店、2024年、4ページ。

ここでなぜ「山上被告が、宗教二世といえるのかどうかは分からない。」と留保をしているのか、本の別の箇所を読むと理由が分かるかもしれません。こう書いてあります。

 山上被告は事件後、不当な寄付勧誘を規制する法案が成立したことについて「被害者が救済されることを願っている」と接見した弁護士に話したという。ただ、宗教二世という存在にどのような感情を抱いているのか、正確なところは分からない。
 山上被告は二一年五月、ツイッターにこのようにつづった。〈二世の苦しみか。実に下らない。親を殺してニュースになる二世が現れて統一教会の名が出れば許してやろうかとも思うが〉〈宗教二世の「結婚ガー就職ガー孤立ガー」なんてカルトのやってきた事に比べりゃ随分高尚なお話なことだ〉。

毎日新聞取材班編『ルポ 宗教と子ども——見過ごされてきた児童虐待』明石書店、2024年、109ページ。

上の2つの引用部分をまとめると、山上被告は旧統一教会の信者であったことはなく、「宗教2世」を名乗る人たちが訴える生きづらさや苦悩に対しても冷淡な態度をとっており、彼を「宗教2世」といえるどうかは、はっきりしないようです。加えて記者たちにとってもその事実は周知のものだったことが分かります。だとすると、毎日新聞カルト・宗教問題取材班がXに投稿した文章で公判のポイントになりそうだと予想する、「「宗教2世」の問題でクローズアップされた生育過程(情状面)」とは、いったい何のことを指しているのでしょうか。

山上容疑者が母の信仰していた旧統一教会に恨みを抱いていたという事件の背景は、銃撃の翌日には捜査関係者からの証言に基づく報道が出回りだしました。その後、にわかに「宗教2世」の問題が社会問題として大きく取り扱われるようになります。しかし、このような経緯で大きな注目を集めるようになったにも関わらず、事件から2年近く経った現在でも、「宗教2世」問題というのは依然として曖昧でつかみどころがないところがあります。

そもそも、『ルポ 宗教と子ども』では「宗教2世」のことを親の信仰の影響を受けて育った人たちとしていましたが、これは捉えようによってはほとんど全ての日本人が含まれるような定義です。ところが、この本で取り上げられるのは新宗教として括られる宗教団体の関係者、中でも旧統一教会とエホバの証人のケースが大半を占めています。

けれどもこの2つの教団に関わりのある当事者に限定してもなお、彼らが語る経験や親や教団に対して抱いている感情はまちまちであり、その上それぞれの人生模様は実に多様です。果たして、彼らが語る体験談と山上被告の「生育過程(情状面)」との間に、「宗教2世」の問題として一括りにできるような共通点が何かあるのでしょうか。また、もし仮に共通する要素があったとして、それは例えば選挙期間中に遊説していた国会議員を自作銃で狙撃した罪に対する情状になりうるほどのものなのでしょうか。

今、「宗教2世」について一般的に抱かれているイメージというと、おそらく狂信的な親の犠牲になり「宗教的虐待」を受けた可哀想な子どもというようなものでしょう。もちろん、自らの生育歴をそのように語る当事者が存在することは確かです。ですが、仮に“親の信仰の影響を受けて育った人たち“がおしなべてこのような悲嘆を抱えて日々を暮らしていると考えるならば、それはあまりにも偏ったイメージだと言わざるをえません。

国家の介入が必要とされる可哀想な子どもという「宗教2世」のイメージは、現実の政治にも影響を与えています。立憲民主党の山井和則議員は2023年2月16日に国会内で開かれた野党ヒアリングで、「合同結婚式までには解散命令請求が出されなければならない。もし遅れたら、合同結婚式を経て生まれた子供たちから『なぜ止めてくれなかったのか』ということになりかねない」と発言し、一刻も早く旧統一教会への解散命令請求を出すよう政府に要求しました。この発言などは、もはや優生思想に片足を突っ込んでいるようにすら思えます。

そして、じきに始まる山上被告の公判では「宗教2世」の問題でクローズアップされた生育過程が情状面で重要なポイントになる、というのが毎日新聞カルト・宗教問題取材班のアカウントの見立てのようです。山上徹也被告本人はおそらく、「宗教2世」だと自認していないにも関わらず、です。

