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仕事と無料と有料と

どくだみちゃんとふしばな 号外

これは厳密にはメルマガの中でくくると、「ふしばな」にあたる部分なのですが、無料で公開してみます。
どういう考えでこのメルマガをやっているのか。
よく文章の中で書くのですが、たまには、わかりやすく。

「ふしばな」は不思議ハンターばな子の略です。
毎日の中で不思議に思うことや心動くことを、捕まえては観察し、自分なりに考えていきます。
私が書いたら差しさわりがあることだって、私の分身が考えたことであれば問題はないはず。
村上龍先生にヤザキがいるように、私には「ばな子」がいる。
森博嗣先生に水柿助教授がいるように、私には「有限会社吉本ばなな事務所取締役ばな子」がいる。
村上春樹先生にふかえりがいるように、私には「ばなえり」がいる(これは嘘です)!

まだすることがある

ほぼ還暦、24歳で世に出たので、ちょっと早めに半引退したということと、のんびりしてひまというのは全く違うことです。
それは、半引退じゃなくって、「隠居」。
それと間違えているのでは…!という人がたくさん、たくさんいて。
また、半引退と「金がある」のも全く違います(涙)!
金があると思って、借金を頼まないでください(そういう人はまだまだいるので)。
現役バリバリというのは、事務所を持って、それをオープンにして、どこからのものであれ仕事依頼を積極的に受けている、という状態です。
今は知り合いの仕事しかほぼ受けていないし、事務所も週に2日くらいしか開けていません。
でも、小説は前よりもっと真剣に書いています。小説だけは現役バリバリです。だから忙しい、前よりもずっと。
かといって、以前のように「この雑誌のこの号にこんな感じのものを書いてくれろ」と言われて、雑誌のカラーやイラストの感じに合わせて依頼を受ける、というのもしていません。
あとは自分だけで、死ぬまで書くだけ。小説はそういう感じです。
出してくれるところがあれば、お願いするし、どこも印刷してくれなかったら、こういうところで出すだけのことです。

そんなに欲がないなら、無料でなんでも書けばいいのでは?という人もいるけれど、職業にするほどのスキルで作ったものを無償で提供したら、一瞬は得に思えても、受け取った人の精神を害することがあるという真実を、そういう人たちは気づいてないんだと思う。
お金になるほどのスキルっていうのは、当てずっぽうや思いつきや才能のきらめきでは育たないし、出現しないです。
だから「対価」というものがあるのだと思います。

たとえば引退した植木屋さんが遊びに来て、「この枝ヤバいな、目に刺さるよ。高いとこもちょちょっと切ってやるよ」と言われたとして。
お願いします、と言って、見ていたら何時間もかけて切ってくれちゃって、
先方が帰り際に「やっぱり少しだけじゃすまなかったので2万円もらえるかな?」と言ってきたら、これは詐欺。←この場合、私はお支払いしてちゃんと宣言して縁を切ります。
見ていたら、その人がどうにもプロ意識が止まらず、ずいぶんきれいにやってくれちゃったな、という場合。私は元々その人が現役時代に取っていたお金に少し欠ける金額のお金を包みます。
でもそういう人ってどうしても受け取ってくれないものなのですよ、これがまた。だから善人はお金持ちになりにくいのだが。
そういう場合、私は野菜や果物やお米やお菓子をお渡しします。固辞されてしまったら、後から送ります。

美しい海辺のカフェ、ただ野菜を煮ただけのラタトゥイユ的なものに米がついて2800円。
どうしてもそのときその場で座りたければそこに入りますが、そうではなかったら、自分の水筒にキンキンの白ワインを入れて、パンとにんにくヨーグルト(ギリシャにおけるツァジッキ)だけ持って、布をしいて岩に座って海を見て食べます。でもそのパンはふんぱつして1本500円近いバゲットかもしれない。
対価かどうかって、自分で選び、考えるものだから。

あくまでこれは私の場合で、しかも私が親や親戚や近所の商売人たちから体で学んだ感覚なので、そこは人それぞれ違うでしょう。
その、人それぞれの中で、自分はどうであろう?ということを考えるきっかけになればいいな、というのが、メルマガ「どくだみちゃんとふしばな」です。
そういうことを「さあ考えな!」とつきつけるのではなく、日常の中で読んで忘れる、でも考えなくちゃいけないときに、小さな支えになる、そんなイメージでおります。
生きているといろんなことがある、でも定期的にメールが来るかのように、このメルマガはやってくる。読んでいるあいだ、少し眠くなる、息ができる、ためていてまとめ読みするのが楽しみ、そんな空間が作れたらな、と願っています。
私個人は、私の愛する数少ない人のためにしか生きていない。それは一生変わらない。
でも、私の思想は多くの人によりそえる。そう思っています。

小説の中に流れる時間って、ちょうど夢の中でうまく走れないのと同じ感じ(でもこのあいだTVで誰か…新庄さんだったかな、が、そういうときは足が曲がってるって言ってたけどほんとうかな?)で、こういう文章の中では3年前に18歳、っていうことは6年前は?みたいなあたりまえの計算が奇妙にできなくなるんです。その人にインパクトのあった年齢が伸び縮みするんです。
環七から246に入る方法は何種類?みたいなこと(このたとえがすでにバカっぽいが)も、小説の中ではどうしてもうまく進みません。
この人さっき1回この話してるのに、どうしてもう1回言い直してるんだろう?と書いているほうは思っていても、小説が削らせてくれません。
つまり私は見えない世界のことを書いている、そう思います。
見えない世界では、永遠に同じ年齢だったり、246の途中に大きなトンネルがあって地獄につながっていたり、赤坂あたりから急に海に出たり、そういうことが普通にあるのです。

そんな私でも、「こういうふうなことが書きたいなあ、いつか」と思っていたことを、シャマラン監督が「サーヴァント」の中でみんなやってくれてしまって、アルジェント監督に関しては私が子どもだったから目指しても問題なかったけれど、今回はもう、納得と満足を感じてしまって、じゃあもう私はこだわらないくていいんだな、というところまであきらめました。
せめてもの幸いは映像と文章でジャンルが違うことくらいです。

じゃあ、こんなババくさい、説教くさいメルマガをどうして続けるのか?というと、「時代のたいへんさに関して自分が言える、役立てることがまだある」という考えからです。
どちらかというと、反体制的というかパンク寄りなので、いつか弾圧されることもあるだろうな、という気がします。なるべくそうならないようにのらりくらり生きてるんだけど。そうしたら、言い方を変えてまた書く。お猿のようにただひたすらに隙間をぬって書く。

万が一それももうしなくていいや、という幸せな時代が来たら、隠居しようって思います。それでも小説は一日一行でも、きっと書き続けるような気がしています。