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神であり悪であり
フォロワーが一人減ったことに多少とも心が乱されたり、どうしても上手くいかない職場の人間が二人いることにしても、自分が良心の神様に完全に忠実であればそうはならないだろう。たとえば後者の問題について、今年唯一正社員になれた僕がいっそうバリバリ仕事をこなしていることへの疎ましさや嫉妬心を彼らに生じさせてしまっているのは、僕の仕事のやり方が完全に純粋ではないからだ。褒められたい、頼られたい、目立ちたい……そういう幼稚な欲求を僕はまだ完全には捨てきれていない。さらに良くないのは、だから一部から嫉妬や反感を買っていることをわかっていながら、そういう反発を抱く相手に対しての敵対心を消すことがどうしてもできないことだ。
これはでも仕方ないと僕は思っている。幼稚な敵対心を消すことができなくても、二人とできるだけ接しないようにすれば敵対することはないからだ。そう、幸い向こうも敵対を避けようとはしている。いや、何かの拍子で二人と争ってしまっても仕方ない。二人にも家族と生活がある。それはわかっている。会社が優秀な僕のほうを守ることもわかっている。それでも僕は二人を潰そうとしてしまうかもしれない。それどころか、超最悪の条件が揃えば、僕は普通に父(重三郎)を殺してしまうだろう。もちろん良心の神様はそんなことを許さない。でもそうしてしまうかもしれない自分の弱さや悪を、どんなに思考や修業を積んでも自分は常に危うい存在であることを、僕は「直そう」ではなく「認めよう」としている。「直そう」とするから苦しみが増す。未熟でいいとは言わないが、未熟は仕方ない。重要なのは、どう未熟か?良心の神様が示す道とどのくらいかけ離れているか?を、しっかり客観的に分析し、「病気と上手く付き合う」ように「自分の未熟と上手く付き合う」ことだ。
人間は神と悪を両方もっている、神悪混合体(しんあくこんごうたい)だ。神にもなり得るし悪にもなり得る。超最悪の条件が揃ってしまえば、誰だって宅間や加藤(秋葉原通り魔)になり得る。もし妻を通り魔に殺されても、僕はたぶんその通り魔を最終的に許し、慈悲をかけられる自信がある。一方で、会社で上手くいかない二人に「お疲れ様です」の挨拶をフルシカトされたら許せる自信がないし、父が痰を道路に吐き捨てるその音で、僕の殺意は容易に芽づくだろう。肯定実行すべきはもちろん神のほうに決まっている。が、反する悪の存在を認める(受け入れる)心の底力が必要だ。この底力がないと、幸福は完成(持続)しない。
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