気の毒で可哀想な子どもという「宗教2世」の支配的なイメージが社会に広く行き渡り、このイメージの影響を受けて重要な政治的判断がなされたり、歴史に残る大事件の公判の結果が左右されたりするのであれば、我々は社会問題としての「宗教2世」問題について、今一度真剣に考えてみる必要がありそうです。では、一体どのようなやり方でこの課題に取り組むべきか。私は「社会問題の構築主義アプローチ」と呼ばれる発想が役にたつのではないかと考えています。

◆社会問題の構築主義アプローチとは何か

社会問題の構築主義アプローチとは簡単に言うと以下のようなものです。すなわち、社会問題というのはある個人や団体が「〇〇は社会問題だ」と主張して活動している状況そのものを指し、それ以上でもそれ以下でもない、という考え方のことです。この分野の基本書を書いたマルコム・スペクターとジョン・キツセはこれを、社会問題とは「なんらかの想定された状態について苦情を述べ、クレイムを申し立てる個人やグループの活動」だと定義しました。

このアプローチでは、ある社会問題について、それらの「実態」はどうなのかなどに関心を持つことはありません。注目するのはクレイム申し立てと呼ばれる言説実践と、それに対する他の人々の反応によってクレイムが再構成され、次の段階へと受け渡されていく様子です。人々が織りなす言説のやり取りを観察し記述することで、ある社会問題が構築されていくプロセスを描き出すことを目的としています。

「宗教2世」問題が社会問題であるならば、そこには必ず「宗教2世」問題の有害さ・害悪さを訴えている人々の存在があるはずです。次節では「宗教2世」問題の構築にあたり、初期の段階で主導的な役割を果たしたクレイム申し立て者の活動と、そのクレイムの内容を見ていくことにしましょう。

◆「#宗教2世に信教の自由を」というクレイム

親の信仰に子どもが巻き込まれるような宗教トラブルは、過去にも何度か社会的に物議を醸したことがあります。例えばエホバの証人の両親が交通事故にあった男児に輸血を施すことを拒否し、その後男児が亡くなった事件などはTVドラマ化もされ、広く知られることとなりました。フォトジャーナリストの藤田庄市は『だから知ってほしい「宗教2世」問題』(筑摩書房、2023年)という本に、子どもが関わった宗教トラブルの網羅的な事件史を寄稿していますが、藤田が論考の最初に持ってきたのも1985年に起きたこの事件でした。

ですが、例えばこの出来事はエホバの証人という教団が血を避けるべしという教義を掲げていることが原因で一般社会と摩擦が生じた事例であり、個別具体的な教義や信仰実践を抜きにした議論にあまり意味はありません。現在から振り返って輸血拒否事件も「宗教2世」問題だったとする見方はありうるでしょうが、当時は「宗教2世」という言葉も広く使われてはいませんでした。

その後も様々な宗教団体が社会と軋轢を起こしてきた歴史がありますが、それらの宗教トラブルが持ち上がった時にも「宗教2世」問題というラベルが用いられた様子は見当たりません。では、親がどの教団に属していたかという文脈を考慮しない、普遍的な「宗教2世問題」という社会問題は、いつ、どのようなクレイム申し立てによって形作られたのでしょうか。

安倍元首相銃撃事件の翌日、2022年7月9日にあるひとつのクレイムが申し立てられました。change.org(チェンジオーグ)というオンライン署名サイトにおいて「【統一教会・人権侵害】信教の自由を奪われた子供達。虐待防止のための法律制定を求めます。」というキャンペーンが立ち上げられ、賛同への呼びかけがX(旧Twitter)上に投稿されたのです。

