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【短編小説】フレンチトーストにオレンジピール

 あらすじ

タケルとナオは最高の夫婦だ。
タケルは、バスケ部のエースとしてその名が知られ、その容姿端麗さから誰からも人気者。ナオは、ミステリアスな才女と呼ばれ、その多彩な才能を活かし、周りを魅了していた。
そんな2人が夫婦になり、周りは当然と騒ぎ出す。
しかし、誰が知るだろう。そんな2人が手すら握ったことがないことに

本編
 タケルとナオは、最高の夫婦だ。
 2人を知る友人たちは口を揃えてこう言う。
 揶揄ではなく本心からだ。
 2人は、高校の時からの付き合いだ。
 タケルは、バスケットボール部のレギュラーで背も190センチ近くあり筋肉質。地が茶色の髪を長く伸ばして後ろで結い、すっと伸びた鼻梁に少し厚めの唇、二重の目はとても優しげで、本人も競い合うスポーツをしてるとは思えないほどに穏やかで、体格と性格のギャップに萌える女子は後を立たない。
 ナオは、ミステリアスな才女と呼ばれており成績はいつも上位10位以内に入っていた。小柄で身長がタケルの胸に届くかくらいしかなく、いつもタケルを見上げていたのが印象的だった。猫を連想させる顔立ちはとても愛らしく、ボブのショートがさらに際立たせる。吹奏楽部でも1年生の時からリーダーシップを発揮する凛々しい姿に同性からも異性からも惹かれていた。
 そんな学校を代表する人気者2人が交際していると話しが出た時は、学校中で歓喜と悲鳴が木霊した。
 それくらいに2人は、お似合いだった。
 2人は、常に寄り添っていた。
 喧嘩することもなく、お互いを尊重し合い、会えば楽しそうに話している。
 比翼の鳥とは、この2人のことを言うのではないかと、誰もが思った。
 そして交際して10年目に2人は籍を入れた。
 当然、誰もが祝福した。
 むしろ、まだ籍を入れてなかったことに驚いていた。
 結婚式は、挙げなかった。
 2人とも派手なことは好きでないし、今更だからと笑って家族や友人に説明していた。
 少々、納得はいかなかったものの、それでもみんな若い2人の幸せを祈った。
 2人もとても幸せそうだった。
 この時までにどれだけの人が違和感に気づいたのだろうか?
 こんなにも仲睦まじい2人が10年間、手すら触れたことがないことに。

 コンコンッとアルミのボールの縁で卵を叩き、片手で器用に割る。ボールの中に落ちた卵黄の色はとても艶やかだ。続けて、2個、3個と割り、牛乳を適量、蜂蜜も適量、そしてトパーズのように鮮やかな色をした手作りオレンジピールを細かく刻んで大さじにたっぷり一杯入れると、菜箸でかき混ぜる。菜箸の先とボールの底が触れ合い、食材が歌っているように聞こえる。
 綺麗に混じったことを目視すると.半分に切った食パンを4切れ投入し、満遍なく浸るように混ぜ込む。そして完全に味が染み込むまで放置している間にオニオンスープとサラダ作りを始める。
 それらの工程が終わり、バターを塗った熱したフライパンの上に味の染み込んだ食パンを寝かせるタイミングでナオは起きてくる。
 爽やかな甘い香りが部屋中を包み込む。
「おはよう」
 タケルは、笑顔で朝の挨拶をする。
 ナオも寝ぼけ眼で「おはよう」と返し、そのまま顔を洗いにいく。低血圧で朝に弱いナオ、起きてからもしばらくは夢遊状態が続く。
 タケルは、苦笑を浮かべて洗面所に行くナオを見つめ、焼き上がったフレンチトーストを皿に乗せる。卵と牛乳の混ざったクリーム色の表面にこんがり焼け目が付き、その優しい色合いが食欲を唆る。オレンジピールがビーズのように輝いてアクセントを加える。
 毎朝ながら会心の出来にタケルは、満足の鼻息を漏らし、出来上がった料理をテーブルに並べていく。
 オニオンスープ、トマトとレタスとチーズのサラダ、小さなウインナー、そして毎朝の定番であるオレンジピール入りのフレンチトースト。
 見事なまでのカフェ飯だ。
 女子高生なら涙して喜ぶだろう。
 自分の席に紅茶、ナオの席にコーヒーと牛乳を置いて席に着くと、導かれるように顔を洗い終えたナオも席に着く。
 阿吽を超えるタイミングの良さに他者が見たら舌を巻くことだろう。 
 そして言うのだろう。
 理想の夫婦だな、と。
「「いただきます」」
 2人は、同時に手を合わせ、同時に言葉に出した。
 しかし、口に運ぶのはナオが先だった。
 フォークを用意してあるのにフレンチトーストを手づかみすると、そのまま口に運ぶ。
 ナオ曰く、パンは手で食べる物らしい。
 毎朝のことながらその豪快さが面白くて目を細める。
「今日はどお?」
 毎朝作っているのに毎朝同じ質問をする。
「うーんっ」
 噛み切ったフレンチトーストを皿に戻し、口元を押さえながらゆっくりと咀嚼する。
「美味しいけどいつもより苦い」
 我が家のフレンチトーストに使っているオレンジピールは、タケルの手作りだ。オレンジの皮を嫌になるくらいスジを取って、嫌になるくらい煮こぼす。丁寧な作業をしているが、砂糖水などで味付けしてないので、自然本来の清涼のある匂いと苦味が残っている。
 タケルとナオは、結婚してから毎朝このオレンジピール入りのフレンチトーストを食べていた。
 どちらかが風邪とかで具合が悪くならない限り欠かしたことは一度もない。
 それが2人に課せられたルールであるかのように2人は毎朝食べた。
「これじゃお店に出せないよ」
「別に出さないよ」
 この会話も朝の常套句となっていた。
 ナオは、オニオンスープを啜り、小さなウインナを齧り、トマトを口の中に放り込む。そしてフレンチトーストを手づかみで食べる。
「タケルさあ。ひょっとしてだけど溜まってる?」
 タケルは、思わず口に含んだ紅茶を吹き出しそうになる。
「朝からなんだ⁉︎」
「だって、溜まってるから集中出来なくて、いつもより苦いんじゃないの?」
 何かおかしなこと言ってる?と言った表情でタケルを見る。
 タケルは、何も言わずに頬だけ赤く染めて紅茶を口直す。
 それはつまり図星ということだ。
 ナオは、勝ち誇ったようにニヤニヤ笑う。
「そういうナオこそどうなんだ?」
「どうって?」
「ここ2、3日起きてくるのがさらに遅いぞ。そっちこそ溜まってるんじゃないか?」
 仕返しとばかりにタケルが意地悪く言う。しかし、ナオはあっけらかんと、
「溜まってるよー」
 と、醤油とってとでも言うように返す。
 奔放なナオは、こう言う発言にも躊躇いがない。
 聞いたこっちが赤くなり、タケルはそれ以上何も言えずに草むらをつつくようにサラダを食べた。
「そんじゃさ。今日はお互いにその日にしようか」
 そう言うとナオは、スマホを取り出してSNSでメッセージを送る。
「よしOK!」
「早いな」
「善は急げでしょ?」
 そう言って残りのフレンチトーストを食べる。
「タケルも早く誘った方がいいよ。予定入れられる前に」
 そう言われてタケルもスマホを取り出しSNSで目的の相手にメッセージを送る。
「夕飯は?」
「もちろん食べる」
「作り置きでいい?」
「もちろん」
 そうしている間にタケルのスマホにも返事が返ってくる。
「そんじゃお互い遅くなるけど」
「レンジで温めてね」
 そして2人は朝食を食べ終え、身支度すると各々の仕事へと向かう。
 2人は、理想の夫婦と呼ばれている。
 しかし、肉体関係はなかった。

