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めざめようか

 中学校のときの同級生の伊藤くんが交通事故にあって、植物状態になってしまった。そのニュースはすぐにメールで回ってきた。
 彼の家庭は複雑で、彼には両親がいなかった。お父さんはひとりっ子の彼をお父さんの両親の元に置いていって別の女性と結婚し、そのあと行方をくらましたそうだ。
 お母さんは彼を産んで数年後に若くして亡くなっていた。
 だからずっと父方のおじいさんとおばあさんが彼を育てていた。そのおふたりもそんなに裕福ではなかったので、脳死と診断された彼を長い期間病院に置いておくお金はない。
 友人、知人、親戚にひととおりゆっくりと会ってもらって、そのあとで人工呼吸器を外そうと彼らは決めたそうだ。

 その知らせを聞いて、とても気が重かったけれど会いに行くことにした。 
 懐かしいクラスメートのいろんな人たちからみんなで行こうと誘われたのだが、私は断った。
「みんなビビってるんだろ、他の人といっしょに行って気を紛らわせようと思ってるんだろ、でも私はそんなのはいやだ」と勝手に意地をはったところもあるし、そんな悲しい場に同級生みんなでわいわいと待ち合わせて行く気になれなかったから、ひとりで行くことに決めた。
 みんなで行ってしまえば、実は全員が果てしなく静かで優しいんだろうとわかっていたんだけれど。

 私と彼は別に親しかったわけではない。
 ただ、中学生のときに一年間席がとなりだっただけの関係だ。
 おじいさんとおばあさんに育てられただけのことはあって、彼は変に礼儀正しかった。私にも敬語で話しかけるのだ。
 そんなところが気に入って、私も彼に敬語で話しかけるようになった。
 席が並んでいる一年間、私たちはとてもうまがあっていた。
 彼はうちの中学では強豪だったバスケ部に入っていて、地味な容姿ではあったが、とても身長が高いのと足が速いので男女問わず人気のあるいい選手だった。
 私も背がかなり高いので、彼と私はみんなが黒板を見やすいようにと後ろの席で並ぶことになったのだ。
 仲良しののっぽなふたりとして、私たちはよく冷やかされた。
 別にいっしょに帰ったりしていたわけでも、放課後に会っていたわけでもない。ただ座っているあいだ仲良くしていただけなのに、教師にまで冷やかされたのだ。
 私たちの並んでいる姿がよほどお似合いのカップルに見えたのだろう。
 そんなとき、彼はただ赤くなっていた。まるで紅葉みたいに自然に赤く。
 私のことを彼が好きだったのかどうかはわからない。ただ、赤くなって言い訳もしない彼を気味悪くそしてどこかかわいく思っていた。

 私はバレー部に入っていて、バレーが全てだった。なにも考えずに男よりも大きな弁当を食べ、ごつい筋肉で重いサーブをくりだすことで有名で、男子にも女子にもモテていたから、となりの席の伊藤くんが赤くなるくらい、その頃の調子に乗っていた私には別になんでもないことだったのだ。
 やがて一年が過ぎ、クラスが変わり、伊藤くんとは廊下で顔を合わせて挨拶をするだけの関係になっていった。
 私たちはただそれだけのふたりだった。