この署名は統一教会2世の高橋みゆきを名乗るアカウントによって呼びかけられました。この人物は身バレの危険があるため素性を明かさずに活動していると公言していて、テレビなどでインタビューを受ける際にも、“高橋みゆき(仮名・20代)“として紹介されています。

change.orgに設けられた署名ページでは、「宗教2世」問題とはいかなる社会問題かについて、次のように説明されてます。

【問題の概要】
日本における一部の宗教信者の子ども(宗教2世)は「子どもが信仰を望まない場合でも宗教活動や信仰生活を強制させられる」問題を抱えています。家庭内という閉鎖的な環境下で、拒否権のない信者の子どもの基本的人権(信教の自由・幸福追求権等)が侵害されています。

change.orgに設けられた署名ページ
より引用(https://www.change.org/p/統一教会-人権侵害-宗教虐待防止のための法律整備-体制整備を求めます-宗教2世に信教の自由を-宗教虐待-stopreligiouschildabuse

ここでは、「宗教2世」問題とは子どもの信教の自由と幸福追求権が家庭という場で侵害されているという問題であること、対処する必要があるのはこれが人権侵害だからであること、解決するために法律・行政の体制整備が必要である、というクレイム申し立てがなされています。具体的な提言内容としては、「宗教2世」の基本的人権を守るために「宗教虐待」という区分を新設して刑事罰化し、他者に対して虐待を行うように指導する行為を厳罰にするよう要求しています。

この署名活動は#宗教2世に信教の自由をというハッシュタグと共に、SNSで拡散されていきました。署名ページが作成されてから3週間後の2022年7月30日、毎日新聞は署名が3万6000筆になったタイミングで記事にしています。こうした報道の後押しもあってか、最終的にオンライン署名は7万筆以上に達しました。その後も高橋みゆきさんは「宗教2世問題ネットワーク」という団体の立ち上げに加わるなど、「宗教2世」問題について訴える活動に精力的に携わっています。

募集を終了した現在のchange.orgのページでは、2022年12月に厚生労働省が「宗教の信仰等に関する児童虐待等への対応に関するQ&A」というガイドラインを発出したことを運動の成果として掲げています。安倍元首相銃撃の翌日というタイミングでの問題提起だったこと、さらに運動が行政から具体的な反応を引き出したことなど、「#宗教2世に信教の自由を運動」は、「宗教2世」問題とはどのような社会問題なのかを設定し広く知らしめた動きだったと位置付けることができるでしょう。

以上までで、「宗教2世」問題という社会問題を考慮するにあたり、「#宗教2世に信教の自由を」というハッシュタグで展開された動きを取り上げる意義を示しました。構築主義アプローチでは、ある特定の状態を社会問題だと感じてもらうために、クレイム申し立て者がどのような仕方で人々を説得するのかに注目します。そこで次節では、「#宗教2世に信教の自由を」という運動が提示したクレイムのレトリックを見ていくことにしましょう。

◆“信教の自由“の侵害というレトリック

「#宗教2世に信教の自由を」という署名運動は、なぜ私たちが「宗教2世」問題に取り組まなくてはならないかについて、それが人権侵害だからだと説明していました。ある社会問題の有害さを、誰かの自由や権利が侵害されていることに求める論法は「権利のレトリック」とも呼ばれ、クレイムに採用される最も汎用的なものの一つとされます。そしてこの時、侵害されている具体的な権利とは信教の自由と幸福追求権だとchange.orgのページでは述べられていました。

ここで幸福追求権は一旦わきに置いておきます。包括的基本権と呼ぶこともあるこの権利は、時代の変化に対応した新しい権利の根拠となることがありますが、「宗教2世」の救済を目的とした新たな権利の創設が必要かどうかは、いまだ議論が未整備な状況だとだけ述べておきましょう。

立ち止まって考えてみるべきなのは信教の自由についてです。そもそも憲法で信教の自由を保障する目的とは、国家権力から個人の信仰を守ることにこそあるというのが一般的な理解だと思われますが、ここでは国家は出てきません。

その代わりにここでは、「子どもが信仰を望まない場合でも宗教活動や信仰生活を強制させられる」ことが信教の自由の侵害と表現されています。ところが一方で、高橋みゆきさんは同じページの中で「生まれた時から始まる洗脳教育」とも表現しています。これら2つの表現が同居しているために、結果としてクレイム申し立ての内容に混乱が生じているのです。