 タケルの経営するカフェは、地元でも有名な桜の名所である県立公園の近くにあった。亡くなった祖父から譲り受けた古民家をリノベーションし、江戸時代の茶屋のような雰囲気を残しつつも板張りの現代風にアレンジしたカフェは、地元民だけでなく、公園に遊びにきた区外、市外の人たちにも好評で、一度や二度、タウン誌が取材に来たこともある。
 最も客たちの目的がカフェしにくるだけでなく、紙面を飾ったイケメン店主を見に来ているとは本人も気づいていない。正直、身なりを気にしたことはない。仕事する時は、量販店で買ったパーカーにジーンズ、そしてナオが開店祝いに買ってくれたデニム生地のエプロンをしているだけだ。
 それにタケルとしては、店の雰囲気や周りの環境ではなく、あくまで味で勝負したいと考えている。
 高校を卒業して調理の専門学校に行ったことにも驚かれたが、カフェを始めたことにも家族、友人達は大変驚いていた。
 成績も良く、バスケでも高い評価を受けていたタケルは、てっきり大学に行ってどこかの大手企業に勤めるか、バスケで実業団にでも入ると思われていたのだ。
 それが180度違うカフェの店主となったことは今でも話題に上がる。
 その度にタケルは、カフェ経営はオレの夢だったんだと笑いながら語る。
 実際、タケルの料理の腕は中々のものだった。
 カフェで提供するのはロコモコや魚のフリッター、オムライスやパスタと言った主の物にスープやサラダをつけたプレートメニューが多いがどれも高評価だった。
 それだけでない。
 コーヒー、紅茶と言った定番にも豆や茶葉に拘り、種類も豊富だ。ジュース類も果物から直接絞った100%に拘っている。
 そして極め付けはなんといってもフレンチトーストだろう。フレンチトースト用にタケル自らが焼いた食パンに厳選した卵、牛乳、蜂蜜を使い、外側は程よく固く、中身がトロリとした不純な味のないシンプルな甘みは、誰が食べても喜ばれる看板メニューであった。
 その為、桜の時期でなくても客は絶えることなく、子供連れ、カップル、学生、お一人様、テラス席にはペット連れ等、たくさんの客が店を訪れる。
「今日もお客さんいっぱいですね」
 パートの女子大生も嬉しそうに言う。
「ありがとう。賄いにフレンチトーストを振る舞うからもう少しがんばってね」
 タケルがにこやかに笑いかけると女子大生は、少し頬を赤く染めて「はいっ」と頷き、張り切って業務に当たった。
 店の扉の開く音がする。
 スーツを着た男性が店の中に入ってきた。
「いらっしゃいませ」
 タケルは、にこやかに迎える。
 その男性客が一歩店の中に足を踏み入れた瞬間に、客の視線を一斉に集めた。
 背が高く、一眼でわかる上等なスーツ、肌は雪化粧を被ったように白い。顔の彫りが深く、鼻が高い。薄緑の目と被ったハットの隙間から金糸の髪が見える。
 恐らく英国系の白人だろう、紳士然とした佇まいでゆっくりとした足取りでカウンター席まで寄ってくる。
 そしてタケルの目の前の椅子を引いてそのまま座り、にっこりと笑う。
「ご注文は?」
 タケルもにっこりと微笑む。
「エスプレッソとフレンチトーストを」
「メープルシロップはつけますか?ジャムを好まれる方もいますが?」
「メイプルシロップで」
「畏まりました」
 そう言って厨房に行こうとすると、くいっとエプロンが引かれた。
 見ると、英国紳士の手がエプロンを掴んでいた。
 熱のこもった眼差しでタケルを見る。
 タケルは、その眼差しを受け止めると、笑みを消す。
「お客さま?」
 少し冷たくなった声に英国紳士は、慌てて手を離す。
「失礼しました。やはりエスプレッソでなくラテで」
「絵柄はつけますか?」
「お願いします」
 タケルは、「畏まりました」と呟き厨房へと戻っていく。
 英国紳士は、注文したラテとフレンチトーストをゆっくりと、時間を掛けて食べた。タブレットで書籍を読み、時の歩みと共に変化していく客層を眺め、エスプレッソを注文し直した。
 夕方になり、客も減り、パートの女子大生が仕事終わりに賄いのフレンチトーストを食べている間も英国紳士は、タブレットで書籍を読み、窓から差し込む夕日を見ながら席を立とうとはしなかった。女子大生は、訝しみながらも店主が注意しないので何も言わず、食べ終えるとそのまま帰宅していった。
 カフェの中は2人だけになる。
 タケルが食器を洗う音だけが耳を打つ。
 そしてタケルがエプロンを外し、カウンターから出てくると、ようやく英国紳士は椅子から立ち上がる。
「お待たせ」
 タケルが優しく微笑むと、夕日に照らされた紳士の顔が輝く。そしてタケルの肩に手を回すと、そっと引き寄せ、唇を重ねた。
「今日は楽しみましょう」
 そう言って2人は暗い店の奥へと身体を入り込ませていった。

