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劇団ペトリコール社project.4「ここじゃない何処かへ」

劇団ペトリコール社 project.4 「ここじゃない何処かへ」
脚本 斎藤ゆう
演出 田中愛積
2024年
02/10(土) 15:00/19:00
02/11(日) 12:00/16:00
布施PEベース

無事終演しました。
スタッフとしての中村はそのあと2月14日、お借りした機材を谷本さんに返却、これを以て残務も終了しています。

去年(2023年)に引き続き、劇団ペトリコール社に構っていただきました。

今回はあくまでスタッフとしての参加でしたので、入り込める深度は自ずと違ってくるのですが、それでもせっかくお誘いいただいたのですから、音響としての目線から、あるいはもっと違う目線から、振り返ってみようかと。
と言いつつ、「(音響として)こんなことやったんだぜ」っていう「俺スゲえ」祭になるような気もしています。自分に嫌気が差さない程度に自慢しようと思います。

音響として依頼を受けたのが1月22日(月)でした。

本番までおよそ3週間。

諸事情があって(お察しください)このタイミングで僕に白羽の矢が立ちました。人選に関しても諸事情、というところですが、困った時に僕を思い出してくれたのは正直すごく嬉しかったんです。

こちらの準備時間がない、というのはさほど気になりませんでした。選曲は演出の田中愛積が既にやってくれてますから。あとは必要な長さに繋いだりしましたけど、基本的にはDAWソフトに読み込ませただけ。
それよりも、もっと稽古を見たかったというのはあります。
3週間のあいだに行われた稽古には1~2回の欠席を除いてほぼ通い詰めました。僕の力量ではこれでも足りないくらいです。もっと充分に流れを把握しなきゃいけなかったし、ピンポイントでの役者の動きにももっと注目したかった。何より、そもそも僕が参加する2ヶ月以上前からどんな稽古が重ねられてきたのか知らないのです。役者がどんなものを持ち寄って、それを演出がどう捌いていたのか。想像で補うしかないのですが、役者やスタッフたちがTwitter(自称エックス)に綴った呟きなんかを見ると、相当程度に悩んで試行錯誤を繰り返していたことが窺えます。
繰り返しですが僕が参加した時期は本番まで1ヶ月を切ったくらいですから、概ね根本的な課題は出尽くして、その解決に向けて詰めの作業が行われていた、といえるでしょう。もっともここがいちばん難しくて手の掛かる時期でもあるんですが。その最終盤の摺り合わせが見られたのは音響として有り難かったのですが、摺り合わせが行われている選択肢に関して「なぜその項目が選択肢として残ったのか」有り体に言えば「なぜその演技・演出プランを選択肢とするに至ったのか」をもっと見られれば、音響としての僕のアプローチもさらに作品に近づけられたのかな、なんて思います。音響スタッフとしての経験値がもっと豊かであれば、それまでの悪戦苦闘を想像することももっと容易かっただろう、とも思います。

先に「ここじゃない何処かへ」という作品への、僕の感想です。当初はチケットの予約をしていたくらいの「いち観客」の感想でもあり、最終的に座組のひとりとなった「公演メンバー」の感想でもあります。
斎藤ゆうが書いて、田中愛積が演出して、この二人の眼鏡にかなった役者やスタッフが劇場を右往左往する。
去年参加した者としての贔屓目もあるんだろうと思うのですが、この「選ばれた」メンバーが奏でる和音や不協和音が僕は好きなんだろうなあ。
去年のメンバーとの共通点は「できるやつら」というところでしょうし、「誠実なやつら」というところでしょう。「できるやつら」という点で特筆すべきは「目配りができるやつら」だと思います。
今回僕は共演者として接した訳ではないので至近距離からの感触を述べられないのが歯がゆいのですが。
「できるやつら」と「誠実なやつら」を併記した根拠として、あくまで善し悪しの判断基準ではなく「器用」「不器用」双方のタイプがいた、ということが挙げられます。なおかつ、「できる」=「器用」、「誠実」=「不器用」という簡単な図式では表現しきれない、という面白さもあったりします。
別の記事でも書いたのですが、年齢だけで言えば僕よりおおかたひとまわり以上若い方たちを中心に構成された座組です。普通に考えればなかなか僕が接点を持つことが叶わないメンバーです。前年もそうですが、実際僕は(劇団員はともかく)どなたも存じ上げなかった。それなりに人脈があると思ってたのですが、これだけ魅力的な方々が僕の知らないところにいる。いてくれる。その方々と僕を繋いでくれた劇団ペトリコール社には感謝するほかありません。