具体的に考えるために、ある人が洗脳によって信教の自由を侵害され、特定の信念を強制的に信じ込まされている状況を想定してみます。この時、その人は果たして自分の信教の自由が侵害されていることに気づくことができるでしょうか。もっと言うと、もしその人が信教の自由を奪われたと自覚できているならば、それはその信念を本当には信じていないことを意味するのではないか、つまり、洗脳しようとしている側が実際には洗脳に失敗しているのではないかという疑問が生じます。

これはただの思考実験ではなく、真面目に検討すべき問題です。なぜなら、洗脳とほぼ同じ意味の言葉であるマインド・コントロールによって、日本国民の信教の自由が侵害されているというクレイム申し立てが実際に提起されたことがあるからです。そのことについて知るには、一人の弁護士と旧統一教会との長い闘争の歴史を振り返る必要があります。

◆「権利のレトリック」の起源としての違法伝道訴訟

都合のいいことに、上で紹介した藤田庄市の論考には「信教の自由」の問題について論じている箇所があります。まずはここから出発することにしましょう。

 次に「信教の自由」についてである。ここをはっきりさせないと、子どもの信教の自由についても論議できない。結論からいえば、現代日本は「靖国問題」型の政教分離と信教の自由が一体となった「信教の自由」については、国民的経験も理論構築もなされてきた。だが、2世問題に密接に関わってくる「信教の自由」は、カルト問題から発生してきた。それは宗教団体やスピリチュアルグループの諸活動と「信教の自由」との関係と言うこともできよう。弁護士の郷路征記はこの問題について、一九八七年に統一教会を提訴した「青春を返せ裁判」を理論化してきた(→第4章)。筆者はこれを「スピリチュアル・アビュースと精神の自由」の枠組みで捉えている。「カルト問題型」信教の自由の問題といえようか。

藤田庄市「カルト問題のなかの2世問題」『だから知ってほしい「宗教2世」問題』筑摩書房、2023年、53-54ページ。

藤田によれば、信教の自由の問題には「靖国問題」型と「カルト問題」型の2種類が存在し、さらに2世問題と関係するほうの問題である後者は、弁護士の郷路征記ごうろまさき「青春を返せ裁判」という訴訟を通じて理論化してきたと述べています。

青春を返せ訴訟とは、1987年に旧統一教会の元信者たちが教団を提訴した裁判の通称であり、元信者たちの原告代理人を務めたのが郷路征記弁護士です。そして、この裁判で原告側が訴えていた被害こそが、旧統一教会によって信教の自由を侵害され、信仰を植え付けられたことなのです。青春の日々を信仰生活に費やしたことへの損害賠償を求めたことから、郷路弁護士によって「青春を返せ」訴訟と名付けられました。

この時、旧統一教会はどのような方法で信教の自由を侵害したのかという説明に用いられたのが、いわゆるマインド・コントロール論です。1987年に裁判がはじまった時の最初の主張は洗脳による人格破壊に対する慰謝料だったのですが、郷路弁護士を中心とした原告グループは、裁判を起こした後に社会心理学や催眠術の勉強会を重ねて訴えを徐々に変化させていきました。そして、なぜ旧統一教会の勧誘を受けた人はその教義を信じるようになるのかについて、独自の理論を打ち立ててそれに基づき教団を告発します。1993年に郷路弁護士はこの理論を『統一協会マインド・コントロールのすべて——人はどのようにして文鮮明の奴隷になるのか』という本として出版しました。

青春を返せ裁判は2001年に札幌地裁で原告勝訴の判決が言い渡されます。ですが、裁判所はマインド・コントロールの問題について踏み込んで判断することはしませんでした。その代わり、勧誘の段階で正体を隠していることを「信仰の自由や財産権等を侵害するおそれのある行為」として不法行為と認定し、原告一人につき100万円の慰謝料を支払うように命じました。この判決は2003年に最高裁によって確定され、その後も同様の内容の集団訴訟で原告側が続々と勝利していきます。これら郷路弁護士が手がけた複数の裁判を、正体を隠した伝道活動の違法性が認定されたことをもって違法伝道訴訟とも呼びます。