 ナオは、市立大学の看護学部を卒業後、そのまま付属の大学病院に勤めた。
 大学病院では救急救命を始め、外科、整形外科、産婦人科の病棟ナースを経験、どこの部署に行っても評価はA判定。優秀、手際がいい、同じ看護師たちから見ても処置の早さ、点滴の刺し方、患者への対応は素晴らしく、医師達からしても彼女が手術に一緒に立ち会ってくれると言うだけで安心感がまるで違うと評され、一時期は医学部をもう一度受けてみてはとまで言われた。後輩への指導も素晴らしく、リーダーシップを発揮し、20代でチーフの声まで上がったが、「結婚するので」と丁重に断られ、遂には外来への希望を出された時は、上層部たちはとても驚いていた。
 恐らく子どもを産むことを考えているのだろうと周りは思い、チーフになったとしても産休育休は勿論使えるし、時短だって出来ると説得したがナオの決意は変わらず、惜しまれつつも外来への異動となった。
 ナオは、屋上のベンチでタケルが用意してくれたお弁当を食べていた。朝は洋食だからと、いつも和食弁当にしてくれる。今日は鮭の俵お結びにたまご焼き、昨日の残りの里芋とイカの煮物、ほうれん草の白和えに明らかに早起きして作ったであろう唐揚げが2個添えられている。
 誰がどう見ても愛情弁当と言えるものだ。
 ナオは、鮭お結びをゆっくり咀嚼する。
 鮭の塩味と白米の甘味、海苔の風味とはこれほどに相乗効果を生むのかと驚嘆する。
 ナオは、お結びを飲み込み、水筒から注いだほうじ茶を啜る。これもタケルが用意してくれたものだ。
 そしてじっと空を見た。
「平和だなあ」
 真っ青な空。どこまでも広がる空。何の刺激もない空。雲の一つでもあればいいのに今日に限ってそれもない。
 外来は、時に急患が来ることもあるがほとんどが穏やかだ。高齢者の相手、泣く子どもへの注射、不安を抱える患者への傾聴も救急や病棟の時ほどに深刻なものは来ない。
 穏やかだけど刺激のない仕事。
 自分が望んで異動したというのに、こんなことを思ってしまう自分は我儘なのだろう。
 病棟から外来に異動した理由は周りが考えているようなことではない。周りが考えているようなことを私は出来ない。
 異動を希望した理由、それは外来には私と年の近い女性がいないからだ。
 大体が40代後半〜定年間近の看護師が多い。たまに新人の看護師が入ったりするがかなり歳下なので範疇外だし、医師の中には同じ年代もいるがそんなに接点がない。
 そのおかげで心穏やかに仕事は出来ているのだが・・・。
「退屈だあ」
 看護師になるのは昔からの夢だ。
 父親が当時では珍しい男性の看護師でその働く姿が格好良く、憧れを抱いたのがきっかけだ。
 しかし、自分のある特性に気づいてからこの仕事は、自分には無理なのではないか?と思った。諦めて普通の会社員を目指そうとも思った。しかし、それを後押ししてくれたのが誰であろうタケルだった。
「ナオは、夢を諦めないで。自分に負けないで。ナオならきっと出来る。オレも支えるから」
 その一言が今の自分を作ってくれた。
 そして難関と言われた市立大学に合格し、看護師と保健師の資格を取り、今に至っている。  
 大学病院にはずっといるつもりはなかった。ある程度キャリアを積んだら家の近くの個人医院か役所の保健師にでもなるつもりだった。しかし、外来を体験すると刺激のなさに続けていくのが難しいのではないかと思ってしまう。
「どうしようかな・・・」
 こんな私に出来る選択肢。
「何悩んでるの?」
 吐息と共に耳元で声をかけられ、ナオは思わず「ひやゃあっ⁉︎」とらしくない声を上げる。
 いつの間にか白衣を着た女性が隣に座っていた。
 肩甲骨あたりまで伸ばした髪をシュシュでまとめ、胸元に流している。少し丸みのある顔に大きな目、口元に三日月のような笑みを浮かべるのがなんとも可愛らしい。少し幼顔なのに身体の肉付きはとても良く、白衣が色気をひき立たせていた。
 彼女もこの病院に勤めるMSW、メディカルソーシャルワーカーと言う職種で主に退院調整や介護や何らかの支援が必要な患者に対し必要とされる機関に繋ぐ仕事をしている。いわゆる相談援助職だ。
 ナオも病棟ナースとして勤務していた時に良く関わっていたし、外来になってからも同じ階だからよく顔を合わせた。そして今でもプライベートで色々なものを合わせている。
「い・・・いつの間に?」
 ナオは、動揺を隠せなかった。
「さっきからいたわよ。声かけようと思ったんだけど、考え事してる顔があまりに可愛かったから見惚れてたのよ」
そう言って、男なら間違いなくころっといってしまうような色香のある笑みを浮かべてナオの頬に触る。
 ナオの心臓は、ドキドキして止まらない。
「あら珍しい。緊張してるの」
 ナオの頬をピアノを弾くようにトントンと触る。
「突然現れたからびっくりしただけだよ」
「だからさっきからいたわよ」
 そう言ってナオの顔に自分の顔を近づけて唇を合わせる。
 長いのか、短いのかわからない時間、2人は唇を重ねた。
 無言の空だけが彼女たちを見守る。
 そしてようやく離すと少し息切れしながら彼女は笑みを浮かべる。
「おにぎりの味がする」
「鮭が美味しいでしょ?」
 2人は、額を寄せ合って笑う。
「今日はお誘いありがとう」
「こちらこそ、突然でごめんね」
「楽しみにしてる」
 そういって彼女は、立ち上がるともう一度ナオの頬を触り、去っていった。
 今日は、少しは刺激的になりそうだ。
 そして、ふっと思った。
「相談援助職かあ」
 地域包括支援センターや保健所で働くのも悪くないかもしれない。
 新たな視野を手に入れてナオは、気分が良くなり、夜を心待ちしながら仕事に励んだ。

 少しぬるめのシャワーでタケルは、熱った身体を冷ます。リノベーションした時、この家に住むつもりはなかったから浴室は外すつもりだったが、今はシャワーだけでも取り付けといて良かったと思う。
 身体は、程よい快感に脱力している。 
 しかし、心はどこか空虚だ。
 先程の行為を思い出そうとすると浮かんでくるのはこの場にいない彼女の顔だった。
 腰にバスタオルだけ巻いて部屋に戻ると彼は、裸のまま畳に敷いた布団の上に座り、タブレットを真剣に見ていた。
 タケルは、そっと彼の隣に座る。
「何を真剣に読んでるの?」
 声をかけるとスーツを脱いだ英国紳士は、深く笑みを浮かべ、タケルの口にキスをする。間近で見るその顔に小さな皺が幾つもあるが、あちらの人たちは実年齢よりも大人びて見えるのでそんなに年ではないだろうと思う。じゃないとあの体力は考えられない。
 唇を離し、英国紳士は微笑する。
「仕事ですよ。前も言いませんでしたっけ?私はトレーダーです。こうやって為替の様子をチェックしてるのですよ」
 そう言って折れ線グラフの幾つも入った画面を見せてくるが、正直よく分からない。家族も友人もナオも勘違いしてるがオレはそんなに頭は良くないのだ。あの当時は何かに集中して取り組んでないと心が壊れそうだから文武両道してただけなのだ。
 それに実際には彼のことは、ほとんど知らない。一年くらい前に店に来て、雰囲気で同じ性癖を抱えていることが分かり、気が付いたら関係を持っていた。
 名前も知らなければ住んでるところも、日中は何をしているかもほとんど知らない。分かるのは彼が外国籍であること、紳士的な良人であること、そして身体の相性がとても良いこと。
 それだけだ。
 それ以上は、申し訳ないが興味もない。
 しかし、彼は違うようだ。
 彼が自分を見る目は、まさに恋人を見つめるそれだった。
「なので、私は充分に貴方を養うことが出来ます」
 英国紳士は、タケルの頬に手を当てる。
 少し固い手のひらは、ほんのりと温かい。
「正式に私と付き合って頂けませんか?今以上に満足させることを約束します」
 告白する英国紳士の目は、うっすらと震えていた。
 それだけで彼の本気が取れる。
 正直、心がときめがない訳ではない。
 いくつになっても告白されるのは嬉しいものだ。
 しかし、ときめいたからと言って心が動く訳ではない。
 タケルの心は、10代の時から不動のままなのだ。
 タケルは、頬に触れる英国紳士の手を剥がし、彼の膝の上に戻す。
「NO」
 自分でも驚くほどに綺麗な発音だった。
 その返答に英国紳士は、目を閉じる。
 認めたくない思いとやはりという想いが混じりあっているのだろう、苦悩で眉間が寄る。
「貴方とはこれ以上の関係を作ることは出来ない」
 英国紳士は、目を開ける。
 目の端に涙が小さく溜まる。
「それは彼女のことですか?」
 彼女を指すのがナオであることは明白だ。
 彼は、一度店に来たナオを見ている。パートの女子大生から彼女のことを聞いて酷く狼狽していたことも覚えている。
 タケルは、小さく頷く。
「オレの人生のパートナーは彼女しかいない」
 はっきりと言う。
 その言葉に迷いはない。
 英国紳士の唇が震える。
「なぜですか?なぜ抱けもしない、口づけもかわせない、触れることすら憚られるのに、なぜそんなことが言えるのです?そんなものと一緒にいて何が楽しいんですか?」
 そんなもの?
 タケルの目に怒りが浮かぶ。
 意識するより早くタケルの手が英国紳士の肩を掴み、握りしめる。
 英国紳士は、小さい悲鳴を上げる。
 タケルは、すぐに我に返り、手を離す。
 英国紳士の肩にはうっすらと痣が付いていた。
「すいません」
 タケルは、小さな声で謝罪する。
 英国紳士の目には痛みと小さな恐れが浮かんでいた。
 穏やかで優しいイメージしかなかったタケルの豹変に驚き隠せずにいる。
「・・・確かにオレは、彼女を抱けない。口づけすら気持ち悪くなる。でも、それでもオレは・・・」
 その目には、揺らぐことのない真摯なものだった。
「彼女を愛している」
 オレンジピールの入っフレンチトーストが無性に食べたかった。