作品に関して。
以前から何度か書いてる「救いのなさ」、これは斎藤ゆう自身が口にしている言葉です。彼女の紡ぐ言葉たちを過不足なく言い表している。
今回の作品はどうなんだろう。
「救いがない」という言葉を口にできる人は、少なからず辛い現実を知っていて、かつ、そこに、或いはそこから、「救い」になるかもしれない光を見いだした、あるいは見出そうとした人だと思うのです。そうでなければ、たった今自分が置かれている現状に「救い」がないのかあるのかさえ判断できない、あるいは判断しようという考えにすら至らないでしょうから。
去年の「ブルグマンシアの世界」は、ものの見事に「救いがない」と断定できる作品だったと思います。まあ厳密には登場人物たちの「その後」という余白に思いを致すことで救われる部分もあるのですが(その余白がなければ、役者としてあそこにいた僕が真っ先に潰れていたと思います)・・・。
今年の「ここじゃない何処かへ」はどうだったのだろう。
台本に書かれている「事実」と、想像を生み出してくれる「余白」の関係で言えば、今作は前作の対極にあるような気もします。
前作と今作の共通点として、これは斎藤ゆうの言葉が持つシニカルな表情がそう感じさせると思ってるのですが、事実と余白の主従関係が逆転している、余白を語るために事実が存在する、そんな風にすら感じています。誤解を恐れずに言えば、観る側の想像力を無形の余白に誘導する、その目的のために有形の事実が書かれている。だからこそ事実は一片の欠損も歪みもない頑強な完全体でなければならない。そんな書き手の強固な意志をすら感じます。
その前提に立って今作を眺めると。
劇中には確かに悲劇的な要素が大きく描かれています。「救いようのない悲劇」です。でもその悲劇を経て、新しい始まりもまた描かれます。大きな悲劇を経ているからこそ、そこからの始まりも、ささやかではあるけど「救い」というとても大きな意味を持って提示される。始まりを迎えた人々は「ここじゃない何処か」へ向けて新しく歩き始める。このことは「事実」として明示されています。
一方の余白には何が描かれるんだろう。今作に関しては、敢えて「救いのない」不幸を描く必要もないのかもしれない。
――こう書いてみて、「俺はまんまと騙されてるなあ」と思った僕はそれなりにひねくれてるんだと思います。
前提の定義を少しだけ補足しておきます。
前作において「『事実』は『救いのなさ』に溢れているけれど、『余白』には『救い』を存分に思い描くことができる」と読み解くことができた。いわば逆位相が存在しています。
逆位相が今作にも作用するとしたら。
苫米地さんという登場人物がベータくんという登場人物の「…よかったら、一緒に、生きませんか。」という言葉に「準備してきますっ...!」。
去って行くふたりを相模くんという登場人物が「…お幸せに~。」と見送る。
吉川さんという登場人物はデルタという登場人物に「……行こっか。ここじゃない、何処かへ。」
一点の曇りもない幸せなエンディング。
本来的にお芝居は「劇場でご覧くださったお客さんだけのお楽しみ」だと思ってるのでこれ以上の台本からの引用は控えますが(従ってこの紙面で全てをご理解いただけるなどとはまったく考えていません)、この幸せなエンディングに逆位相を当てはめてみると。
上記を含めそれ以外の登場人物も概ね、例えば性自認・性的指向であったり発語能力であったり認知機能であったり人格であったり、どこかしらに「マイノリティ」と表現可能なディサビリティを抱えています。であるならば、「ここじゃない何処か」がどれだけ「ここ」より光に満ちた場所に見えようが、いかに「ここ」よりも心理的には充足感を得られる場所であろうが、ディサビリティ起因の不利益・不都合・不合理は避けられないと思うのです。何より「ここ」から抜け出せたことだけを理由にそれぞれのディサビリティが解消されることはありません。事実としての大悲劇が過ぎ去った安心感や高揚感で「行こっか」と歩き出した先の「何処か」はまさに余白の領域で、物理的には手放しに幸福と称することのできないディストピアでしょう。
救いのない余白。
事実が描くのはあくまで「救い」を手にした人たちの姿で、でもそれは「後ろ姿」。
もちろんそこで思考を止めることで、ハッピーエンドと認識することも十分に可能だと思います。観客側の生理としてはこちらの方が遙かにストレスフリーでしょう。だからここを結末とする見方は十二分に説得力があります。
そこから先、観客はもちろん演じる側にも託された「その後の彼/彼女たち」のこれから、という余白は。
すべからく想像に委ねられるという不確実性を前提にしていますが、「実は救いがなかった」という帰結を導くこともさほど難しくありません。
たぶん世の中なんて、少なくとも2024年の現在ではそんなもんでしょう。
そんな余白を描く斎藤ゆうや彼女の周りのメンバーは、そんな世の中を冷静に見ている。でも悲観一辺倒という訳ではなく、あくまでわりと客観的に、シンプルに、見えている景色として描いているんでしょう。

