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アラスカ旅行記⑬(終) 「だからアラスカだった」

アラスカ最終日。

初日のあの売薬宿以外は全部いい思い出……いや、万引き犯に間違えら……いや、ウィンドブレーカーを失くして200マイル……いや、国際免許取り忘……と、とにかく、あっという間の良い旅だったなー。

好き放題マフィンとベーグルと果物を食いまくれる朝食とも今日でお別れか、なんてことを思いながら朝食会場に出向くと、皆が大騒ぎをしています。

「またクマが出たの!2日連続で!」

わーーーー、昨日はウィンドブレーカー失くしてそれどころじゃなかったけど、昨朝もクマが出たんだった!実物をちょっと見たかったな。けど、実際に現れたら怖いっちゃ怖い。けど、やっぱりちょっとだけ見て見たい。

そんなことをモヤモヤと考えながら、マフィンをムシャムシャ食べていたところ……




!!!!!!!!!


全然去ってない!めちゃくちゃ目の前に居る!こちらはガラス窓1枚で……襲って来たら、めっちゃ危なくないか?とはいえ現代人なので、もちろん動画はちゃんと撮るけど……!!!!


今回の旅、最後の最後までミラクルありすぎました。白夜のオーロラ、晴天のデナリ、そして、まさかのクマ。もしアラスカ麻雀なるものがあったらあったら、間違いなく大三元で役満パターンだよな。(最近スマホに麻雀のアプリを入れたので、例えが何かと麻雀になる48歳)


荷造りを終えて、無事クマに襲われることなく、車に乗り込む。残り時間でフェアバンクス周辺を少し観光して、空港へ向かおう。最初はどうなることかと思ったけど、思い切ってやってきたアラスカは、本当に良いところだったな。

同時に、アラスカって隔離された”地上最後の楽園”でもなんでもなくて、環境問題も、エネルギー問題も、支配と被支配の問題も、アルコールや薬物の問題も、都会の闇も、世界と地続きで存在する。そのことは来てみて如実に分かったな。

きっかけは色々あるけど、映画『イントゥ・ザ・ワイルド』に衝撃を受けてアラスカに憧れてたのは間違いないな。本で読んだりもした。話に聞いたりもした。

けど、旅の途中で鮮明に思い出した。僕に「アラスカ」のイメージを植え付けたのは、それらのもっともっとずっと前。亡き父でした。


父はいわゆる昭和の"モーレツサラリーマン"でした。

「音楽は"女子供"(※死語)がやるものだろ!」と常々公言してて、僕には自分と同じくラグビーをやらせたかったけど、あいにく僕は全く運動に興味がない。「ワシの居る前では絶対にピアノを弾くな!」と目の色を変えて怒鳴る父は、肉親でありながら、いちばん価値観の遠い人。今に至るまで、一人称が「ワシ」の人間に会ったことがない。父だけかも知れません。

中学校に入るタイミングで、父の転勤でアメリカのロスアンゼルスに引っ越すことに。最初こそ「え、アメリカ?やばっ!格好いい!」と浮かれていたのですが、それも束の間、いざ引っ越ししてみたら、英語が喋れない状態での現地校の授業、観ていても何一つ意味の分からないテレビ、全員同じに見える外国人の顔。

さらに当時のロスアンゼルスは殺人率が世界2位と言われており(なお、当時1位は、その後僕が一番愛することになる街、ブラジルのリオデジャネイロ!)自由な移動すらもままならない。

なにこの地獄みたいな場所!日本に帰りたい!さらに父親の機嫌が日本にいる時に輪をかけて悪い!人ってこんなに頻繁に暴れるか?テレビで流れてる子供が行政にSOSを出す何とかホットラインに電話してやろうか!!!!!!!

そんな激しめな父と、こんな僕の間にも、唯一接点がありました。それは旅行が好きなこと。父はドライブが好きで、僕も運転をしている父のことは好きでした。

一度だけ、ふたりきりで旅行したことがあります。ロスアンジェルスからラスベガスまで、4時間ほどのドライブ。ただただ広がる荒野。国道沿いのダイナーやモーテル。初めてカジノという空間の中に入って、父からこっそりコインを1枚渡され、人目を盗んでスロットマシーンに挑戦しました。天井の監視カメラで僕の動向をチェックしていた監視員に「全部見てたぞ!子供はダメだ!」とこっぴどく叱られて、監視員が居なくなったあと、父と目を合わせて大声で笑った。

その後も、結局僕はラグビーを好きになることはなく、音楽が好きでした。音大に行きたいと行っても「お前が一般常識を身につける為の大学に行く金は出すが、お前の趣味には金は出さん」という相変わらず僕とは遠い価値観の持ち主。それでも大人になった僕が音楽の道に進みたいと言った時、賛成こそしなかったけど、止めはしなかった。初めて音楽で仕事が決まった時には「良かったじゃないか」とだけ言って、その後は一切反対することはなかった。