 肉欲だけでは抱くことは出来ない。
 ナオとMSWは、行為に及ぶ前に必ず酒を飲んだ。
 MSWは、別に飲みたくもなく、直ぐにでも始めたかったがようだが、ナオが「ずっと習慣なのよ」と言って誤魔化し、ピールを煽った。
 習慣なんて嘘だ。
 経験なんてこの子を入れて数人しかいない。しかもみんなそう言う商売の子達。素人は彼女が初めてだ。
 酒で酩酊するとようやく行為に及ぶことが出来る。
 自分から誘っておいて勝手な話しだが、いざしようと思うと彼の顔が浮かんでしまう。だから、この時だけは忘れよう。快楽に溺れようと酒で感覚を増幅するのだ。
 彼女との相性はとても良かった。
 身体がこんなに馴染むことは滅多にない。
 快感に身体と頭が溺れる。
 しかし、どんなに快楽に覆われても心の片隅に彼がいる。彼がじっと見ている。 
 やはり心までは溺れられなかった。
 行為を終えると、酷い喉の渇きを覚えて冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して飲む。
 そういやこのホテルのルームサービスって高かったんだっけ?なんて思ったが、まあ仕方ないかと開き直って半分以上飲む。
「ねえ、私にも」
 ベッドの中からMSWが気怠そうに言う。
 余韻が残っているようでまだ頬が赤い。
 ナオは、ベッドの橋に座ると飲むかけのペットボトルを渡す。
「口で頂戴」
 蕩けるような声で甘えてくる。
 あまりの可愛らしさにナオは思わず笑みを零す。そしてペットボトルの水を口に含み、そのままMSWの口に付けて流し込む。 
 MSWは、口の端から水を溢しながらもゆっくりと嚥下する。 
 その姿がなんとも艶がやって色っぽい。
 彼女が自分と同じ性癖を持っていると知ったのはいつだったろうか?特にお互いから打ち明けたことはなかったように思う。自然と野生の動物が独特のフェロモンを出して惹かれ合うように、ホタルが淡い光りを発して呼び合うように自然と身体を求め合い、よがり狂った。
 それでもナオの心の片隅には彼がいた。
 唐突に彼女はナオの手首を掴む。
「ねえ。やっぱり私たち一緒に暮らさない?」
「えっ?」
「こんなに相性がいい人初めてなの。私たちきっと最高のパートナーになれるわ」
 彼女は、頬を林檎のように紅潮させて告げる。
 恐らく意を決しての告白なのだろう。
 確かにこれだけの相性の良い相手に出会えることなんて一生のうちに何度あるのだろう。恐らく片手の指を二つか三つ折るくらいかもしれない。
 しかし、だとしてもナオの返答は決まっている。
「ごめん」
 ナオは、手首を握る彼女の手を話す。
「前も言ったけど私、既婚者なの。彼のことを愛してるの。だから貴方の告白を受け取ることは出来ない」
 彼女の顔に絶望が走る。次に浮かんだのは怒りだ。
「何故⁉︎その旦那とはやれないんでしょ?」
「そうね。キスも出来ないわ」
 何度も試したが嫌悪感しか出なかった。
 手が触れるだけで肌が粟立つ。
 その度に胸が痛くなる。
「そんな相手といる意味があるの?抱けもしないのに、キスも出来ないのに、一緒にいる理由なんてないじゃない!」
 MSWは、泣きながら声を荒げる。
 愛しい者に捨てられないようしがみつくように。
 しかし、そんな彼女の声を聞いて、ナオが思ったのは一つの小さな疑問だった。
 理由がない?
 この子は、一体何を言っているのだろう?
「愛に理由なんているの?」
 それは本当に心から溢れた疑問の言葉だった。
 その言葉を聞いただけでMSWに入り込む余地がないことが分かった。
 MSWの両手がナオの首に伸びる。
 咄嗟のことにナオは、反応出来なかった。
 首に強い力が込められてる。
 爪が食い込み、喉仏が潰れそう。
「死んで」
 ぼそりっと呟く。
「私と一緒に死んで」
 ナオは、遠ざかる意識の中、タケルの笑顔が浮かぶ。
 あーっもう一度食べたかったな。
 オレンジピールの入ったフレンチトースト。