以上が藤田の表現でいうところの「カルト問題型の信教の自由の問題」の概要ですが、ここで改めて思い出したいのは、本稿が構築主義の立場から社会問題にアプローチしていたことです。言うまでもなく「カルト問題」も社会問題であり、構築主義的発想の射程内にあります。そこで、一連の違法伝道訴訟を通じて構築された「信教の自由の侵害」とはどのようなものだったのかをまず確認した後、その論理(あるいはレトリック)を「宗教2世」問題に適用することは基本的には不可能であること、さらに、もし無理に当てはめようとした場合に発生する深刻な問題について指摘します。

◆「信教の自由の侵害」の社会的構築

社会問題の構築主義的研究をリードしてきたアメリカ人の社会学者で、ジョエル・ベストという人がいます。彼が書いた『社会問題とは何か——なぜ、どのように生じ、なくなるのか』(赤川学監訳、筑摩選書、2020年)という本は、この分野の定評のある教科書とされており、2020年に日本語に翻訳されて出版されました。この日本語版に寄せた序文でベストは、アメリカでは社会問題の構築に活動家が主要な役目を果たすが、日本では法律家が中心となり裁判の判例の積み重ねによって社会問題が定義されていくようだ、という洞察を述べています。

郷路征記弁護士が先頭に立って率いてきた違法伝道訴訟の数々は、ベストのいう法律家による社会問題の社会的構築の典型的な事例といえるでしょう。旧統一教会によって日本国民の信教の自由が脅かされているというクレイム申し立てが原告側からなされ、それに対し被告である旧統一教会が対抗クレイムをし、両者の言い分を裁判所が聞いて判決を言い渡します。それを受けて原告の最初のクレイムも変容し、のちの類似の裁判につながっていく、図式的にいうと旧統一教会による「信教の自由の侵害」という社会問題はこのようなプロセスで構築されてきたと考えられます。

上記に加えて、裁判所の外部で判決の文言をめぐって行われる解釈も言説実践の一環であり、それらも含めれば違法伝道訴訟をめぐる言説は膨大な量に及びます。そこで、本稿の問題関心に沿って、鍵となるクレイムのレトリックをひとつだけ挙げるとするならば、それは「信教の自由が侵害されている状態から本来の自己に戻る」という発想です。

違法伝道訴訟の原告は脱会した元信者たちであり、彼らの訴えは、旧統一教会の違法な伝道・教化活動により、騙されて信者としての人格を植え付けられたというものでした。よって、本来の自己に戻るとは、旧統一教会から脱会することと同義とされ、これは同時に信教の自由が侵害されている状態からの回復だとされます。

要するに、彼らはズルさえなければ本来の自分たちは旧統一教会に入信することなどありえなかったという前提のもとに、なぜ自分たちが信じたのかを教団からの心理操作的な働きかけの結果として説明しており、それらの主張の一部は裁判でも事実として認められていくことになりました。

しかし、実はこれは裏を返せば、「本来の自己」があらかじめ存在していなければ信教の自由が侵害されることはないことを意味しています。なんとなれば一連の裁判を通じて構築された信教の自由の侵害とは、彼らが言う「本来の自己」が持つ傾向を逆手にとって信じさせる行為に他ならないからです。

実際に裁判で違法と認定された行為を確認すると分かりやすいでしょう。裁判では宗教性を秘匿した伝道・教化活動が違法とされましたが、具体的には①旧統一教会の伝道であると明らかにせずに教団の教育施設に誘うことや、②宗教の教義としてではなく、歴史的事実や科学的事実のように教えること、③本来の教義とは関係のない運勢鑑定を勧誘の手段として用いることなどが自由な意思決定を歪めるものであり、社会的相当性の範囲を逸脱するものと判断されました。

つまり、原告側の「本来の自己」は、上記のような条件が与えられた場合に自由な意思決定が阻害されてしまうと裁判で認定されたわけですが、当然と言えば当然のことながら、ここでは裁判所が想定する一般的な日本人の感覚が前提とされています。この仮想的な被勧誘者モデルの性質を簡単に描写すると以下のようになるでしょう。すなわち、①宗教自体や旧統一教会に偏見があるため、事前にその名前を聞けば近寄ることはせず、②宗教教義よりも科学に信頼性を感じ、③占いの悪い結果などを聞くと動揺して判断力が低下する、というような人物像です。

