そんな気がして彼らを見ていた。決して健常とはいいがたい自分と披見ジョンの世界を生きる彼らの間に何があるのか不思議でしょうがないが、調子を崩させた張本人たちが楽しそうに売れないバンドマン生活を40代までやっていて、俺は普通に社畜やってるのはなんだろうなぁ、って気がしてしまう。でも今はそのレールから外れてしまったので、体調の悪いフリーランスという最悪の状態からのスタートになってしまうけれど、でもそれでも雇ってくれる人がいるだけありがたいと思うことにする。
昔のクラスメイトがバンドマンを続けているというので、フェイスブックを覗き見てみると、フェイスブックに続けているバンドの名前が載っていて、オンライン配信しているというので聞いてみた。 まぁ、それなりにきつくて、売れるわけないよなと思った。 ドラムはうまいのかもしれないけど、ボーカルがきついよなぁと思った。ヘヴィメタルバンドでボーカルがよれているのは致命的だと思う。
結局何も残らない40年間だった だいたいの40歳はそう思うだろう。 俺もそう思う。俺は結婚しただけましだろうと思う。 でも、俺はそろそろ死のうかと思っている。
自分も齢40を迎え、結婚離婚と一通り経験して、最悪だなと思いながら、 くだんの歌を歌ったわけです。祭りの宴会場で。 それが好評なのか不評なのか、町の盛り場で歌ってみたらという話になり、まぁ、俺は一介の障碍者なのでなんとかなってるけどなんとかなってないわけで、元の水準に戻りたいけど元の水準に戻れないわけで、苦しんでます、リウマチだからね。生きてるだけで苦しみですよ。統合失調のリウマチとか最悪なわけですよ。マネタイズをいろいろ考えたけど思いつかなくて、もちろん介護施設で働こうとし
でも結局、そういうことなんね。 俺も結局、それで食っていける保証があるのかわからないけど、体を壊してなければ、この道に来なかったわけだし。いつかはFIREできるような作品作りができるように自分の作品を持ちたい。
最近よくよく死とはなんであるかを考える。 死を救済とは思わない。死とは終着点とも思わない。安楽とも思わない。 ただの終わりである。 祖母の死を見ていてそう思った。 火葬された骨の軽さを実感した時、特にそう思ったのである。 死とはこんなにも軽いのかと。 おそらくは何十キログラムとあった祖母も焼けば数キログラムの骨になってしまう。社会は祖母を忘れ、また新しい命が生まれて循環していくのだろう。歴史が紡いできたようにその繰り返しで会って、歴史に名を残してきた人以外は、歴史に名を残す
まぁ、大なり小なり昔かかわってきた人たちは成功したりしなかったりするものだけど、うまくいった人に限ってFACEBOOKをやりたがる。 そしてうまくいかなかった人間はFACEBOOKをやめる。僕は音楽をやめた理論だ。最近、彼らはどうしているんだろうと思ってFACEBOOKを開いた昔の中学校時代のフレネミーたちは軒並み成功していてムカついたりしたが、それはもう自分とは関係のない世界の住人なんだよなと思った。 一方俺は彼らに人生を蹂躙された立場としては、こういう人生を生きているが、
そして作ってみた。反響はゼロだったが、それは出来が悪かったからだった。生成AIも使った。自分が望んでいた未来とは違う未来が待っていたけれど、それでも作ることはできた。今、新たな金儲けを考えていて、ひたすら模索している。もちろん自分に才能があるかと言われると何の才能があるの?と思ってしまう。歌だってうまくない。文章だってうまくない。エロい文章が書けるわけでもない。AIを活用できるわけでもない。集中力があるわけでもない。ただ新しいものが好きなだけだ。ただ新しいものが好きなのだ。技