 タクシーから降りるとタケルは、救急の受入口へと走る。そして窓口対応の職員に名前を告げると、直ぐに看護師が来て案内してくれた。
 カーテンで仕切られた処置室のベッドにナオは寝ていた。ぼおっとした目で自身に繋がった点滴が落ちるのを見ている。
「ナオ」
 声をかけるとようやくタケルに気づいて小さく微笑む、
「タケル・・・」
 タケルは、ほっと胸を撫で下ろす。
 よく見るとナオの首には包帯が巻かれていた。
 看護師が用意してくれた椅子に座り、じっとナオの首を見て尋ねる。
「何があった?」
「・・・痴情のもつれ」
 その言葉だけで何があったのか容易に想像がついた。
 タケルは、小さく息をつく。
「・・・彼女も本気で私を殺そうと思った訳じゃなかったみたい。私が気を失って相当気が動転して救急車じゃなくて警察に電話しちゃったみたいだから」
 ナオは、苦笑する。が、すぐに目線を下げ.顔を俯かせる。
「警察の話しだと彼女ね『思い知ればいいのに』って言ってたらしい」
「思い知ればいい?」
「多分、彼女からすると自分は本気で好きになったのに私に弄ばれたと思ったみたい」
「どうして?」
 ナオは、顔を上げてタケルを見る。
「貴方のことを愛してるから。だから貴方の告白を受け取ることは出来ない。そう言ったの」
 それを告げた時の彼女の絶望の顔。
 酷いことをしたのだと今さらながらに思う。
 私にとっては彼女は相性の良いセフレでしかなかった。でも、彼女にとっては自分は殺したくなるほどの恋愛対象だったのだ。
 酷い女・・。
 ナオは、自虐的に笑う。
 無意識とはいえ、あの時されたことを相手にしてしまったのだ。
「ナオ」
 タケルは、手を伸ばしかけ、引っ込める。
 こんな時でも触ることの出来ない自分に嫌悪感が募る。
「すいません」
 カーテンの向こう側から声が聞こえる。
 タケルがカーテンを開けると20代前半くらいの若い警察官が立っていた。
「すいません。起きられていると聞いたもので」
 警官は、恐縮して言う。
 その声はまだ初々しく、タケルは、思わず微笑んでしまう。
 タケルに笑われたと思った警官は少し頬を赤らめるも手帳を取り出し、ナオに質問を投げかける。
「今回の件ですが、被害届けは出されますか?あちらは反省してますが、十分に傷害罪、殺人未遂として訴えることが可能ですが・・」
 警察の問いにナオは、首を横に振る。
「被害届は、出しません。彼女に伝えてもらえますか?今回の件、ごめんなさい。もう会うのはやめましょうって」
 そう言ってナオは、頭を下げた。下げた相手は恐らく警察官にではないのだろう。
 警察官は、「分かりました」と了解する。そして、チラッとタケルに視線を向ける。
「失礼ですが貴方は?」
「・・・彼女の夫です」
 その言葉に警察は、ひどく驚いた顔をする。
 今回の事件は女性同士の関係のもつれだと認識していたので、異性の夫が出てくるなど思いもよらなかったのだろう。
 その失礼な態度にタケルは、ムッとする。
「・・・失礼ですが身分証を」
 まだ、疑っているのかと渋々免許証を取り出して警察官に渡す。
 警察官は、免許証を受け取ると事前にもらっていたナオの情報と見比べる。
 そして免許証を返す時、酷く同情的な顔をされた。
 タケルは、殴りかかりたい衝動に駆られるも免許証を受け取るに止めた。
 警察官は、一礼して去っていく。
 タケルは、カーテンを閉め、ナオに見えないよう奥歯を噛み締める。
「・・・私たちってやっばり間違えてるのかな?」
 その言葉にタケルは、火鉢をあてられたように振り返る。
 ナオは、顔を俯かせ、涙を溜めている。
 布団を皺が寄るほどに握り締める。
「私は、私は、純粋に貴方のことが好きなだけなのに・・なんで?何がいけないの?」
 ナオは、涙を流してタケルに訴える。
「いけないことなんてないよ」
 タケルは、ナオを安心させるように笑いかける。
 抱きしめて上げられないことをこんなに悔しく感じることはない。
「例え、周りから受け入れられなくても、俺たちの愛は本物だよ。そう誓っただろう」
 そうあの時、俺たちは誓ったのだ。
 2人でずっと愛し合い、支え合っていくことを。

 タケルは、自分の身体が紛い物だとずっと思っていた。
 自分の本当の身体は、どこかの悪い組織が隠してしまい、今の身体は、そんな連中が面白半分で作って自分の魂を入れた、そんな厨二病のようなことを本気で思っていた。いや、そう信じようとしていた。 
 じゃあなきゃおかしい!
 なんで俺だけみんなと違う!
 なんで女の子に欲情しない!
 なんで触ることを考えるだけで気持ち悪くなる!
 なんで同性の身体に反応する!
 俺は、スポーツが好きだ。ヒーローの活躍する漫画だってずっと好きで読んでる。服だって男ものしか興味はないし、女ものの可愛いものやアクセサリーにも興味もない。
 なのにどうしても異性に興味を示せない。嫌悪感すら感じる。逆に同性には欲情する。
 こんなことは誰にも相談出来なかった。
 親にも、兄妹にも、友人にも誰にも言えなかった。
 ずっと孤独だった。
 それを忘れるためにバスケに打ち込んだ。
 真剣に、雑念など入り込むことができないほどに隙間なく全力を注いだ。
 お陰様で卒業までの3年間ずっとレギュラーをキープし、身長も環境に適応するかのように中学から30センチ以上も伸び、顔も精悍なものとなった。
 お陰で女子にもモテた。吐き気がするくらいモテて、少しでも触れられるとトイレで吐いた。
 その度に自分が他の人と違うのだと絶望の痛みが走った。
 次第にバスケだけでは心を埋めることが出来なくなった。次にのめり込んでだのが料理だった。食材に向き合い、何を作ろう、この調味料を入れたらコクが出ていいんじゃないか?煮込むより揚げる方が美味いんじゃないか?化学の方程式のように無限にあるバリエーションを考えるだけで楽しかった。
 自然と料理の道に進もうと思ったのもこの時だ。
 自分の店でも持てば客はともかく必要以上に同性と関わらなくていい。自分1人だけで生きていくことが出来る。
 最高だ!と思った。
 漠然と自分の生きる道が描けただけで少し心が楽になり、前向きに考えられるようになった。
 アレを見るまでは。
 それは高校2年の冬、身も凍るほどに寒いとは言え、バスケに集中すれば汗は出る。特に新陳代謝の激しい10代なら尚更だ。大会前に自主練をしていたタケルは、一度着替えようと部室に戻り、ドアノブに手をかけると中から声が聞こえた。
 激しい吐息と喘ぎ声。
 タケルは、ドアノブから手を話す。
 心臓が軋む。
 開けてはいけない。
 ここから離れるんだ。
 頭の中で警鐘が鳴り響く。  
 開けてしまったらもう戻れない、と。
 しかし、頭に反して心が囁きかける。
 開けろ、と。
 タケルは、心の囁きに逆らうことが出来ず、ドアノブを掴み、ゆっくりと回して開いた。
 そして後悔した。
 部室の硬いベンチの上でチームメイト2人、体を重ねてが交わっていた。
 顔を紅潮させ、上半身を脱いで、逞しい身体を晒し、ズボンと下着を中途半端に下ろしていた。
 タケルは、自分の身体が急速に冷えていくのを感じた。 
 手足の指の間隔がなくなり、震えがゆっくりと襲ってくる。頭の中で思考と感情が爆竹のように弾け、代わりに下半身の一部が熱くなる。
 チームメイトたちは、思考が停止して呆然としているタケルを見て破裂寸前の完熟トマトのように赤くなり、互いを突き飛ばすように離れ、ズボンを上げる。
「ちっ!違うんだタケル!誤解だ!」
 チームメイトの1人が言うには、もう1人の方に初めて彼女が出来た。キスまでは出来たがその先にどうしても進むことが出来ない。どうしたらいいか相談を受けたと言う。チームメイトは、真剣に相談を受け、アドバイスをした後、「それじゃあ本番前に練習してみるか」と面白半分で互いで模擬をしてみたら思いの外盛り上がってしまい、気がついたらズボンを下ろしたところでタケルが入ってきたのだ。
「頼む!」
「このことは誰にも言わないでくれ!」
「なんでも奢る!」
「彼女に知られたくない!」
 2人は、必死に頼む。
 しかし、思考の破裂していたタケルの耳にはまるで届かない。
 恐らく2人にはタケルの表情と目が冷めた、ひどく軽蔑したように見えたことだろう。しかし、実際には混乱して表情も目も形を定めることが出来ないだけだった。
 タケルは、震える足で後退りし、ドアを閉めた。
 ドアの奥から「待ってくれ!」と大声で叫ぶ声が聞こえるが、タケルは、取り合わずそのまま走り去ってしまう。
そして気が付いたら屋上の壁に寄りかかっていた。
 夕暮れの空が苦しいくらいに綺麗だった。
 タケルは、ズルズルと座り込み、頭を抱える。
 もうダメだあ。
 感情と欲が抑えられない。
 考えすぎて何も考えられない。
 呼吸ができない。
「やべえ・・・死にたい」
 タケルは、涙を流し、爪が食い込むほどに自分の手首を握る。鬱血し、流れた血が筋を作る。
 もうどうしたら良いのか、タケルには分からなかった。
 その時、屋上のドアが開いた。
 入ってきたのは小柄なボブショートの少女だった。
 彼女は、屋上のドアを閉めるとそのままへたり込んだ。
 よく見ると涙を流し、蒼白な顔で空を見上げる。
 そしてぼそりっと呟く。
「やばい・・死にたい」

