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「十年後も今は残っている」 小説

人じゃないものに成りたいと言ったとき、ぼくは、一体どういう顔をしていたのだろうか。その日は、一滴もアルコールを飲まないで深夜一時までバーで元カノと会っていた。
「そんなこと無理でしょ」
とナルミは切り捨てるように言う。
彼女はいつだって自分の考えをしっかりと持っている。
「でもさ、そうやって人っぽさを捨てて真っすぐ生きていけているときがあるんだって。」
「酔ってんの?」となるみは笑う。
ナルミには伝わって欲しい。そう願ってしまうのはぼくが我が儘だからだろうか、ナルミとは別れて二年になるけどまだ交友関係が続いている。ふと手元のウーロン茶を見ると水滴が落ちていく。なにを喋っていたのだっけ?この夜は会話のラリーがずっと続きすぎて、意味の海におぼれてしまったようになってしまう。
ぼくは会話が得意ではない。
「いや酔ってはないよ」とぼくは言う。お酒は飲んでいないし、眠たくもない。「とにかく聞いてくれって。」
「なに」
「この前さ、深夜まで仕事で会社に残っていたんだけど。そのときけっこう大変だったんだ。だけど、やろう。って決めたことを焦らずに心落ち着いて淡々とやれたんだ。だからそういう、人じゃないみたいな、仙人みたいになれるときがあるんだって。そうやってできればもう、だるいとか、しんどいって気持ちは捨てたいんだ」
「そういう生き方がいいの?」
「そういう生き方がいいんだよ」
「はっきり言って。たっちゃんはさ」とナルミは説教っぽく言う。ぼくはちょっと身構える、何を言われるのだろう。ナルミはぼくの深いところまで知っている。しばらく沈黙があって、ナルミは溜息でも吐くように言った。
「社会とか道徳にしがみついてばっかりで、ちょっと頭がおかしいと思うよ」
「あの時のこと?」とぼくは二年前のことを思い出していた。
ナルミと別れる原因になった日のこと。あのときは友達との約束を大事にし過ぎて大喧嘩になった。ナルミからその翌日に別れ話しが出た。
「そんな特定のことを話してはいない」となるみは言う。ぼくは普段から頭がおかしいのだろうか。
「そもそももう付き合っていたときのことを全然覚えていないし」とナルミは言う。
「ナルミはそういう未来志向なところがあるよな、過去のことはあっさりと忘れていける。」
「冷たい人みたいに言わないで。ただ身近な人間にアドバイスをしているだけだから。」
「そう」
「たっちゃんはさ。一見、幸せになりそうな人で一番遠いよね」
「幸せを目的にはしていない」
「ほら、そういうとこ」
「なにが」
「社会的に、とか、そういった目線で生きるの。もう辞めたら?」
「なにがいけないの?」
「恋人もできていないじゃん。そうやっていると、幸せが逃げていくよ。」
もうナルミとはやり直せない。それが辛い。
「うん、うるさい。幸せを周りに与えた分だけ返ってくるんだよ」
「でも幸せになってないでしょ?」
「そうじゃない」
「なんでこんなことを私が言わなくちゃいけないのよ。」とナルミはぼやいている。
「ごめん、ちょっと疲れることはあるかな。」と弱気なことを言ってしまった。
「ほら。やっぱり無理してんじゃん。」となるみは溜息混じりに言う。「残業ばっかで寝てないんでしょ?仙人なんて存在はこの世にないからね」
「おれも二十七歳だしね」
「はいはい、私も二十八歳になります」
「ナルミの年齢のことは言っていないって」
「はあ」とナルミはため息を吐いて、「もう帰ろ」となるみは手を上げた。そしてマスターにお会計のお願いをして席を立った。
 
ぼくらは上野を歩いた。「ごめん、結婚する人に言うことじゃなかったね。」なんとなく誤った。
「もう二度と哲学的なことは言わないで」とナルミは前を向いて喋る。
「まあ、こういうことももうないだろうしね」
人というのは不思議だ、もう会えなくなってしまう人にほど大切な感情を抱いてしまう。一緒にいる人にこそ大切なものは取っておかないといけないものなのに。
上野公園はどこかに動物園があるので、ほーひー、と変な鳥のような声が聞こえる。
「お互い幸せになっていこう」とぼくは言った。
「あんたに心配はされたくない」となるみは言う。
そしてぼくらは別れた。なるみをアパートの近くまで見送って、ぼくはタクシーを拾って恵比寿方面へと向かっていった。
窓の外を見ていると、ビルのあいまに一瞬だけ月が見え、どれだけ努力をしても人は、月を引き寄せることはできないのだ。と思う。どれだけ願っても叶わないなものがあるのだ。この世は巨大なエネルギーでできている、そんな考察をしたのは人生で何度目だろう。
そしていつかナルミが幸せになりますように、と心から願いながら恵比寿のアパートに帰っていくのだった。

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