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羊をかぞえる

「モリタトシユキを海に落とす、溺れる、サメがくる」
ほんの数カ月前まで、何度も頭に思い浮かべたり、発音したり、パソコンに打ち込んだかしれないこの文章。いったいこんな馬鹿げた文章から、大真面目に何かを見出そうとしていたぼくは、或いは正気じゃなかったかもしれない。
 もちろん、モリタトシユキを本気で海に落としたかったわけではない。それどころか、モリタトシユキがほんとうに海に落ちてサメに襲われたら、ぼくは彼を助けるために可能な限りの努力を惜しまないだろう。なんせ彼は幼馴染みの友人なのだ。かつ同じ釜の飯を食ったライバルでもある。それ故いがみ合っていた時期もあるが、しかし今では互いを……
 ……いや、そういう問題ではない。
「まもなく開店前の仕込みでクソミソ労働予定のモリタトシユキザマミロ」
これも悪くないと思った。とはいえ、露骨に誹謗しすぎているというか、同じ理由で、「今の知識と経験のまま小学生からやり直させてやるも、分数の掛け算辺りから落ちこぼれはじめるモリタトシユキ」も捨てがたく思ったが、「モリタトシユキを海に落とす、溺れる、サメがくる」のほうが、誹謗の按配や字面も含めて、バランスがとれているような気がした。
 ともあれ、こんな馬鹿げた文章をつぶやき、パソコンに打ち込み、大文字にしたり、小文字にしたり、無数に書き並べたり、色付けしたり、わざわざ印刷したり、真剣になったり、うんざりしたり、もち直したり、疲れたり、やっぱり駄目だと思ったり……或いはこんなふうに思索されていることなど夢にも思っていないだろうモリタトシユキ本人が、今まさになにをしているだろうとか……或いはモリタトシユキとはまったく関係ないバイト先のおばちゃんが片手で煎餅を割るしぐさとか、何気なく浮かんだどうでもいい映像に、「モリタトシユキを海に落とす、溺れる、サメがくる」の文字を、テレビのテロップふうに、頭の中でコラージュさせてみるとか……
 そして、こんな馬鹿げた思索の中から、あわよくば新しい芸術が生まれてくれないかと、実にふざけた期待をぼくは本気で抱いていた。いや、今でもそんな期待を抱いている節がある。とはいえ、今はもう「モリタトシユキを海に落とす、溺れる、サメがくる」をどうこうすることへの興味はだいぶ薄れている。その代わり……いや、その前に、ぼくの脳みそがこんなになってしまった原因を探ってみよう。
 
 
 ぼくは長年、トルストイ、ロマンロラン、ベートーヴェンを信仰してきた。彼らこそ人類史上最高の芸術家であり、あらゆる思想、芸術の先には彼らがいて、つまり、あらゆる思想、芸術は、すべて彼らを目指して創られていると。もっといえば、世界中の人間が彼らの境地にたどり着きさえすれば世界は完成(平和になる)する……つまり、彼らの思想信条を世に広めることこそ世界で最も重要な仕事であり、それに気づき、実行している自分もまた、ゆくゆくは聖者になれるに違いないと、本気でそう思っていた。
 中でも、ジャンクリストフ(ロマンロラン著)を読んで、これ以上なにを思想し、創作できるのか……ロマンロランによってすでにやり尽くされたこの世界で、よりによって彼と同じ道(作家)を選んだ自分を無謀だと思った。いや、身も心もすべて託してロマンロランについていこうと決めた。
 