さて、話変わってこの項では「音響としてどんなことをやったのか」といったところを備忘録的に記していこうかと思います。
先述の通り「選曲」に関しては演出の田中愛積が既に済ませてくれていました。
ちなみに以下に綴る用語として、劇中に使用される「楽曲」を"ME(MusicEffect)"と表記します。いわゆる「効果音」と呼ばれるものは"SE(SoundEffect)"です。
ME(選曲)に関して僕はノータッチです。一方でSEに関してはほぼ全て僕が担当しています。
そのうちのひとつは開演直後に使用されるバスの走行音。実際に走っている路線バスの走行音をICレコーダ(TASCAM DR-05)で採録しています。収録したのは阪急バスの川西バスターミナルー清和台中央のおよそ20分、往復およそ40分のデータから抽出。メインで使ったのは往路の音源です。理由としては、必要な車内アナウンスを含めていいところだけ取り出せたのもありますし、何よりマニュアルトランスミッション車だったので。復路の車も含めいまはAT車(それもデュアルクラッチトランスミッションではなくトルクコンバータAT)が主流ですが、SEとして使うときに「走り出し~中速域」の加速感を演出するにはMT車やデュアルクラッチの方が使いやすいと思ってます。実際に使用した部分も「発車アナウンス/2速発進/クラッチ断/3速にシフトアップ/クラッチミート~回転数上昇」がわりと明確に聞き分けられるので、次のMEへのカットクロスが綺麗に決まったんじゃないかと思ってます。逆に登場人物が降りたバスが「走り去る」ところは復路のトルコンAT車の音源です。こちらは「ドア閉~発進→フェードアウト」なので明確な階調変化は必要ありません。クラッチ操作を伴うシフトアップによる階調変化を強調することなく自然に消えてくれたと思います。

全くの余談なのですが、MT車が残っているような阪急バスでも車両の世代交代は進んでおり、最新のいすゞエルガも導入されています。

役者仲間であり現役バス運転手の赤塚さんから教えていただいたんですが、こちらはトルコンATなのはもちろん、エンジンも4気筒モデルを搭載しています。従来のバスは6気筒エンジン。正確な表現ではないのですが、バスやトラックなど大型車であれ、スカイラインやハイエースといった普通・中型免許で運転可能な車両であれ、6気筒エンジンのサウンドは音楽で言うマイナーコード、4気筒はメジャーコードと認識しています。4気筒のサウンドは明るいんですが、バスのSEとして考えると比較的車体の小さいマイクロバスのイメージに近づいてしまいます。従来なら6気筒で1万ccを超えるようなエンジンで動かしてたバスを4気筒5000ccクラスのエンジンで動かせるようになったんですから技術の進歩は喜ばしいことなんですが、バスに限らず、「SE」として、あるいは趣味としてはイメージ通りの音を手に入れるのが難しくなってきてますね。