ずいぶんいろいろな人を見てきた。俺にマウントを取ってくる人もいっぱい見てきたし、俺よりも正気じゃない健常者も大量に見てきた。 そんな中で、正気とは何か、狂気とは何かを改めて考えてみたい。 統合失調症とは昔、精神分裂病とひどく恐ろしい病気で呼ばれていたけど、今はいい薬が生まれたおかげで正気を失うといったことはなくなった。自分も入院経験がない。一度くらい入院したほうがよかったのかもしれないが、もし入院していたら、今みたいなクリアな思考を維持するのは難しかったかもしれない。 正直そ
本来の人間の姿を見た気がした。子供は成長する。俺は子供を育てちゃいけない人間だし、作るべきでもなかったわけだが、それでも弟が子供を育て、3人の子宝に恵まれ、たまに帰省してきて「兄ちゃんこれからどうするの?」と言われると、確かにどうなるんだろうと思うわけです。子供がいたら、意地でも働いただろうし、体を壊していてもこの地方にはとどまらなかったかもしれない。それでも子供のためを思えばという意識が働く自分がいたならば、無理やり東京に住んだだろうし、体を壊し、精神的にもアレだったとして
まだ何か実績があるわけじゃない。 昔、小さな文学賞の二次選考に落選したことがあるくらいだ。 そんなことを思いながら、今日も淡々と生きているわけだが、ここ数か月は生きることは苦行のように感じて、ずいぶん苦しく感じていたのを覚えている。まだ本気で生きれていないのか、突き詰めれて考えれていないのか、読書量が足りないのか。理想は現実を超えていかない。それは当たり前の話であって、常に実績に裏打ちされた何かがなければ表現というものは成り立たない気がする。 突拍子もなければいいわけでもなく
殺人罪で13年の刑期を終え、出所して来たのは、時代の変化に対応できず、何事にもすぐにキレてしまう三上なる男。しかし、見た目は荒くれ者でも、彼は他人の不幸を見逃せない実直で正義感に溢れる人物であった。だから、身元引受人の弁護士夫婦や、TVプロデューサーの指示で三上の出所後の動向を撮影しようとする小説家志望の青年や、三上を万引き犯と勘違いしたことをきっかけに親しくなるスーパーマーケットの店長等、周囲の人々を自然に巻き込み、そして、魅了していく。やがて、気付くのは、なぜ、三上のよう
面接に行きたくないですね。 なんで面接に行きたくないんだろうと思うのか、いくつか考えたんですけど、自分は過剰に評価を恐れているのかもしれないなと思っています。 あと衣食住に足りているのと、自営思考に向いているのもあるのかもしれないなと思っていて、ひたすら勉強している。 社会に対して、社会には向いているけど、レールには結局乗り切れなかったのが存在であるという実感を得てしまったんだろうなと思ってしまったんだろうなと。これ以上もう無理はしたくないというか。フリーランスという生き方は
地元を離れてもよかったし、積極的にはなれるべきだった。 でもそれをしなかったのが自分の運の尽きだったように思う。 結果的にハローワーク御用達のブラック企業に勤めて体を壊して今に至るわけだし、その責任をだれかがとってくれるわけじゃない。 それが原因で離婚したわけだし、俺だって離婚したかったわけでもない。 でも遅いか早いかの問題だったのだ。生きていくにあたっての問題としては。体を壊したのは、運の問題がでかかった。自分はちょっとでも入院したりしたらとたんに体が固まるリウマチという病
独身バツイチ子供なし。それが今のプロフィール。おまけに低収入だ。再婚の予定はない。この前ナンパには成功したが、出産できる年齢の女性ではない。そんなことを思いながら、逡巡していくと、俺が死んだとき、誰かが俺を覚えていてくれる可能性は万に一つもあるのだろうかと思いをはせる。著書を残すでもない。キンドル本を出したが売れたわけでもない。そう考えると俺を覚えている人って誰か一人でもいるのだろうかという寒気みたいなものさえ覚えてしまうのだ。 それは孤独に似ていて、もう会わない元妻やきっと