 午後の病院はとても明るく人の往来も多く、この中で人が死んでいくなんて信じられないほどだった。
 伊藤くんの部屋には人工呼吸器の音が響き渡っていた。
 曾祖母が亡くなったとき以来、私はその機械を見ていなかった。この機械って、今はずいぶん小さくなって、多少静かになったんだな、と私は思った。
 伊藤くんはすやすやと眠っていた。喉は切開され、唇は切れ、頭と顔にたくさんの包帯が巻かれていたけれど、閉じたまぶたは懐かしい伊藤くんの授業中の寝姿そのものだった。
「おい、バレー番長の田中、おまえ伊藤の奥さんだろ、起こしてやれよ。」
 と教師が私を名指しで冷やかし、
「違います。」
 と私が教師をにらんだならば、伊藤くんは今にも目を覚まして、あの頃のように赤くなってくれそうだった。
 おばあさんがそのとなりでじっと石のように悲しんでいた。
「はじめまして、私は中学の同級生だった田中美代です。」
 私は言った。
 ここまで平凡な名前だと、覚えてもらえないだろうけど別にいいやと思いながら。
 どんなに真剣に名乗ってもいつだって「あの背の高い人」でしか覚えてもらえないことに慣れていた。
「背が高いのねえ。」
 おばあさんは言った。
「はい。」
 やっぱり、と思いながら私は言った。
 そして、毎日毎日何人の人が彼に会いに来るのだろう、と思った。彼の人生に関わったたくさんの人を、おばあさんはここで、この固い椅子の上で、ひとりひとり迎えているのだろう。
 彼の人生を彼の最後の日々の枕元で紡ぐようにして。
「ひどい事故だったんですか?」
 私は言った。
「形が残っているのが不思議なくらいですよ。脳はほとんど破壊されたそうです。足は切断したのです。見てやってくれますか?」
 おばあさんは言った。
 ほんとうは「いやです」と言いたかったけれど、伊藤くんもおじいさんもおばあさんももっと痛いんだ、そう思った。
「はい、見届けます。」
 私は言った。
 おばあさんはそっとふとんをめくった。
 喉には酸素の管、尿管にもばっちりと管、胃にも管、腕にも管。そして彼の右足は膝から下がなかった。
「痛かったでしょう。」
 私は思わず伊藤くんの包帯を巻かれた膝のあたりに触った。
 まだ温かい。そりゃそうだ、生きているんだもの。温かいのに見送らなくてはならないおじいさんとおばあさんの無念を思った。
「ありがとうございました。」
 私は言った。そして続けた。
「見届けました。そしてこの光景を死ぬまで大事に持っているようにします。」
  おばあさんは微笑んでうなずいてくれた。そして言った。
「今日はおじいちゃんは寝込んじゃってね。逆縁は、悲しすぎるよねえ。」
 私もしっかりとうなずいた。
 まだ生きている伊藤くん、もしもその耳にこの声が聞こえてくれたらと願った。
 ドラマのように、彼は突然目を覚ましたりしない。祈りが通じて奇跡の生還をしたりもしない。
 それでも、聞こえてと願わずにはいられない。
「おじいさまはご無事なんですか?」
 私はたずねた。
「ショックと疲れで寝込んでいるだけで、きっと明日にはまた病院に来ると思うわ。今はそれしかしてやれなくって。私たちね、元々若いおじいちゃんとおばあちゃんだったから、まだまだ元気なのよ。この元気をこの子に全部わけてやれたらって思うわ。」
 おばあさんはぽつりぽつりとそう言った。そして私にたずねた。
「あなたは、どんな毎日を送ってるの?」
「実は、バツイチでして。私がこんなでさばさばして色っぽくないもんだから、だんなさんが出ていっちゃったんです。慰謝料を振り込んでもらって、実家に出戻ってきて、両親の元でぶらぶらしてもう半年です。」
 私は言った。
「まあ…お子さんは?」
 おばあさんは心配そうに私を見つめた。
「いなかったんです。だからいっそう子どもみたいな気分で実家にいちゃって。いけませんね。」
 私は言った。なんで伊藤くんのおばあさんにこんなことを話しているんだろう、と思いながら。伊藤くんに聞かれているようで私はなんだか恥ずかしかった。
 三十過ぎた伊藤くんの右足の膝から下には会えなかったね、伊藤くん、少し老けたね、やっぱり。前はりんごみたいなほっぺたをしてたのに。
 そう思った。とても、とてつもなく悲しかった。
 こんなに悲しくなる予定ならみんなで来ればよかった。昔のクラスメートとここで泣いて泣いて、そのあとみんなで居酒屋に行ったりすればよかったんだ。
 私はそう思っていた。
「さばさばしてるのもすてきだって、私は思うわよ。」
 おばあさんはにっこりと笑って言った。
「すらっとしてさばさばしていて、宝塚の人みたいよ。」
 その笑顔に私は何も言えず、ただ、
「ありがとうございます。」
 と言った。
「ねえ、全て終わってこの子がまた家に帰ってきたら、また遊びに来てやってくれる?」
 おばあさんは言った。
「みなさんにそう申し上げてるの。ぜひ来てやって。私たちも淋しいから。正雄にゆかりのあることをしていたいのね、ずっと。途切れずに。」
「はい、もちろんです。」
私は言った。そうか、伊藤くんって正雄っていうのか、と思いながら。彼の名前さえ知らないちぐはぐな自分、ここにいていいのか?ちぐはぐな立場。「悪い夢見てるみたいよ、今にも起きてきそうなのにねえ。こうしていると、そのうち退院できそうな気がしちゃってね。足がなくてもいいから、目を覚ましてほしかった。いくらでも世話をしたのに。」
「伊藤くんには奥さんや恋人はいなかったんですか?」
 私は言った。
「それがねえ、三十になる前に長いつきあいの方と別れて、それきりだれもいなかったみたいなのよ。会社の方に聞いたんですけどね、どなたも。」
 おばあさんは言った。
 そうか、と私は思った。そして思い切って伊藤くんを見つめながら言った。
「伊藤くん、私なんかで申し訳ないですけれど、私があなたにお別れのチュウをします。どうか受けとって。伊藤くん、クラスが変わったらもう仲良く過ごせなくなってごめんなさい。部活に夢中で、友だちを作る暇がなかったんです。」
 そして伊藤くんの大きく切り傷のあるでこぼこした、乾いた唇にキスをした。おばあさんはびっくりしたようすで、なぜか拍手をしてくれた。それから言った。
「わかった、あなた殺人サーブの人!」
「ええっ、なんか不本意だなあ。その記憶のされかた。伊藤くんがそう言ってたんですか?」
 私は言った。
「ええ、よく覚えてる。正雄は『田中の殺人サーブを見ると胸がすく』って言ってました。親がいないことや、バスケットボールで花形選手になれないことや、家が裕福でないことや、そんな全てを忘れるほどに殺人的な重さで、人が吹っ飛ぶくらいだ、あんなにスッキリするものはこの世にないって。」
 おばあさんは言った。
「ありゃ。」
 私は言った。
 そして、おばあさんをぎゅっと抱きしめて、その髪の匂いを伊藤くんの代わりに吸い込み、その小さな背中を心をこめて撫で、ぽろぽろと涙を流しながら病室を出た。
 あの頃と同じ挨拶をして。
「じゃあ、伊藤くん、また。」
 いつか、どこかで。