 ナオは、中学校に入るまで自分の性の在り方が他の女子と違うことに気づかなかった。
 男ばかりの兄弟の末っ子のため、常に男達に囲まれて女友達と遊ぶより男友達と遊ぶのが多かったのも要因かもしれない。同性と話す時に緊張するのもそのせいだと思っていた。
 それが違うと気づいたのは中学校で初めての体育の時だった。
 小学校の時は体育の授業やプールなんかは男女共有だったが、中学になった途端に別々になった。そしてその景色が女子一色になった時、言いようのない恥ずかしさがナオを襲ったのだ。
 友人達の弾む声、甘い匂い、少しだけ覗くうなじ、同性同士だから胸元なども露骨に見せ合うし、着替えの時などは下着姿で猥談に花を咲かせる。
 羞恥と息苦しさ、そして僅かな下腹部の疼きにナオは、その場にいられなくなり、目を閉じて素早く着替えるか、時間をズラす、生理痛がひどいと体育の授業自体を休むこともあった。それは学年を重ねるごとに酷くなった。
 元々、運動神経が良く、スポーツも好きだったが刺激の少ない吹奏楽部に入った。
 お昼ご飯も一人で食べることが多くなった。
 トイレも誰もいない時に入った。
 当然、女子たちからは奇異の目で見られたが小学校の時から人気者で成績も良く、そう言った特別な場面以外には普通に過ごしていたので、思春期特有の人見知りくらいにしか思われなかったのは幸いだろう。そしてナオ自身も今の状態は一過性のものだと思っていた。高校に入れば治るだろう、と。
 実際に高校に入ってからは以前のような衝動も少し落ち着いてきた。いや、慣れたと言うべきだろう。今だにトイレは1人の時に入るし、部活も吹奏楽部のままであったが中学の頃に比べれば落ち着いたと思う。少なくてもナオはそう思っていた。
 それが破られたのは突然の告白からだった。
「ねえ、なんでいつも私を見てるの?」
 声をかけてきたのは学年でも美少女として知られた生徒だった。
 突然、呼び出しを受け、指定された場所に着くや否や彼女にそう言われてナオは戸惑った。
 見ていた?私が?彼女を?
 確かに綺麗な子だなあと思って見ていたかもしれないが、そんなに露骨だったろうか?
 彼女は、じっとナオを見つめてくる。
 ナオは、顔を赤らめて目を反らす。
 その仕草に彼女は、悪戯っぽい笑みを浮かべ、そっとナオの頬を撫でる。
 その瞬間、電撃を浴びたような快感がナオの背筋を走った。
 ナオは、驚いて彼女を見る。
 彼女は、何か確信めいた表情をする。
「貴方、レズでしょう?」
「えっ?」
 この人は何を言ってるんだ?
 レズ?誰が?
 私が⁉︎
 彼女は、ナオの頬を両手で挟み、顔を動けなくすると、その膨らみかけた蕾のようなナオの唇に自分の口髭を重ねた。 
 ナオの思考は、停止する。
 快感と混乱が身体をかき乱す。
 彼女は、唇を離すと小さな舌を出して自分の唇を舐める。
「私もよ。仲良くしましょうね」
 そう言ってにっこり笑って去っていった。
 ナオは、腰が砕けそうで立ってるのもやっとだった。
 その時からナオは、彼女に溺れていった。
 2人は、会う度に唇を重ねた。
 時には人目を偲んで交わる真似事のようなこともした。
 ナオは、自分自身ですら知らなかった性癖に戸惑いつつも逆らうことが出来なかった。
 彼女も自分と触れ合うことで恍惚としていることが分かる。
 嬉しい。
 自分が彼女に快楽を与えられていることが嬉しかった。
 この夢のような出来事は永遠に続くと信じた。
 しかし、その夢は、唐突に終わりを告げた。
 ある日の放課後、吹奏楽部の練習を終えて教室に戻ろうとしたナオは見てしまった。
 教室の中で男女が口づけを交わしているところを。
 気まずいなあと思いつつも教室の中にはカバンを置いてあるから帰るにも帰れない。
 待つしかないか、と思ってもう一度教室の中を見て気づいた。
 男子の背中に隠れて見えなかったが彼女だった。
 彼女は、とろけるような表情を浮かべて男子の首に手を回し、唇を貪っていた。極上の蜜を味わう女王蜂のように。男子は、彼女からの快楽に呆けた表情をしたまま唇を吸われる。
 その姿が自分に重なった。
 嫌悪と嫉妬と絶望で心が圧される。
 ナオは、扉を開く。
 そんな強く開けたつもりはないのにバァンっと開く音が教室中に響く。恐らく他の教室にも、他の階にも響いたかもしれない。
 2人が唇を離してナオを見る。
 ナオは、興奮に息を荒げ、2人を睨む。
 男子は、突然、扉を開けて自分たちを睨むナオに明らかに動揺している。頭の中では、「この子って確か成績が良くて有名な吹奏楽部の子?」「えっなんで睨んでるの?」「見られて恥ずかしい」等、様々な考えが逡巡している。
 一方の彼女は、扉の音に驚きはしたもののナオを見てすぐに平然を取り戻し、嘲るような笑みを口元に浮かべた。
「な・・・」
 何をしてんのよ!と叫びたいのに声が出ない。
 膝が、身体が、脳が震えて動きが結びつかない。
 彼女は、そんなナオの様子を明らかに面白がっていた。
 乱れた制服を整え、ゆっくりと、しかし優然と歩いてナオに近寄る。その目は狙いを定めた肉食獣のように見えた。そしてナオは怯えた猫だった。
 彼女は、両手を伸ばしてナオを抱きしめる。
 温かい。泣きたくなるほど温かい。
 彼女は、唇をナオの耳元に近づける。
 吐息すらも温かく、快楽に震えそうになる。
 しかし、放たれた言葉は矢尻のように冷たかった。
「ごめんね。やっぱ男の方が良かったわ」
 その後のことをナオは覚えていない。
 気がついたら屋上にいた。
 扉を閉めてそのまま座り込む。
 涙が出ていることすら気づかず空を見上げる。
「やばい・・死にたい」

