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「架空哲学は作れるか」2020年2月26日の日記

・「架空数学」は作れない。では、それが正しいとして「架空哲学」は作れるだろうか? 作れないだろうか?

・たとえば、魔法が当たり前に存在するような世界があるとする。そういう世界では現実の人間社会とは違った文化が形成されることだろう。ハリーポッターみたいな世界だ。単純に考えれば、そこで営まれる哲学は「架空哲学」と言えるのではないだろうか。

・しかし、その哲学とはどのようなものだろう。現実では、たとえば車の自動運転が起こす事故の責任について哲学的に問われることがある。ハリーポッター的な魔法の世界なら、きっと魔法によって自動的に動くゴーレムだかホウキだかが引き起こす事故の責任について議論が交されているはずだ。これは架空哲学だろうか。

・ある意味ではそうだろう。魔法による事故は現実には起きないからだ。しかし、別の意味では、架空哲学とはいえない。

・哲学的に考えるとき、ふつうは要素をより抽象的なレベルで捉えようとする。さっきの例でいえば「自動運転車が引き起こす事故の責任」という言葉をより普遍的なレベルまで解体するのが普通だ。「その原因の発生には意志がはたらいているが、原因そのものには意志が働いていない行為が損失を生み出したとき、損失の責任は誰が被るべきか」とかそういう言い換えをする。もっと抽象的になると「じゃあ『原因』とか『意志』とか『責任』とはなんなのか」みたいな話になってくる。

・現実には魔法のホウキが引き起こした事故は存在しない。しかし、この事例もまた抽象化すれば自動運転車の事故の例と同じような形(原因がどうたらこうたら)に変形できる可能性がある。だとすれば、これが「架空哲学」だとしても、少し「架空さ」が弱いのではないかという気がしてくる。

・架空にも種類があり、単に現実ではない「弱い架空」と、現実にはありえない「強い架空」に分けられるのだろうか。

・日本が第二次世界大戦に勝利している世界は架空だが、そういう世界があり得なかったわけではない。これは「弱い架空」である。魔法の世界は、物理法則が現実と異なる。これはありえない「強い架空」だと言えるだろうか。

・まず、魔法の世界が「強い架空」だったとしても、その内部で扱われる哲学的テーマは現実と共通していることが考えられる。さっき挙げた「魔法のホウキが起こす事故」の例なら、それは結局のところ「責任」とは何か、「原因」とは何か……という話へと集約されるかもしれず、だとしたらそれはたぶん、その世界における魔法の有無とは本質的に無関係のはずだ。そこで行われる哲学は、単に架空世界で行われている普通の哲学である。

・だったら、その架空世界が架空である理由と哲学が癒着してるような例なら、もっと強い架空哲学が作れるのではないだろうか?

・たとえば、『責任』という概念が欠如している架空世界があるとする。この世界の人々には責任感が完全に欠けているから、自分の子どもを平気で捨てたり、気に食わないやつを殺したりするし、そのことで誰も怒らない。こういう世界で生まれる哲学は、現実のそれとはだいぶ違うはずだ。それも、魔法世界などより遥かに根本から違う。これは強い架空哲学ではないのだろうか。

・だが、また疑問がうまれる。まず、それはいったい、具体的にどんなことを考える哲学なのだろうか?

・そしてもうひとつ。その哲学がこれこれこういう内容のもの……だったと分かったとして、その内容を現実の我々が「理解」できたら、結局それは単に現実ではない世界で成り立っているだけの「弱い架空哲学」に過ぎないのではないか?

・ふたつめの疑問を肯定すれば、冒頭の「架空数学は作れない」という話題と一致する。それが正しいことがわかるだけで、もはやそれは架空ではなくなるのだ。

・哲学では、しばしば突飛なたとえ話が使われる。たとえば、沼から自分と原子レベルで同じ人間が出てきてしまったら、そいつは他人と言えるのか? というような。現実にそんなことは起こらないが、これは架空哲学ではない。なぜなら、この舞台設定が問いかけていいるのは「同じ」とか「私」といった言葉の意味であるからだ。

・哲学は、私たちのこの現実がどのように成り立っているかよりも、「どのように成り立っていざるをえないか」を考える。そのために思考実験で現実に揺さぶりをかけ、極端な状況で失われたり残ったりする性質を精査するのだ。哲学の伸ばす手は最初から架空の世界にまで及んでいるので、そこに現実と比べたときの架空を重ねても、簡単に吸収されてしまうのだ。

・じゃあ、現実の我々には理解不能な架空哲学だったらどうだろう。「なぜ八等分が男前だとシャンパンは過去なのか?」というような「哲学的」問いは誰にも理解できないから、架空の哲学なのでは。

・しかしそうすると今度は「なんで理解不能のそれが哲学だとわかるのか」という疑問が生まれてしまう。現実のそれとあらゆる共通点を持たなければ、架空のそれが同じ名前で呼ばれる意味がなくなり、空虚になる。「200番目の元素を発見しました」と言って「200番目の元素」と名付けられた飼い猫を見せられても、そうですか、となるだけだろう。それをもってして「200番目の元素が存在する」と言うのは勝手だが、それは炭素や水素が存在するのとは全く違う意味での、ダジャレのような存在に過ぎない。


・まとめると「架空哲学」は、前提によってあるともないとも言える。

・単に「現実と異なる世界において成立する哲学」を架空哲学に含むのであれば、いくらでも考えられる。ただし、そういうものはすでに現実の哲学の守備範囲の内側にあると考えるなら、それは架空哲学ではない。

・また「現実の我々の理解が及ばない哲学」を架空哲学に含むのであれば、これも(内容については一切語れないが)いくらでも考えられる。ただし、そもそも理解が及ばないものを哲学とは呼ばないと考えるなら、それは「哲学」ですらない。


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