 外にでたら、あまりにも鮮やかな空の色にくらっとした。病室の窓からだって同じくらいに鮮やかな空が見えていたのに、ガラスを通さない空はまるで飛んでいけそうに近く見えたのだ。
 だめだだめだ、殺人サーブの田中美代がこんなことしてちゃ、と私は思った。 
 モデルになるかと言われたほどのこの身長、そしてお化粧次第では美貌に見えなくもない私。小娘にだんなを取られたくらいでうじうじして家でぶらぶらしてちゃだめだ。伊藤くんの分まで歩くのだ、そして見るのだ。伊藤くんがなんの仕事をしてたのか知らないが、彼の分まで働いたり親孝行をするのだ。仕事を探しに行こう、友だちのつてをたどって、明日からでもなにかして働こう。履歴書書かなくちゃ。
 めざめなくては、めざめられない彼のかわりに今すぐに。
 そう思って、足取りもしっかりと私は歩みだした。
 病院の前の紅葉がきれいな色に染まりはじめていた。まだ青いところ、赤いところ、黄色いところ、いろんな色が混じり合う。
 ああ、そう言えば、そうだった。まるで伊藤くんのように赤くなっている紅葉を見上げて、歩きながら私は思いだした。
「田中さんは、食べ物はなにが好きですか?」
 ある日の授業中、唐突に伊藤くんは私にたずねた。私は答えた。
「おまんじゅう。」
「俺も、おまんじゅうが好きなんですよ。うちのおばあちゃんの作るおまんじゅうは、最高なんです。」
 そう言って、彼は笑った。
「え?おまんじゅうって家で作れるの?」
 私は言った。
 うっかりとあまりにも大声で言ったので教師が激怒して、私に廊下に出ろと言った。伊藤くんを見ると、椅子も机も彼の体にはきゅうくつそうだったあの姿勢で、身をかがめるようにして笑っていた。
 それを思い出したら、力がわいてきた。
 おまんじゅうを買って帰るぞ、それを両親といっしょに食べるぞ、そう思った。伊藤くんのことを思うと悲しみが目のふちまであふれてきたが、私は泣いていいほど彼と親しくないんだからな、と思い直して泣くのをやめた。
 ただ感謝の思いだけを、病院の伊藤くんとおばあさんのいるあたりの窓とそこにいないけれど悲しみの中にいるおじいさんに向けて飛ばした。
 強く願った。この感謝が鳥のように飛んでいくといい。そして天使のように彼らを包め。