英語が得意だった父は、退職したら翻訳家になりたいと言っていました。父の父、僕の祖父と同じ職業。ただ、僕と父同様に、父と祖父にも絶対的な距離があって、それでも父は祖父と同じ道を歩みたいのか、とDNAの神秘に驚きました。

そして、歳を重ねた父は徐々に柔和に。父と母と妹と3人でオーストラリア旅行に行って、コアラだかカンガルーだかのぬいぐるみを買って帰ってきて可愛がってる、という仰天情報を母から聞いた時には度肝を抜かれました。え?誰の話?あの父が?ウソでしょ?

晴れて退職。いよいよ第二の人生を歩み出した矢先、父の身体に病気が見つかりました。

最初はそれでも元気で、家族旅行にも行ったりしたけれど、闘病が長引いて、実家には介護用のベッドが運び込まれ、24時間酸素を吸う生活に。巨漢だった父はゆっくりゆっくり痩せて行きました。

父の好物のかりんとうを持って行った時に、思った以上に歯が悪くなっていて、噛めなくなった自分にショックを受けた父は、子供みたいに拗ねて僕に背を向けた。僕は何も言えずにその後ろ姿を眺めていました。そんな時も、父は分厚い英語の本を読んでいました。

「もうワシはダメかもしれん」絶対に吐かなかった弱音を僕に吐くようになって、僕は言葉を伝え慣れない父に向けて「大丈夫だよ!何言ってんだよ!」と精一杯言葉を返す。

遂にはせん妄(意識障害)が始まって、夜中の2時過ぎに急に電話で「大輔、◯◯を買ってきてくれ」などと連絡を寄越すようになりました。今まで電話なんてしてこなかったじゃん、そんなもの要らないだろ、って言いたかったけど、父はモゴモゴ何かを言い続けてて会話にならない。その数日後、父は逝きました。


父が今の僕よりも遥かに若く、太っていて、血気盛んだった頃、頻繁に海外出張に出かけていました。当時の飛行機はNYやヨーロッパに行くのも、帰ってくるのも、全て給油地のアラスカ経由だったので、母からは「お父さんがアラスカから帰ってくるよ」と言われていました。

父のアラスカの定番土産はビーフジャーキーでしたが、一度だけウサギの足のお守りを買ってきてくれたことがありました。貰ってから1年後くらいにウサギの足の中に爪があることに気づいて、本当はウサギはまだ生きてて、1年かけて爪が伸びたのかと思って怖かったな。

「きっと大人にとってはこれが美味しいんだろうな」と思って食べていた塩っぱいビーフジャーキーの味から、ウサギの足を入れていたヨックモックの空缶の質感まで。40年間ほど完全に忘れていた記憶。

父がアラスカから帰ってくる。お土産を持ってアラスカから帰ってくる。あれから、僕の脳裏にはずっとアラスカの名前がありました。

そして、いまこうして僕はアラスカの荒野を運転してる。あの時、ラスベガスに向かう荒野をあなたが運転してくれたみたいに。僕も運転は好きみたいだ。そこは受け継いでるね。あなたの10倍くらい安全運転だけどね。


分かりやすくはなかったけど、愛してくれてたことはちゃんと分かってるよ。

あなたみたいに、感情をストレートに出せない。人を傷つけたくないのか、自分が傷つきたくないのかも分からなくなる時も未だにある。それでも正直な気持ちは明確にあって、自分のやり方で今日もいちばんの言葉を探してるよ。


あのさ、初めてオーロラを見て、「オーロラって生きてるみたいだな」と思ったんだ。手塚治虫の「火の鳥」を思い出したんだよね。もしかして、あのオーロラの光の粒の中にあなたは居たのかな?え?スピリチュアルっぽい?けど、スピりたくもなるよ。真夏の白夜のアラスカに、突如オーロラが現れたんだから。

あなたが居なくなった後、2回だけあなたが夢の中に出てきた。2回とも「ははは。ワシは死んでないぞ」っていうドッキリ登場だった。今も実感は正直無いや。なのに、後悔だけがちゃんとある。もっと話せば良かったな、ってことだけは、ずっと思ってる。

ラスベガスの荒野を運転してくれた日。はじめて音楽の仕事が決まった日。あなたがはじめて弱音を吐いた日。それ以外だって、何千回、何万回だってチャンスはあったのに。

だから、僕は話し掛ける。何にも邪魔されない場所で。誰にも聞かれない場所で。

だから、アラスカだったのかも知れない。

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