このような「本来の自己」が持っている傾向を悪用されることにより、原告の元信者たちは旧統一教会に入信することになった、というのが長年に及ぶ裁判を通じて構築された「信教の自由の侵害」です。あるいは藤田の表現をもう一度借りれば、郷路弁護士が理論化してきた「カルト問題型の信教の自由の問題」と言ってみてもいいでしょう。

では、次節では本筋の問題関心に戻って、ここまで学んできた信教の自由の問題についてのロジックを、「宗教2世」問題に適用することはできるか考えてみましょう。言い換えると、違法伝道訴訟が構築してきた「信教の自由の侵害」に準拠するような意味合いで、「宗教2世」は“信教の自由“を侵害されているのでしょうか?

◆「宗教2世」は“信教の自由“を侵害されているのか?

結論から言えば、違法伝道訴訟を通じて判示されてきた意味での「信教の自由の侵害」は、「宗教2世」問題に当てはめることはできません。

理由を一言でいうと、親が自分の子どもに宗教教育をすることは、その子を騙すことにはならないからです。裁判で違法とされた宗教性を秘匿した伝道・教化活動を偽装勧誘と言ったりもしますが、親が子どもに自らの信じる宗教の教えを伝えるのに、それを何か別のものに見せかけたりはしませんし、そもそもそんなことをする必要がありません。

そうは言っても、ある人物を再臨のメシアだと教えたり、もうすぐ世界はハルマゲドンで滅びるなどという荒唐無稽な話を信じさせるのは騙すことではないのか、と感じる人もいるかもしれません。信仰を受け継がなかった子どもや、脱会した信者たちが元いた宗教の教義を真実の教えではなかった、自分たちは騙されていたと嘆く気持ちは分かります。

しかし神仏や霊魂の存在など、科学的には真偽を確定することができない要素は、およそどの宗教にも存在します。これらは実証は不可能ですが、そうした宗教的価値観を親が子どもに教えることは、市民的及び政治的権利に関する国際規約の第18条第4項でも保障されている権利です。もし裁判所が特定の宗教の教義を教えること自体を詐欺と認定するならば、これは宗教弾圧となってしまいます。違法伝道訴訟で欺罔とみなされた行為は、あくまでも宗教性の秘匿という、旧統一教会の伝道・教化活動をそうでないもののように見せかけることです。

かてて加えて、違法伝道訴訟の一環として2012年3月29日に札幌地裁で下された判決文にはこんな文章すらあります。

一神教の信仰を得る、すなわち、神秘に帰依し教義に隷属するとの選択は、(親が幼い子に家庭内で宗教教育を施す場合はともかくとして)あくまで、個人の自由な意思決定によらなければならない。 [太字による強調は引用者による]

平成16年(ワ)第1440号損害賠償請求事件・平成18年(ワ)第1799号損害賠償請求事件・平成21年(ワ)第968号損害賠償請求事件・平成22年(ワ)第2921号損害賠償請求事件 札幌地裁判決、242ページ。

一連の裁判を通して構築された「信教の自由の侵害」が、家庭内で行われる宗教教育にそのまま適用されないことは、この一文からも明らかです。

では、以上の結論をもとに、「宗教2世」問題と青春を返せ訴訟に密接な関係があるとする主張は的はずれな見解として一蹴することができるかというと、おそらくそうではありません。社会問題の構築という観点から見ると、これも立派な「宗教2世」問題のクレイム申し立て活動の一環であり、両者の間に共通点があるというフレーミングを広める言説実践だと解釈するのが妥当です。

そして、「カルト問題」の構築に使われたレトリックに便乗して「宗教2世」問題のフレームを設定する試みは、現在のところ一定の成功を収めているようです。それは例えば、毎日新聞の記者の次のような記述からも見てとれます。

 カルトと指摘される宗教団体では、マインドコントロールにより子どもが教義をかたくなに信じ込んでいるケースがある。

毎日新聞取材班編『ルポ 宗教と子ども——見過ごされてきた児童虐待』明石書店、2024年、79ページ。

裁判所が最終的に原告側のマインド・コントロールに関する主張を判決に取り入れなかったことは、すでに述べたとおりです。しかし上記の一文からも伺えるように、裁判所では認められなかったマインド・コントロール論のレトリックは、「宗教2世」問題のクレイム申し立て活動に利用され、メディアによる報道にも影響を与えています。そこで本稿の最終節となる次節では、マインド・コントロール論が「宗教2世」問題に取り入れられることで生じる不穏な帰結について考えます。

