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拡大解釈にご注意を:認知科学や脳科学

昨今は、様々なソースで認知科学や脳科学にふれることが多いですね。しかし、その大半は科学的ではありません。いいでしょうか、専門家からみたらかなりの情報が証明されてないような結果の過大解釈で溢れています。私はこれを危惧しています。エンターテイメントであるうちは問題がありませんが、多く人が何気なく得た知識がどうでも良いものであったりする事に実害を感じています。この記事では、注意喚起したいと思います。

そもそもヒトとは?

まず、自分を考えてみて下さい。あなたがスーパーでモノを買ったとします。その購入の理由をちゃんと答えられるでしょうか? もちろん、今日の晩ごはんにするから魚を買ったとか、切らしていたからトイレットペーパーを買ったなど、明確な目的があるケースもあります。一方で、お惣菜や加工食品・お菓子など、どうしてそれらを購入したかわかりますか? 仮にそれらが食べたかったとして、どうしてそのメーカーの商品を手にしたのでしょうか。他にも沢山異なったメーカーの異なった味の商品はあります。一つずつ吟味しましたか? 大抵の場合、そんな事はしませんね。
 かなりケースにおいて、ヒトは習慣的に行動します。一定の満足ができればそれで良いと考えます。そして、いちいち自分の行動に理由など問わないはずです。その一方で、かなり周りに合わせて行動します。誰かがどこかに旅行したなんて話を聞けば、自分も行きたくなり、誰かが美味しかったといえば、同じものを食べようとします。模倣は霊長類に特有といって良い行動です。殆どの動物は真似をしません。しかしヒトは殆どの行為を真似することで獲得します。

更に、この社会は他者と同じである事に圧力があります。他者と異なることをしたり言ったりする事は、かなり危険な行為でもあります。政治的にも、経済的にも他者と異なる振る舞いは排除の危険を伴います。

端的に言って、ヒトは自分の身の回りの人と同じ行動をすると思えば、8割方、間違えありません。人の行動レパートリーなんて所詮、そんなものです。この事をまず覚えておいて下さい。

科学一般の結果解釈上、注意すること

1.科学者も人であって、常識に合わせて結果を解釈してしまう。

上記に述べたように、科学者もヒトですから、周りと同じ様に考えて行動しています。文化的な思考からは逃れられません。その影響をなるべく小さくするために、実験をして状況を調べるわけです。だから実験の結果を第一に解釈すべきです。ところが、この解釈に大いなる問題が発生します。そう、もっともらしく解釈してしまうのです。

例えば、人は親に育てられます。親は子供を一生懸命教育します。それが子供のためと躾をし、知識や経験を与えようと試みます。これは親が子供にミームを通じて影響を与えられると信じているからです。そして、世間もそれを当たり前だと思っている事でしょう。多くの研究者もこの常識を踏まえて、学習効果等を検討してきましたし、結果がそれを示すこともありました。
 ところがです。常識となっている事を疑って結果を再解釈すると、この限りではないことが分かってきました。端的に言えば子供の教育に「親の影響力はない」ということです。

もっとも強力なのは遺伝です。性格の半分は遺伝の影響があります。IQに至っては、60〜70%ほども遺伝に起因します。聞きたくない事実かもしれませんが、我が子の成績が悪いのは、両親から受け継いだ遺伝子の影響が半分以上あるのです。これが科学が明らかにした事実です。

ところが、科学者もヒトですから、とりわけリベラルに考える人達は、教育によって人は変わると信じたいですし、訓練で人はかなり変化すると思いたいわけです。このような思想を持った上で研究をすすめると、学習が人を劇的に変えるという結論になるようにしか結果を解釈できなくなります。そして、無意識にデータをそう眺めてしまいます。しかし、それはただの思想であって、真実ではないのです。タブラ・ラサというのはただの神話に過ぎません。科学的なデータ解釈を徹底することで、まるで逆の結果が導かれたりします。我々は都合が良い結果をみつけようとするものです。それは科学者も例外ではありません。

よって、世間の人が常識とおもっていることを科学者が科学の文脈で再生産しても、それが正しいとは限らないわけです。

ちなみに、子供にとって影響力をもつのは、周りの友達であり、少し年の離れた年長の子達です。彼らの考えや振る舞いを子供らは積極的に真似をします。よって、もし親ができることがあるとすれば、環境をセットアップするくらいです。ある意味で、どの学校に入れるのかが大事とも言えます。

