散策雑記② 石田屋旅館と津波

さて、まだ蕪島には到達していない。
そういえば駅から踏切を渡り前述の艀場跡の看板へ来るまでの間、広めの更地がある。

ここには「石田屋旅館」という建物があったのだが、2011年3月11日に起こった東日本大震災による津波被害を受けたことにより、建物が取り壊されてしまった。

石田屋旅館は昭和の詩人・村 次郎(むら じろう)氏が主人を務められていたという旅館であり、草野心平・井伏鱒二・棟方志功なども訪れたことがあったようだ。

恥ずかしながら村 次郎氏の作品には今まで触れてこなかったのだが、この建物の外見はうっすらと覚えている。(旅館の営業自体は地震前に終了していたとのこと)

木造の大きな建物で、玄関は確か海と反対側だったはずだ。県道1号線を蕪島方面に進み、途中小笠原洋装店の古めかしい建物の辺りで左に曲がり踏切を渡ってすぐのところに門があった。

(12/11追記)「石田通踏切」として、JR東日本の踏切名に名残が。

司馬遼太郎の「街道をゆく 陸奥のみち、肥薩のみち他」でも司馬遼太郎がこの辺りを訪れた際に石田屋旅館で食事をし、村次郎氏と議論を交わしたことが描かれていた。

その建物も津波で流されてしまったが、跡地を見るとかなりの広さだったことに驚く。
なお、震災時の被害は八戸市のHPに記録されている。

石田屋旅館だけでなく、線路より下の一帯は津波の被害を大分受けた。なお、震源地からは離れており避難の時間があったためか、岩手や宮城・福島に比べれば亡くなられた方は少なかったようだ。

私は地震発生時大学生で、大学のある福島にいたためこの目では津波を見ていない。実際に被害状況を見たのは震災から1~2週間後にとりあえず帰省した時であった。

1階部分は柱だけが残ってなんとか2階を支えている住宅や、ぐにゃりと90°、つまり地面と並行になった金網のフェンス、えぐられたコンクリートの地面…

(12/11追記)東北容器工業の建物横の空き地。
おそらく津波の際に薙ぎ倒され、そのままになっている金網フェンス。

蕪島周辺ではないが館鼻岸壁の周辺で陸に打ち上げられたイカ釣り漁船や、新井田川の中流まで遡上させられた小型のボートなどなど、津波の爪痕をまざまざと見せつけられ恐怖したことを今でも覚えている。

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