音響としての振り返りです。
照明の大谷奈津美 @natsumi0611723 が本番2日目(2/11(日) 12:00/16:00)の公演を動画で押さえてくれてました。公演終了後それを観ながら思ってたんですが、オペレータとしては経験不足を痛感しましたね。全体的に焦っているように聞こえる。本番ではそれほど思わなかったところが多いので、客観性が足りてないということなんでしょう。具体的には「音の入りが何分の1拍か早い」ところが多いなあ、と。「テンポを崩さないように」と意識していたのですが、結果として逆に心地よいリズム感や「間」をスポイルしてしまったな、という感じです。全篇通してそういうところが散見されるのですが、わけても悔やまれるのは最終盤、「このMEが流れて役者が最後の台詞を吐いて溶暗そしてカーテンコール」といういわば「決め」の曲ですね。同じく大谷奈津美がダメ出ししてくれたんですが、「大介さん、『ペトリ』が足りないです」。
・・・「ペトリが足りない」。
あ、大丈夫ですよ。僕も最初は何を言われてるのか意味がわかりませんでしたから(笑)。
彼女が自身のインスタでも書いてますが、要は心地よい「間」のことを指す言葉、なんですね。
劇団ペトリコール社は、主観ですが平均よりも長め・ゆったりめに間を使います。「間」を愉しむ、といっていい。もちろん間が不要なところは徹底的にそぎ落としているからこそ必要な「間」が活きてくる、というのが前提です。この、愉しむべき「間」を贅沢に使うことを「ペトリ(の充足)」と呼ぶ、とご理解頂ければ。
承前、彼女自身も照明オペレータとして「間」をとても大切にしていました。特にこれもラスト、吉川という登場人物がデルタという登場人物の頬に触れる、非常に繊細かつ美しいシーンに関して。
照明のオペレーションとしては「頬に触れる」ほんの僅か手前で溶暗。そこから逆算して、吉川がデルタの頬に手を伸ばし始めた頃には既に光量を絞り始めてゆっくりと明度を落としていく。
とても贅沢な「照明時間」の使い方。
照明がそこまでやってくれるならば、音響は。
シーンとしては、光量の減に合わせて音量を振り上げて真っ暗な中MEを聴いてもらってフェードアウト、僅かな無音を挟んでカーテンコールのMEを入れる、よきところで明かりを入れてもらってカーテンコール、というところ。
前述の「ダメ出し」をもらってからは、真っ暗な中で聴いてもらう時間も、無音の時間も、感覚的にはふだんの倍使いました。
僕の経験から言えば不安になるくらいの時間を使いました。
おそらく賛否両論でしょう。真っ暗な中身動きの取れない役者も不安だったかもしれません。作家からも演出からも感想や指摘をもらっていませんが、明確な「ダメ出し」がなかったので「いいや。」と勝手に正当化しています。
僕は。
不安でしたし、今も正しかったか判りませんが。
僕が観客として観ていたならば、という視点では、とっても気持ちがよかった。
自画自賛です。
あのオペレーションは僕にしかできない。
「ペトリが足りない。」をクリアできるオペレータは僕しかいない。
自画自賛です。
「ペトリが足りない。」とダメを出してくれた大谷奈津美のおかげですし、僕を本気にさせてくれた大谷奈津美のオペレーションのおかげですし、彼女のオペレーションを引き出してくれた役者のおかげですし、役者にそんな芝居をするに至らしめた作家や演出のおかげですし。
そんなこんなの自画自賛です。

一方でこの曲に関しては若干トリッキーな技を使ってまして。
お芝居の「あるある」で、本番を迎えたときに「役者の芝居が変わる」ということがままあります(僕にも経験があります)。手放しに褒められることではないのですが、お客さんを前にして役者の生理が変化した結果、たとえば言葉のスピード・テンポ・抑揚・声量あらゆるところが変わってくるんですね。多くの場合いい方向に変化するのでその点は評価できるのですが、本来的にお芝居とは稽古場で完成させて劇場に持ち込むべきものですから・・・。僕が役者をやるときの自省でもあるんですよね。
で。
この曲が入るところの台詞・役者の芝居にもこの変化が現れました。
少し長めの台詞の中で「星空って見たことある?」というフレーズが言い納められたタイミングで曲を入れるんですが、音響サイドからの理想としては「ちゃんと言い納めた」→「納まりを確認して」→「曲in」という流れを邪魔しない「テンポ感」、それと同時に、この曲の場合はむしろ「納まり」という「間」を大事にしたかった。
2日目(2月11日)お昼のステージ。
上記のような理由でこの「納まり」を、意識的に余裕を持って迎え撃ったんですが、あるポイントで台詞のテンポが予想より速まった。
そのポイントまでの台詞が比較的ゆっくり、噛み締めるように吐かれていたので油断していたというのもあります。
ポイントの直前くらいから、おそらく役者の生理が高揚してきたのでしょう、急激にテンポが上がった。
あっ。

