「好きこそものの上手なれとはいうものの」2020年3月8日の日記
・好きこそものの上手なれという言葉がある。誰でも好きでやってることは上手になるって意味だけど、必ずしもそうとは限らないよねとたまに思う。
・単純な技能についていえば、好きであればあるほど上手になれるのは間違いないだろう。ギターが好きならずっと練習できるし、練習するほどに上手に弾けるようになる。しかし、それはあくまで技能についての話で、ギターとの向き合い方についてはどうだろう。ギターが好きな人は、ギターと上手に向き合うことができているのだろうか。ギターに対する強い思い入れは、ギターが鳴らす音の聴こえ方や、社会における「ギター」の認識を歪めていないのか。
・年に映画を300本くらい観る映画マニアがいる。彼らは映画について多くのことを知っているが、映画をちゃんと観ることができているのだろうか。だいたいの人は、映画を1本見たらそれなりに疲れて、続けざまにもう1本鑑賞しようとは思わない。1日おきに観続けるのだって億劫だろう。2時間も拘束されて、心をゆさぶられる娯楽を味わうのは、精神的にかなり疲れる。映画マニアはなぜかそこにストレスを感じない(感じにくい)。それは映画から「何か」を、本来ならストレスたりうる何かを、感じ取るセンスが鈍麻しているからではないのか。
・ある意味で、読書家(多読家)や映画マニアといった人種は存在自体が矛盾しているといえるのかもしれない。芸術の鑑賞行為には、受け取り手による「感動」という要素が含まれている。作品からなにかを受け取って、自分自身を塗り替えられてしまうような衝撃を受ける――それが、鑑賞にとってはとても重要なことだと思う。
・本や映画を年間何百本も消費しているとき、あの感動は本当に彼らの内部で生じているのだろうか。はじめは生じていたに違いないが、その感動をふたたび捕まえようとして、くりかえしいろいろな作品を貪り続ける、その行為そのものが、ある種のセンスの決定的な欠如を象徴しているような気がしてならない。小説で得た感動をふたたび小説で、映画で得た感動をふたたび映画で得たいと思い、手段に拘るのはなぜなのか。そういう人は単純に、媒体との向き合い方が「下手」なのではないか。
・私もまた手段に拘泥して感動の再現を求める不健康な人間のひとりなので、人知れず、しかし必ず近くに存在する「健康な人」のことをたまに考える。たとえば、子どもの頃に観たたった1本の映画が深く心に突き刺さり、涙を流したことのある人。しかし、そのことによって「映画をたくさん観よう」などとは夢にも思わず、ただ感動したことがあるという記憶を頭の隅に残して成長し、大人になったような人。
・商業的都合はマニアを優遇しマニアを作り出そうと躍起になる。しかし、マニアはあくまでも「都合」に必要とされているだけだ。消費活動のループを誘発することは、芸術に求められる義務ではない。
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