 
 どの国の人々であれ 悩み
 そして たたかっており
 やがて 勝つであろう
 自由な魂たちに捧ぐ
 
 
 このジャンクリストフの冒頭を、ぼくはいったいなんど繰り返しただろう……もちろん、この時はまだ「モリタトシユキを海に落とす、溺れる、サメがくる」を、それ以上繰り返すことになるとは夢にも思っていなかった。
ぼくがジャンクリストフを知ったのは、二十四、五歳の頃だったと思う。当時まだ大学生で、古典文学を読み漁っていた同い年のNに、ぜひ読むべきだと薦められたのだが、その途方もない長さに気が滅入って、なかなか手をつけられないでいた。聞けば、一日のほとんどを読書に当てていたNでさえ、読破するまでに一ヶ月以上かかったという。
 当時ぼくは無職で、生活費はすべて消費者金融からの借金に頼っていた。キャッシングカードの残高を日々睨みながら、残された時間をどう使うか、自身の芸術的感性なり文学レベルを最大限に伸ばすためには今何をするべきか……要するに、膨れ上がった借金とその始末に追われる近い未来の絶望を押してまで、「ジャンクリストフ」を読む価値があるのか?と思った。むしろもっと短い名作を読みつつ、書くことを優先したほうがよっぽど効率的だろうと……。
 が、Nはしつこかった。とにかく読めと。ぼくはしぶしぶ、神保町の古本屋で、みすず書房の「ジャンクリストフ」全四巻を買った。たった四巻……?いや、上下二段びっしり埋められた文字に改めて絶句しながら、しかしぼくはNを信じた。Nは当時のぼくが文学論なるものを語れる唯一の友人だった。ぼくの好みも正確に熟知していた。ドストエフスキーや三島由紀夫より、トルストイや武者小路実篤を好んだぼくにジャンクリストフを薦めてくれたことを一つとっても、当時のぼくがいわばNの手の内にいたことがよくわかる。
 Nの思惑どおり、ぼくはジャンクリストフにのめり込んだ。いや、それ以上だった。もしも、これまでの人生でもっとも幸せで充実していた日を問われたら、ぼくは迷わず「ジャンクリストフを読んでいた日」と答えるだろう。そのことは現実におけるぼくの人生のつまらなさを露呈しているともいえるが、裏を返せば、ジャンクリストフを読んだことは、それほどぼくにとって重要な体験だった。
「カラマーゾフの兄弟」の新訳で知られる亀山郁夫氏のエッセイ「ドストエフスキーとの59の旅」に、こんな文章がある。
 
 
 人間は三つの分類に分けることができる。
 一、『カラマーゾフの兄弟』をすでに読んでいる人間
 二、これから読もうという人間
 三、未来永劫、金輪際手に取ろうとしない人間
 