これに対応できるのが職業音響さんなんでしょうね。

あっ。
と思って対応を急いだのですが、音を入れたときには既に「言い納める」を軽く通り越して次の台詞が続いていました。

悔しかったし、恥ずかしかった。

その反省があって、同日夕方の千秋楽では曲の入りを変えようと準備していました。
具体的には。
演出から指示のあったポイントで入れるにはカットインでは間に合わない。「言い納め」の時間が短すぎる。
かといって普通にフェードインできるような曲調のMEでもない。
なので、「星空って見たことある?」というフレーズが吐かれる2秒くらいを使って速めのフェードインを掛けよう。「星空」の「ほ」からフェーダを上げ始めて「見たことある?」で僅か台詞が切れたときに聞こえているように。
カットインに較べると美しさでは少し劣るけれど、計算上「言い納め」に続くほんの僅かの「言葉の切れ目」で観客に初めて聞きとれるようなオペレーションにはできる。

という次善策を講じて本番に臨んだ訳です。

そんな夕方の千秋楽。
いい意味で役者に裏切られました。

昼の公演で「噛み締めるように」いささか過剰なほどゆっくりと吐かれていた前半部分がとても自然に、滑らかに流れてきました。不安定さも解消されてる。
「あ。これはフェードインじゃなくてもいけるかも。」
昼の公演で急に駆け足になったポイントでも台詞のテンポは安定している。
「いける。」

急いでフェーダのプリセットを所定のゲージ(音量)に戻して当初のプラン通りカットイン。
僅かに早かった気もしますが、感触としては合格と言えるように思います。

まあ職業音響さんならこの程度は軽くクリアできるんでしょうし、もっと美しい解決方法を知ってるんでしょうけど。

「ペトリ」も、「カットイン」も、どちらも「間」を利用し活かす「技」だと思います。経験の乏しい僕としては精一杯の背伸びです。

とっても心地よく背伸びをさせてもらいました。

終演、撤収、そのあと劇場退出のタイミングで役者のひとりと少しだけ話したこと。
彼は流れるMEもSEも舞台上でちゃんと聴いて利用してくれてました。
SEとしてバスのSEを流したのは前述の通りです。バスが彼らを降ろして発車するのに合わせて、彼は「排気ガスの直撃を食らった」という小さな演技を加えてくれました。
記憶違いでなければ、稽古期間の中盤まだバスのSEを出していない頃はこの演技を入れていなかった。
聴いているからこそSEを拾って利用してくれた。
もちろんSEがあったから、だけではないと思います。もしこのSEがなかったとしても、状況判断として何らかの演技を入れたことでしょう。舞台上での「目配り」です。目の前に何があって何が起こってて何が見えてて何が聞こえてて。これが理解・判断できてれば演技の半分以上は完成しているとも言えるんですが、これ意外とできることじゃないんです。
その中でSEをちゃんと拾ってくれた。
このSEに限ったことではありませんが、オペレーションブースと舞台で会話が成立している、その実感があるというのは音響スタッフとしてとても嬉しいこと。

いつも以上に長くなってしまいました。
その割に「メンバーの誰か」に対する記述はほとんどありません。
やっぱり自慢大会になっちゃいました。

これだけの言辞を弄して、しかも1ヶ月以上掛かって、結局「楽しかった」という5文字しか書いてないことになりますね。

この5文字に「みんなありがとう」の8文字を加えてトータル13文字。
大山鳴動して鼠一匹。
なんかもう、みんなごめん・・・

最後に。
いろいろ、ほんとにいろいろあって、お芝居の世界との付き合い方を考えあぐねてたんですが、この作品が僕を少し押してくれました。
少しだけ、いまは前を向けてます(その結果がこのムダな長文に結実してしまったのはどうなんだ、というところですが)。
そこも、ありがとう。

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