 ナオは、タケルがいることに気づかなかった。
 タケルは、ナオが入ってきても気にも止めなかった。
 お互いそれどころではなかった。
 心が崩れそうで、破裂しそうで、でもしなくて。
 どうしようもない慟哭と痛みだけが永遠と続いてむしろ壊れて欲しかった。
 夕陽が落ちる。
 薄暗くなった空に淡く光る星と月の影が映る。
 そろそろやばいかも。
 学校の先生たちが残っている生徒がいないか見回りにくる。こんな姿を見られたら何があったのかと訊かれるに決まっている。
 そんなもの答えたくもないに決まっている。
 タケルは、袖口で涙を拭い立ち上がる。
 見ると、彼女も同じことを考えたのか、涙を拭いて立ち上がる。
 そこでようやくタケルとナオはお互いを見た。
(彼って確かバスケ部の次期エースとか言われてる人だ)
 同級生たちが彼を見るたび騒いでいるのを覚えている。
運動神経がよくて逞しく高身長、しかも美男子。モテる要素しかない、萌えるなどと女子たちの常に注目の的だった・・・気がする。
 正直、意識もしてなかったのでその程度だ。話したこともなければま注目したのも今日が初めてだ。
 そしてタケルもナオを見てようやく思い出した。
(確か才女で有名な子だよな?)
常に学年上位の成績を収め、吹奏楽部でも一年生のころからリーダーシップを発揮して部をまとめていると聞いた。容姿も小柄でどこかネコっぽいから男たちからの人気も高かった・・・気がする。
 正直、意識もしてなかったのでその程度だ。話したこともなけば注目したのも今日が初めてだ。
 2人のファーストコンタクトは、意識の外側から始まったのだ。
 2人は、少し遠慮がちに会釈して屋上から出て、教室へと向かった。なんで一緒に付いてくるのかな?と思っていたら同じクラスだったことに扉の前に立ってようやく気づいた。
 タケルが開けると真っ暗な教室には誰もいなかった。
 ナオは、ほっとした。
 2人は、カバンを取るとなぜか同じタイミングで教室を出て、同じタイミングで靴を履き替え、同じタイミングで校門を潜り、そして同じ方向に向かって歩いていった。
 どちらも意識していない。
 なぜか重なってしまうのだ。
 タイミングをズラすならトイレに行くなりなんなり方法があるはずなのに2人ともそんなことを考えもしなかった。
 強いて考えていたとしたら
(何で彼女は屋上に来て泣いていたのだろう?)
(何で彼は屋上で泣いてたの?)
 試合で負けた?
 模擬試験かなんかの結果が良くなかった?
 どこか怪我でもした?
 友達と喧嘩でもした?
 まさか両親のどちらか死んだとか?
 いじめられているとか?
 様々な考えが交錯しては消える。
「「ねえ」」
 2人は、同時に声を掛ける。
 声が重なったことに驚くと共に声色を始めて聞いたことにも驚く。
 とても癒される響きだった。
 この声に2人ともどこか安心したように心が温まる。
「なに?」
「いや、そっちこそ」
 ナオは、目線を横に反らす。
「いや、何で屋上で泣いてたのかな?って」
 口にしてから言わなきゃよかったと後悔した。
 同じクラスメイトだとすら認識してなかったのに、こんなことを聞いて答えてくれる訳がない。
 しかし、予想に反してタケルは答えた。
「ちょっと嫌なものを見たんだ。それで心が凄い動揺して抑えられなくなったんだ」
 タケルは、部室でのことを思い出す。しかし、不思議なことに下半身が多少感じるもののあの時ほどの動揺は戻ってこなかった。
「嫌なもの?」
 ナオは、眉を顰める。
「女の子には言えないよ」
 多少、意味深なことを言って小さな笑みを浮かべる。
 笑えたことにタケルは驚いていた。
「そっちは?何で泣いてたの?」
 質問を返されるとは思わなかったナオは、思わず「ふえっ?」と声を漏らしてしまう。
 その反応が面白かったのか、タケルは小さく笑う。
 ナオは、頬を赤らめる。
「・・・私も嫌なものを見たのよ」
 あの時の情景が脳裏に浮かぶ。
 しかし、不思議なことに小さな嫉妬のようなものは感じるものの死にたくなるような絶望は蘇ってこなかった。
「そうか。偶然だね」
 そう言ってタケルは、笑いかける。
 その笑みを見ているだけで心が和んでいく。洗われるような気がした。
 異性にそのようなことを感じたのは初めてだった。
 それはタケルも一緒だった。
 こんなにも一緒にいて居心地の良い異性は初めてだった。今までタケルにとって異性は、やたらと自分に群がってくる、話しかけてくる少し鬱陶しい存在でしかなかった。それなのにナオと一緒にいるのはとても気持ちがいい。いつまでも一緒にいたいと思えた。
「ねえ」
 ナオが意を決して声を掛ける。
「やっぱり話し聞いてくれない?」
 この人なら聞いてくれる。今まで誰にも言えなかった心の澱みを晴らしてくれるかも知らない。ナオは直感的にそう感じた。
 それはタケルも一緒だった。
 彼女なら自分の長年の苦しみを理解してくれるかもしれない。
 そして2人は人気のない公園のベンチに座って話した。
 思春期を迎えてから誰にも言うことの出来なかった心の重石を一つ一つ外していった。
 2人は、泣いた。
 タケルはナオの気持ちが、ナオはタケルの気持ちが痛いほどに理解出来た。共感出来た。「辛かったね」とお互いの傷を舐めることが出来た。前に進む活力を得ることが出来た。
 2人の心は1つとなって重なることが出来た。

 翌日、タケルとナオが付き合っていると言う話しが学校中に広まっていた。
 2人が一緒にいるのを見かけた誰かが噂を広めたのだろう。
 無理もない。
 飛ぶ鳥落とす勢いのバスケ部の次期エースであり、美男子であるタケルとミステリアスな才女として知られるナオが付き合ってるとなれば世間でどんなスキャンダルが起きようと敵うものではない。
 しかし、敢えて否定しようとはしなかった。
 2人の心が繋がったことは紛れもない事実であったから。
 2人は、常に一緒にいた。
 教室の中でも、昼食の時も、部活帰りも。
 学校内で2人がいない時を見つける方が逆に難しかったし、2人自身が自分達が離れなければいけない理由を見つけることが出来なかった。
 ソウルメイトと言う言葉がある。
 魂同士が繋がりあった伴侶のことを言うと何かの本で読んだ。
 確かにそうなのかもしれない。
 しかし、もし自分たちがソウルメイトならこれは祝福でなく呪いだろうと2人は思った。
 なぜなら、どんなに魂が結びつこうとも2人の身体が結びつくことはないのだ。
 手に触れるだけで肌が粟立つ。
 唇が触れ合うだけで嫌悪感に吐き気がする。
 行為に及ぶことを考えるだけで気持ち悪すぎて涙が出る。
 これが呪いでなくてなんだと言うのだろう。
 こんなにもお互いの存在を求めているのに触れることすら出来ないのだ。
 俺達が何をしたと言うのだ。
 私達が何をしたって言うの?
 2人は、苦しみ、自問自答し、それでも離れることは出来なかった。
 そんなことは考えもしなかった。
 もし、姿の見えない何かが自分たちを引き裂こうと、呪い潰そうとしているのなら、徹底的に足掻いてやる!
 そして出会ってから10年目、2人は籍を入れたのだ。