 
 そう、『ジャンクリストフ』こそ、人間を分類する基準にぼくならする。
地味でさえない叔父のゴットフリートが、幼いクリストフに人生や芸術とは何かを優しく諭すたび、ぼくはいちいち唸った。そんな叔父の言葉を胸に、悩み、たたかい、諸々の苦難を乗り越えるクリストフこそ、やがて勝つであろう聖者に他ならなかった。クリストフこそ人類の先頭をただ一人走る聖者であり、トルストイを差しおき白樺が模範とすべき人間賛歌の頂点であるとか……云々。
 かくも、クリストフへの異常なまでの情熱を唯一ぶちまけることができた相手は、言うまでもなくNだった。Nもまた、クリストフを読み進めるたびに来るぼくを楽しみにしていた。酒とつまみを買いこみ、クリストフの勇敢さ、偉大さ、或いはゴットフリートの神レベルの人間力を、ぼくたちは朝まで語り尽くした。といっても、「カラマーゾフの兄弟」でいえば、イワンやスメルジャコフを好んだNは、クリストフよりむしろオリヴィエを支持する様子が垣間みえて、そのことは少なからず不満だったが、ともあれ、クリストフを語れる友人が身近にいることを、ぼくはとても嬉しく思った。
 しかしある事件をきっかけに、ぼくは突如クリストフが信じられなくなった。それまで戦いや革命に断固反対し、そのための思想信条を神のごとく展開してきたクリストフが、たった一発の銃声に反応して革命に参戦してしまったのである。クリストフほどの人間さえ正義を貫けないことを、しかもあっけなく転落してしまったことに、ぼくはひどく失望した。なんということだ!と、畳に拳を押しつけてから、その時たまたまカード会社から支払い督促の電話がきたために、ぼくは躊躇なく電話口の担当者を怒鳴りつけた。さらに救えなかったのは、クリストフ自身それを反省する様子がまったくなかったことである。同じく平和主義を唱えていたトルストイも、「ロシア軍の戦勝報告を聞くたび良からぬ高揚を覚えた」らしく、要するに、ナポレオンを蔑み、クトゥーゾフを英雄としたトルストイの心中に、一寸のナショナリズムも介在していなかったとはいえないと結論したぼくは、しかし、そのトルストイさえも持てあました僅かな自我もぜんぶまるごと解決してくれる聖者こそ、他ならぬクリストフ(ロマンロラン)であると信じた。
 ……そう、依然ぼくの中で光に満ちていたクリストフは、ところがどっこい、革命後、命からがらフランスへ逃れ、医者の知人を頼り、しばらく居候した挙句、その知人(命の恩人)の女房を、しかも最初はブスで気も利かないただのバカ女と超愚弄していたくせに、あろうことか寝とってしまうのだった!おお、しかも……太宰よろしく女と心中しくじるや、女一人残して早々と恩人宅をあとにし、要するに、恩人から逃げも隠れもした挙句、さらには革命に手を染めたときと同様なんら反省することなく、それどころか、己に降りかかる苦難ばかりギャーギャー喚き立てるもんだから、ぼくはいよいよ金槌と鑿でクリストフを打ち砕いてやりたくなった。こんなロクでもない輩(クリストフ)を聖者と崇めてしまった自分もろとも……。
 ぼくは一縷の望みを胸にページをめくった。が、クリストフがぼくのケチな道徳心を満たすことは遂になかった。それどころか、この期におよんで人類のために働きたいとか、一端の美学を喚き続けるクリストフに、ぼくは混乱した。が、聖者とはこういう人間のことを言うのかもしれないと、ぼくは思い直した。それはつまり、自身が未熟でも人類のために悩み憂う、ある種の狂気を内に秘めた人間である。未熟であることが未熟なのではなく、己の未熟を知らないことが未熟だというのでもなく、己の未熟を知り尽くしていなくても、人類のために悩み憂うことが許されるのだと、文中に散らばった多くの結論の断片は、すべてその一点に集約されていたように、少なくともぼくには思えた。
 いや、聖者にはそもそも「未熟」という概念が存在しないのかもしれない。仮にそれを未熟としても、その未熟を補ってあまり得る人類への深い良心ともいうべき愛が、聖者の内にはたぶん存在するのである。たとえば、「駆け込み訴え」(太宰治著)のどう見ても無法者のキリスト、曹操軍から逃げるために馬車からわが子をぶん投げた劉備(蒼天航路)、或いは妄想上の女をバカにされたことに怒り戦いを挑むドンキホーテ、或いは村中全員の奴隷のくせに、村中全員に超上から目線の阿Q……と、要するに聖者(ぼくの中では阿Qも聖者)とは、道徳やモラルとは無関係であり、そもそもそんなものに頓着する人間は所詮聖者には成りえないと……しかし、たとえばラスコーリニコフの如き、自己愛の延長で、道徳の破壊をある種目的としたふうの輩は、凡人もしくは特殊犯罪者に帰すとそれを区別し、そして、もちろん自分は前者、自分がクリストフをはじめとする聖者に該当しない根拠はないと……
 おお、しかし、我こそ文学界のナポレオン!芸術的才能は及ばずとも、芸術的良心においてはロマンロランほか一流の芸術家たちと同等であると、だからクソ婆の一匹ぶち殺したところでお咎めを受けるはずはないと……ましてそれ以下の悪事(親の金を盗むとか、友人のギターやプレステをこっそり売りさばくとか)なんて、わが芸術的良心をもってすれば余裕でペイできると……奇しくもラスコーリニコフ的に、しかし前科者にならないよう、近親者に的を絞って、絶縁勧告をうけるギリギリまで金をせびった。いや、もうこれ以上せびれないとわかっても、バイトなんかしようと思わなかった。
 なぜか……?
 世界の完成(平和)のために、ロマンロランをはじめとする人類史上最高の芸術家たちの思想信条を世に広めるという、世界でもっとも重要な仕事をする人間だからである。
 かくも偉大なはずの人間が、時給千円にも満たない仕事に、しかも低能な連中と同じ空気を吸い、しかも低能な連中にペコペコ頭を垂れるなど、そんな不条理を真実の神が許すはずはないと思った。
 否!偉大な人間こそ、むしろ外道の股くぐりを厭わないものである……
 というこの論理は間違っている。その証拠に韓信(漢の大将軍)は、後に股くぐりを強要した外道らを呼びつけて褒美を与えるという、吐き気がするほど嫌らしい真似をしでかし、歴史にその小物ぶりを刻んだ。そもそも偉人は、より偉人にのみ頭を垂れるのが道理である。その当然の真理をさしおき、外道の股くぐりを、それがさも道徳かのように説くゴミども(家族や友人)には、今にきっと天罰が下るに決まっている。いや、いますぐ死ね!
そう、ぼくは狂っていた……。
 やがて、自己破産をしてからも、ここまで堕ちたのはぜんぶゴミども(家族や友人)のせいだと決めつけたぼくは、とうとうこんな手紙まで書いてしまった……

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