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年頭に:寒中見舞いボツ編

十二支って、誰が決めたのだろう。年賀状文化って、どんな背景なんだろう。クリスチャンじゃないのにクリスマスを祝うことに違和感を抱くように、説明できないのにやる意味ってあるのかなと思うことがしばしばあるのだけれど、それがそれとして役割を果たしているのなら、それはそれで受け入れてもよいと思えるようになった。

仕事柄なのか、生まれつきなのか、理由が分からないと手も足も動かない。けれど、自分の行動や意思をすべて説明できるのだろうか。十年前、突然はじめたこの仕事もいつの間にかまったく違う形になっていて、自分の思っていたとおりになったわけでもない。人はそんなに合理的じゃない。

仕事だけではなくて、人との出会いも。思ったように出会えないし、思ったように築けない。すべては自分の思うとおりにはいかない。不条理だと殊更に声をあげるほどのこともなく、それは当たり前のこと。

すべては思うとおりにはいかない。

夏目漱石が大切にしていた則天去私、二十年前の僕はこの言葉が大好きだったのだけれど、本当に意味が分かっていたのだろうか。いつの間にか三十代の前半を終えようとしていて、今一度この言葉を思い返してもみれば、十五の頃よりは少しばかり分かる気がする。

学生時代、亡き小室直樹先生に、ヴェーバーが説いたカルヴィニズムの予定説の話をよく聞かされた。キリスト教原理主義者と進化論者の議論が平行線であるように、信仰において強く理由付けされている予定説でさえも、古典物理学はともかく量子力学の前ではとても耐え得ない。未来は決まっているのだろうか。

さて、則天去私と予定説の間には、似ているようにみえて埋めがたい溝がある。カルヴィニズムのプラグマティックな禁欲主義の背景には、神に対峙したときの人間の絶対的安心ではなく、むしろ不安があるのではないだろうか。天職(Calling)を信じなければ、耐え難い予定説。一神教の絶対性の前に、人間の弱さを暴露されるような厳しさがある。過ちや不条理は神の赦しがあっても、罪は罪として心に刻まれてしまう。たとえ罪は許されても、傷は癒えない。

一方で、則天去私はどうだろうか。僕は無神論者だからというわけでもないけれど、どうしてこちらの方がよほどに気楽というもの。大きな流れに身を任せて、さもしい私心なんて持たずに、ゆったりと自分も他者も受け入れられる心の余白はないものだろうか。小さなことにくよくよせずに、大きな流れに身を任せてしまおう。もう少しゆとりをもって生活を捉え直してみたい。

……という文章を寒中見舞いとして出そうと思っていたのだけれど、一週間ほどで現実に直面し、則天去私にはほど遠い自分の余裕の無さに呆れて一年が始まろうとしている。

そんなこんなで寒中見舞いは全然違うものを送りまーす。今年もぼちぼちと。

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