 病院から解放されたタケルとナオは、家に戻ると朝の約束通り作り置きの惣菜を食べ、風呂に入り、お互いの寝室で眠った。
「私たちってやっぱり間違ってるのかな?」
 ナオの放った言葉をタケルは、違うと否定した。
 しかし、内心では悩んでいた。
 俺たちは、ずっと努力してきた。 
 それこそ普通と変わらない人生を送る為に。
 運命に嘲笑されないよう、したい仕事に就いた。タケルなどは個人で行う仕事だから異性にも同性にもそこまで振り回されないが、ナオは、同性の刺激があまりに強い仕事だ。自分が進めたのも確かにあるかもしれない。しかし、今日まで歩んでこれたのは彼女の持って生まれた強さと努力だ。
 性欲に関しては逆に縛らずに自由にすることにした。心を満たす最愛の相手がいるのだ。ただの処理と割り切り、それだけの関係になるよう努めた。そうすることで今まで悩んでいたことが馬鹿馬鹿しくなり、前を向くことが出来た。最初は、そう言う商売の人たちに金を払ってお願いしていたが、欲が出てしまい、誘いあって見つけた。それでも自分たちなら上手くやれると思っていた。
 しかし、やはり人間に絶対はない。
 人と付き合えば欲だけでなく、感情も付いてくる。
 生きたいように生きるには、運命に抗うには代償が必要なのだ。
 タケルは、英国紳士を思い出す。
 もう、彼に会うことはないだろう。
 メッセージもいつの間にか拒否されていた。
 彼には酷いことをした。
 彼の純情な思いを泥に捨てた。
 彼の悲壮な顔が脳裏に焼き付く。
 彼には俺たちの考えなど理解出来ないだろう。
 俺たちは、誰にも理解されないのだろうか?
 思考に耽ると必ずはまってしまう論理。
 誰にも理解されない俺たちは間違っているのか?悪なのか?
 タケルは、答えの出ない迷路に迷い込んでしまった。

 ナオは、目を覚ます。
 頭が重い。
 首がむず痒い。
 触ると布の感触があり、包帯が巻かれていることを思い出す。 
 そうだ。昨日は・・・。
 ナオの脳裏に愛らしく、色気のあるMSWの姿が甦る。
 彼女は、帰れたのだろうか?それともまだ留置場かどこかにいるのか? 
 ナオが被害届を出していないのだから厳重注意で済んでるはずだ。 
 しかし、それでも職場には来ないかもしれない。
 私は、1人の未来ある人間を潰してしまったのだろうか?
 自分達の生き方の為に。
 私たちは、何と罪深いのだろう。
 あの時、自分を弄んだ彼女と自分は同じことをしてしまったのだ。
 ナオは、包帯の巻かれた首をぎゅっと握った。
 それでも私は・・・私たちは。
 甘く、清涼感のある匂いが漂ってくる。
 我が家の朝の香りだ。
 昨日、全く動かなかった胃袋が途端に動き出す。
 ナオは、ベッドから起きて部屋を出た。
 キッチンでタケルがフライパンを器用に動かして調理している。
 見慣れた光景。
 なのに涙が出そうになる。
 普通ならその大きな背中に抱きつきにいきたいと思うのだろう。しかし、想像しても湧いてくるのは嫌悪感だけだった。
 ナオは、服の裾をぎゅっと握った。
 ナオに気づいたタケルは、にっこりと微笑んて「おはよう」と告げる。
 その目の周りにはうっすらと隈があった。
 恐らくタケルも寝れなかったのだ。
「顔洗っておいで。ご飯にしよう」
 タケルは、優しく言う。
 ナオは、小さく頷くとひどく浮腫んだ顔を洗い、化粧水とクリームを付け、寝癖を整えた。
 洗面所から戻ってくると朝食がテーブルに並んでいた。
 コーンスープ、ベビーリーフのサラダ、ベーコン、そしてオレンジピールの入ったフレンチトースト。
 毎朝食べてるのに何度でも食べたくなる。
 タケルの席に紅茶を、ナオの席にコーヒーと牛乳を置いて2人は席に座ると「いただきます」と声を揃えた。
 ナオは、フレンチトーストを手に取り、口に運び、ゆっくり咀嚼する。
「どお?」
 ナオは、口の中のものを飲み込む。
「・・・苦い」
 ナオは、つぶやくように言う。
「でも、美味しい」
 タケルは、小さく微笑む。
「今日はいつもよりオレンジピール多めだからね」
「これじゃあお店に出せないね」
 美味しいけど万人受けするものではない。
「いいんだよ。これはオレらの味なんだから」
 タケルも器用にナイフとフォークを使ってフレンチトーストを食べる。
「初めてこれを作った時のこと、覚えている?」
 タケルの問いにナオは頷く。

 それはタケルの店がオープンする一週間前、店の売り、スペシャリティ候補の試作品を幾つか作り、ナオに味見してもらっていた。
 ナオは、喜んで試食品を食べた。
 タケルの料理はどれも美味しい。
 そしてタケルの料理を食べている時が1番幸せを感じた。
 触れることの出来ない彼の温もりを唯一感じられる瞬間だから。
 だからこそ、オレンジピール入りのフレンチトーストを初めて食べた時、涙が流れた。
 あーっこれって私たちだ。
 私たちの味だ。
 苦いのに甘い。
 甘いのに苦い。
 万人には理解されない。
 万人に美味しいとは絶対に言われない。
 だからこそ、これは私たちなのだ。
 タケルは、突然、ナオが泣き出したことに戸惑った。
 ナオの涙は、止まらなかった。

「これってさ。失敗作だったんだ。本当はちょっとした香り付けとアクセントのつもりだったのに大量にオレンジピールを入れちゃって。避けてあったつもりだったのにナオが食べてるの見て慌てたよ。あまりにも不味すぎて泣いてるんだとばかり思った」
 タケルは、当時を思い出して苦笑する。
「そしたら、「これって私たちだ」って言ったから驚いたよ。どういう意味なのかさっぱり分からなかった」
「だって・・・」
 ナオは、恥ずかしそうに俯く。
 それ以上の表現が思い浮かばなかった。
 今だってそうだ。噛めば噛むほどにこれは私たちの味としか思えない。
「オレさ、昨日の夜からずっと悩んでたんだ。ナオにはあんなこと言ったのに、ずっと悩んでた。俺たちって間違ってるのかな?って。朝の起きるまで答えが出なかった。出ないままに料理してた。そしたら急に思ったんだ。間違っててもいいんだって」
 ナオは、意味が分からず眉根を寄せる。
「だってさ。万人に理解されるなんて絶対にあり得ないんだから」
 そう言って笑うタケルの顔は、この上なく朗らかだった。
 このフレンチトーストを絶賛する人はいないだろう。
 美味しいと言う人もいる。
 不味いと言う人もいる。
 苦いのが苦手という人もいる。
 苦いのが病みつきになる人もいる。
 万人に理解されることなどあり得ない。          
 でも、俺たちはこの味を理解している。
 美味しいと思える。
 失敗もある。
 過ちも犯す。
 それでも生きるしかないのだ。
 この優しくない世界を。
 お互いを愛しく、理解しあっている2人で。
「ゆっくり歩いて行こう。間違ったって、失敗したって2人でいれば大丈夫」
 高校生のあの時、1人ではどちらも耐えられなかった。この世界に存在してなかったかもしれない。
 でも、タケルに出会えたから、ナオに出会えたから痛みを伴いながらも笑って歩むことが出来たのだ。
 ナオの目から涙が流れて止まらない。
「さあ、ご飯食べちゃおう」
 フレンチトーストが美味しくなることはないのかもしれない。むしろ苦味はこれからも増していくのかも知れない。しかし、2人はこの美味しさを知っている、理解し合えている。
 それだけで2人は歩んでいける。
                   了

#十人十色〜何気ない人生に彩りを〜
#フレンチトースト
#オレンジピール
#小説
#恋愛小説部門























































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