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「藤野くんの家の『あたしンち』」2019年12月27日の日記

・動画に出ています。今年いちばん緊張した仕事が今になって来たかもしれない……。それくらい本気でやりました。

・私はコミックエッセイ、特に子育てエッセイが好きな子どもだった。『あたしンち』は、貸本屋で借りて読んでいた。1週間50円で借りられる貸本屋があったのだ。今はもう潰れてしまったが。

・動画の中で「あたしンちには『家族は他人』という思想が前提にある」という話をした。どんな人も、実はぜんぜん違った合理性に基づいた行動をしている。だからこそ、人を「理解」するのは恐ろしく難しい。作品タイトルには「私のうちって”こう”なんだ(ちょっと変でしょ? でも、みんなのうちはどう?)」という視点が織り込まれている。家族やそのメンバーを、決して均質なものとして見ない。そんなシビアかつ優しい視線が『あたしンち』という作品を裏から支えている。

・ややセンシティブなので動画では紹介しなかったが、私のかなり好きなエピソードがある。単行本9巻の11話。ユズヒコの友達、藤野の家に遊びに行く話である。ここでは、これまでずっとタチバナ家を愉快に観察していた藤野サイドの『あたしンち』が断片的ながら描かれている。

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『あたしンち』(けらえいこ)9巻,p45-46

・真っ暗で、散らかり果てた部屋。その中でコートを着て何もせず兄を待つ幼い弟――異様な光景に見えるが、藤野にとってはこれが『あたしンち』なのだ。このシーンからは、作品が描いてきたものの本質を裏側から描き直したような寒気を感じる。タチバナ家のほうはなんだかんだで戯画化された「一般家庭」の体裁が保たれているけれど、藤野家の生活はそうではないように映るからだ。

・藤野家はどんな生活を送っているのだろうか。見たところ、かなりの貧困家庭に見える。住居は団地のようで(最も幼い子どもがいるにも関わらず)部屋の照明も暖房も常に消しておくという「節約」ぶりからも、それは垣間見える。アニメだと、電気ストーブをゴミ山から発掘してスイッチをいれている描写があった。ということは、真冬でもストーブをあまり使っていないのかもしれない。かなり徹底している節制だ。

・にもかかわらず、次男は塾に通っているらしい。それに、親が忙しい日の夕食としてコンビニ弁当を買っている(コンビニ弁当は高い)。

・きっと、藤野家の財政は貧困というほどではないのだが、親の管理能力が低いのだろう。部屋の片付けが不得意なところに現れているし、お金を節約する部分のピントがズレているところからもそれはわかる。寒い中で子どもを放置するあたりなど、ネグレクト(育児放棄)さえ疑われる。しかし、その「アウト」感は、殊更に強調されない。このあと、なんだかんだで藤野は健やかに育っていくのかもしれない。こういう生活の先がどうなるのかはわからない。『あたしンち』は断罪をしない。


・ネットでは、ときおり『あたしンち』の家庭について「タチバナ一家っていわゆる『毒親』家庭なのでは」という指摘を見かける。確かに、両親ともに人格的に問題があり、理不尽な理由で子どもたちを怒鳴りつけることも多々ある。そういった意味では「毒親」というのは事実だと思う。こういう親の締め付けによって心を傷つけられ、ゆがんでしまう子どもは実際にいるだろう。みかんやユズヒコが親の理不尽をうまくいなすことができているのは、幸運によるところが大きい。タチバナ家は結果的にうまくいっているけれど、決して平穏無害な家庭ではない。現実のほとんどの家庭と同じように。

・藤野の家のエピソードは、そんな「幸運にして、幸福な家庭の体裁を実現できている」タチバナ一家の、負のIFとして読むこともできるだろう。段ボールに入ったみかんのカットなど、暗喩的に感じてしまう。藤野家という『あたしンち』の「みかん」は、放置されてカビだらけになって腐っているというわけだから。

・タチバナ母の横暴や藤野家を見て、毒親やネグレクトの問題を指摘するのは簡単だ。だけど「正常な家庭」とはいったいなんなのだろう。そんなものは言葉の上にしかなくて、みんなそれぞれに偏った『あたしンち』しか知らないというのが実情ではないか。そして、その偏りをこれほどわかりやすくポップに描いた作品がこれまでどれほどあったか。「家族って実際こんな感じ」という「そのまま」を、理想を介さずに、でも絶望もせずに、ユーモアを込めて描くことの難しさよ。


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・あたしンちについてはまだいろいろ思っているので、今後もまたなにか書くかも。本当にけら先生には感謝しかない。

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