構築主義的な角度から「宗教2世」問題に迫ろうとする本稿の関心の所在は、マインド・コントロールという現象が実際に存在するかどうかにはありません。しかし、それが実在しようとしまいと、マインド・コントロールというレトリックを「宗教2世」問題に持ち込むならば、我々の社会は予期せず重い問いを突きつけられることになります。ここで改めて重要になってくるのは、「信教の自由が侵害されている状態から本来の自己に戻る」というレトリックです。

◆「カルト問題」と「宗教2世問題」の接続がもたらすもの

もともとマインド・コントロールという概念は「カルト」に批判的な立場の心理学の専門家によって提唱されたものであり、精神操作技術によって信仰を植え付けられたとされた「カルト信者」に対する治療的な介入を正当化するために長年利用されてきました。

簡単にまとめると、入信した本人は「カルト」の精神支配の影響下にあるため自覚することは不可能だが、その信仰は教団に操られた結果でしかないのだからマインド・コントロールから解放して「本来の自己」に戻してあげないといけない、というのが「カルト」に批判的な論者の言い分です。こうした考えに基づいて、家族から依頼された外部の第三者が「カルト信者」に教団からの脱会を促す、場合によっては脱会を強要することをディプログラミング、または脱会カウンセリングと呼びます。

ですから歴史的に見て、マインド・コントロールという概念は「カルト信者」の信仰を教団の精神支配の産物とみなし、彼らを「カルト集団」から離脱させる活動と切っても切れない関係にあると言えます。そしてここで改めて確認しておくべきは、理屈から言ってマインド・コントロールされている本人は決して自分の信仰が不当な手段で植え付けられたものだと自覚することはできず、「被害」に気づくこともできないという点です。

ということはつまり、時にかなり荒っぽい手段を伴うこともある脱会カウンセリングを実行することを正当化する究極的な根拠は、「カルト」に入信する前の人格がその人の「本来の自己」であるという、家族や周りの人間の直感にしか存在しません。すこし別の見方をすれば、マインド・コントロールという概念は入信の前と後を比べて、まるで人が変わってしまったようだと感じる周囲の人々の実感によって支えられてきた側面もあるのではないかと思います。

以上のようなマインド・コントロールという言葉がどのように用いられてきたかの歴史を踏まえると、この概念を「宗教2世」問題に当てはめることで導かれる、不吉な結論が次第に見えてきます。まず、マインド・コントロールを解くことと「本来の自己」に戻すことを同一視することは「宗教2世」の場合にはできないということに気づくでしょう。厳密にいうと家庭での宗教教育がいつからはじまったかにも左右されるでしょうが、親の信仰の影響を受けていないその人の元の人格を知っている人は誰もいないからです。

そうなると、マインド・コントロール下にあるかどうかの判断は、「カルト」と目される団体の教えを信じているかどうかにかかってきます。ということは、特定の宗教を信仰し続ける限り、「宗教2世」は自分の自由意思に基づいて信教の自由を行使しているとは認められないことになってしまいます。別の言い方をすれば、自らを自律した個人であると証明するためには、親の宗教を否定することが求められるということです。

まとめると、「カルト問題」の社会的構築に用いられてきたレトリックであるマインド・コントロール論を「宗教2世問題」に持ち込むと、特定の宗教を信仰しているというだけの理由で、ある個人を自律的な判断力や責任能力に欠けるとみなしてよいかという問題が、むき出しのまま問われることになります。

上記の結論について、人それぞれで態度は異なることでしょう。例えば、反カルト運動に参加している人々の中には、この理路に別に問題があると思わない人もいるのではないかと思います。先に述べたとおり、マインド・コントロールという言葉自体が、特定の宗教に帰属することの有害さをアピールする目的を持たされて生み出されたものだからです。

