看取り人(22)
口の中にドロっとした液体と鉄の味が広がる。
アイの顔が宗介から離れる。
魅力的な形の良い唇が血が吹き出る。
「そう・・すけ」
アイの身体が力なく膝から崩れ落ちる。
宗介は、慌ててアイの身体を支える。
アイの立っていた背後に立っていたのは、シーであった。
アーモンド型の目を三日月に細め、微笑を浮かべて力無く崩れ落ちたアイを見下ろす。
その手には大振りな包丁が握られていた。
アイの身体を支える宗介の血が赤く染まっていく。アイの背中から血が溢れ、地面を染める。
周囲が異変に気づき、悲鳴を上げる。
宗介は、必死にアイに呼びかける。
「アイ・・、アイ!」
シーは、高らかに哄笑する。
「先生・・・」
シーは、アイを愛しげに見つめ、微笑む。
「あっちで一緒になりましょうね」
その瞬間、シーは、自分の喉を包丁で突き刺した。
鮮血が飛び散り、宗介とアイに降り注ぐ。
宗介は、呆然とその光景を見る。
シーは、口から泡を拭きながら笑い、そのまま倒れ込む。
救急車の音が聞こえる、
我に帰った宗介は、必死にアイに話しかける。
「アイ・・・死ぬな!アイ!」
アイの左薬指に嵌った指輪が赤く、妖しく染まっていく。
宗介の目から光が失せていく。
目頭にうっすらと涙が溜まり、唇が震え、肌から色が消えていく。
看取り人は、パソコンの上で拳を握る。
もうすぐ・・・だ。
「シーが・・・何であんな行動を取ったか分からない」
宗介の声は、虫の羽音のように小さい。唇を動かし、声帯を震わせるのもやっとだ。
言葉の一語一語話す度に命が削れていくのが分かる。しかし、看取り人は、話すのを止めようとはしなかった。話す事が彼の最後の望みなのだから。
「遺言もなかった。家族にも何も話してなかった。普通に過ごし、普通に仕事に出たと言う。警察に言わせると突発的犯行であった・・らしい」
一言区切る度に空気が漏れ、目を力なく閉じる。言葉を考えるのすら苦痛となっている。
「アイさんは?」
看取り人は、宗介の言葉を補助するように質問を投げかける。
宗介は、うっすらと目を開き、首を横に振る。
「分からない」
宗介は、掠れた小さな声で言う。
「分からない?」
看取り人が言葉を返す宗介は、小さく頷く。
「あの後・・病院に運ばれて手術した。アイの家族も集まった・・。意識はなかったが、アイは命を取り留めた」
「なら・・」
「消えたんだ」
宗介の言葉に看取り人は、眉を顰める。
「俺は、毎日毎日、病院に行った。アイの家族も俺を受け入れてくれた。俺はアイが目を覚ますのではとずっと声をかけ続けた。そんなある日、いつもように病室に行ったら・・アイの姿はなかった」
「なかった?」
看取り人は、宗介の言葉を繰り返す。
「どこにも・・・どこにもアイの姿はなかった。いたのは・・彼女の父親だった」
アイの父親と会ったのはその時が初めてだった。
彼は、神妙な顔つきで宗介に「アイがお世話になりました」と言って頭を下げる。
宗介は、アイの父親に彼女はどこにいるのか、問い詰めた。しかし、彼女の父親は小さく頭を下げて「もうあの子のことは忘れてくれ」と告げた。
何を言っているのかまったく分からなかった。
納得が出来るわけなかった。
「俺は父親を問い詰めた。必死に必死に問い詰めた。しかし、父親は何も答えなかった。ただ、アイのことは忘れてくれ。それしか言わなかった。そんなことで納得が出来るわけがない!俺は、彼女の勤めていた学校にも行き、友人にも当たり、興信所にも依頼した。でも、彼女はどこにもいなかった・・。誰も知らないと口を揃えて言った。まるで泡となってこの世界から消え去ってしまったかのように彼女はいなくなってしまったんだ」
宗介は、涙を流し、弱々しく右手を天井に向かって伸ばす。
「あれからずっと俺は考えている・・。果たして本当に彼女はこの世界にいたのだろうか?俺が・・孤独な俺が見続けた幻だったのではないか、と。でも、この身体が彼女の温もりを覚えている。茶まんの目に彼女の姿が映る。生活の、人生のあらゆる場面に彼女の姿が・・痕跡が残っている・・」
天井に伸びた手が何かを掴むように力なく震える。
「俺は・・俺は、彼女を幸せにしたかった・・死ぬまで一緒に暮らしたかった・・。でも、彼女はきっと幸せではなかったんだ・・だからこの世界から・・俺の元から消えてしまった・・」
声が小さくなる。
呼吸が乱れる。
天井を見る視線が揺れる。
「・・・」
口が小さく動き何かを呼ぶ。
右手が伸び、身体が浮き上がりそうになる。
「会いたいよ・・・もう一度会いたいよ・・」
目が、口が、身体が震える。
痩せ細り、白くなった身体から何かが抜けていくのを看取り人は感じた。
「・・・」
宗介は、小さく、そして必死な何かを叫んだ。
震えが止まる。
伸びた手がベットに力なく落ちる。
呼吸が不規則になり、小さく口から漏れる。
目から光りが消え、動かなくなる。
看取り人は、小さく息を吐く。
宗介の炎は、燃え尽きようとしていた。
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