構築主義的な見方をとる本稿は、「宗教2世」が実際にマインド・コントロールされているかどうかについての事実判断はしません。しかし、クレイムに採用されたレトリックの帰結として、ある特定の属性を持った人々の人格的自律の権利に関わる問いが生じることは、重く受け止められるべきだと考えます。

おわりに

冒頭で述べたとおり、安倍元首相を銃撃した犯人は精神鑑定によって完全責任能力が認められたといいます。この報道自体は、裁判を円滑に進めるための手続きがひとつ済んだという以上の意味を持つものではありません。

ですが、毎日新聞を筆頭に、一部マスコミが事件直後から彼の凶行に対して同情的な世論を形成しようとするかのごとく展開したキャンペーンに、それまで日本社会で平穏に暮らしていた数万から数十万人の特定宗教の信徒たちを自由意志を奪われた制限能力者扱いする主張が込められていたことを思うと、皮肉な対比になっているように感じます。

違法伝道訴訟で示されたような意味での「信教の自由の侵害」が、「宗教2世」問題に適用できないからといって、#宗教2世に信教の自由をというムーブメントが提起したクレイム申し立てが無効とされるのかというと、私はそうは言いません。自由の侵害という権利のレトリックが適切かどうかは問われるとしても、#宗教2世に信教の自由をというスローガンが、親や周囲の大人は子どもの発達に応じた信仰心を受け入れるようにするべきだという意見表明ならば大筋で異論はありません。

ただ、その場合でも、信じない自由と信じる自由は同じだけ尊重されるのが良いでしょう。そしてその信じる自由には、新聞記者から「カルトと指摘される宗教団体では、マインドコントロールにより子どもが教義をかたくなに信じ込んでいるケースがある。」などと書かれないことも含まれるのではないか、とも思います。

構築主義的な視点から見れば、本稿も社会問題過程の部分に過ぎず、「宗教2世」問題の支配的なクレイムへの対抗クレイムと位置付けられるでしょう。もちろん、それもひとつの妥当な見方ですが、執筆者の意図としてはジョエル・ベストが構築主義アプローチのメリットとして語る、次のような状況の実現を目指して書いたつもりです。

 一方の極端な立場は、すべての社会問題クレイムを正しいもの、ほんとうのもの、正確なものとして扱う。[中略]もう一つの、しかし同じくらい極端な立場は、すべてのクレイムをシニカルに扱い、それらが誤りであり、虚偽であり、まやかしであると仮定する。[中略]
 この両極端のあいだ、すなわち盲信と不信のあいだのどこか中間にある立場を発見することが望ましいのは明らかだろう。つまりクレイムを思慮深く、批判的に扱い、社会問題について語られたことに重みをつけ、これらの問題の性質ならびに問題に対処する最良の方法について自分自身で評価を行うのがよいだろう。

ジョエル・ベスト『社会問題とは何か——なぜ、どのように生じ、なくなるのか』赤川学監訳、筑摩書房、2020年、342ページ。

「宗教2世」問題のクレイムを相対化するのでも絶対視するのでもなく、「盲信と不信のあいだのどこか中間にある立場」を発見するためのツールとして、本稿がわずかでも役に立つことを願いつつ、ここで筆をおきます。


このnoteは公開前にゆでたまご屋さんに草稿を読んでいただいたことにより文章を改善することができました。氏のコメントに衷心よりお礼を申し上げます。しかし最終的な議論の内容と結論については全ての責任を私が負うものです。

【参考にした本】

赤川学『社会問題の社会学』弘文堂、2012年。

郷路征記『統一協会の何が問題か 人を隷属させる伝道手法の実態』花伝社、2022年。

郷路征記『統一協会マインド・コントロールのすべて』花伝社、2022年。

櫻井義秀『信仰か、マインド・コントロールか——カルト論の構図』法藏館、2023年。

塚田穂高他編著『だから知ってほしい「宗教2世」問題』筑摩書房、2023年。

中河伸俊『社会問題の社会学』世界思想社、1999年。

ジョエル・ベスト『社会問題とは何か——なぜ、どのように生じ、なくなるのか』赤川学監訳、筑摩書房、2020年。

毎日新聞取材班編『ルポ 宗教と子ども——見過ごされてきた児童虐待』明石書店、2024年。