2.常識外の結果もまた気をつけること

一般に科学的大発見とは、今までの価値観からの転換につながるような発見です。しかし、常識外の結果には常に疑惑がつきまといます。

もう風化しつつありますが、STAP細胞を覚えていますか? 科学的な文脈でいえば、可能性はゼロではありませんので、STAP細胞のようなものが出てきても良いのです。しかし、現状ではそんなものは存在しません。よって、科学者の立場からいえば、「STAP細胞はありません。
 でも、常識を覆す発見は科学ではしばしば現れます。体細胞から生まれたドリーや、iPS細胞などは驚くべき発見でした。少し前の相対性理論などもしかりです。科学的常識を超えてくるのが世界の理です。

脳科学や認知科学は、大抵はアフォリズムの言い換えが世間に流布されるだけなので、常識外はむしろ排除される傾向にあります。そして実感が伴わない事は、排除されてしまうのです。

3.では何を信じるべきか?

人は周りに影響されていて、科学者も例外ではありません。そして常識を科学に落とし込みがちな認知科学や脳科学では、常識追認の結果が流布されがちです。常識外の事柄こそ、科学的な発見であることが多いわけですが、非常識であるがゆえに、多分に間違えの可能性があります。これが科学がしばしば誤解や過剰な拡大解釈がなされる根本的な理由です。

科学的な事実と聞くとどう思いますか? 大抵の人は「真実」として聞いてしまうはずです。それは危険ですので、直ちにやめてください。

端的に言えば、科学とは真理に近い仮説を提出し続ける。そういう活動です。真実とは限らないけれども、現状で考えられるもっとも妥当なシナリオ。それが説明されている思って下さい。そして、科学的常識は新しい発見で常に書き換わります。科学者とは、常識を深めていくというより、むしろ常識外の結果を探っているとも言えるでしょう。まあ、大抵は常識的な結果になるんですけど。

そして、逆に常識外の結果が出た時は、喜び勇んで、勇み足をすることもあるわけです。それがSTAP細胞だったり、高温超電導だったりしたんです。この辺りは本来、科学者の良心がものをいう所ですが、昨今の競争的な科学業界では、ウソでも、成果を出すという動機にあふれているという負の側面もあります。

よって、科学的な事実を目の前にしてどう対応したらいいか。

A. 長いこと科学的常識になっている事はひとまず受け入れる。
B. 最新の科学的成果は、ひとまず疑っておく。
C. 科学的事実は暫定的なものであると、心のどこかに留めておく。

このくらいに思っておけば、変な科学に騙されることもなければ、結果に振り回されることもないでしょう。

認知科学や脳科学の特有な解釈問題

1.大抵の認知科学や脳科学的な説明は、昔から言われていることのいい直しに過ぎない。

ぶっちゃけていえば、テレビでみるような脳科学のネタは、殆どがずっと昔から知られている事柄の言い換えに過ぎません。例えば、シャーデンフロイデという言葉を知っていますか? 「他人の不幸は蜜の味」という方が日本人にとっては馴染みがあるでしょう。このシャーデンフロイデが脳科学的に説明されるとどうなるか。それは、「他人の不幸を聞くと、脳内の報酬系と呼ばれる箇所が活動する。」と意訳されます。そうなんだ! と思った人はちょっとまって下さいね。
 これ、何か新しいこと言っていますか? 他人の不幸は蜜の味を、脳の活動部位に言い換えたに過ぎません。そうなんです、もっとも肝心な結論は元々わかっていたことに過ぎないのです。

我々、専門家は逆に考えます。人々はそもそもホニャララの傾向を持つ。では、この傾向は脳内でどう扱われているのか? と思考を進めます。世間の人とプロセスの流れが逆向きなんですね。それで、研究としては俗世で言われていた事が、たしかに機能プロセスとして見えたという事で価値をもたらします。ですが、そもそもの結論は、もうとっくにみんな知っている事です。

専門家の興味は、脳がどう機能するのかであって、シャーデンフロイデの内容そのものじゃないんです。ところが、世間では、他人の不幸話は「報酬」なんだと話が流布されます。何かがあたかも説明されたかのように思えますよね。でも、もともと「蜜の味つまり快楽」と言われていたではありませんか。

普通の人が、人がモノを見ているという分かりきった事実を知るのに、脳の視覚野が活動していると聞いて何か分かった気になってはあまり意味はないのです。もちろん、研究者としては対象物の挙動を調べているので大変に意味があります。この辺りが、脳科学リテラシーとして問題となるところです。

結局のところ、多くの世間に流布される大抵の脳科学ネタは、言い古されたアフォリズムの言い換えに過ぎません。

2.統計学的なものの見方

普通の人々はあまり意識しないかもしれませんが、科学ではよく相関関係が用いられます。説明変数と従属変数というものです。大抵の場合は説明変数を割り振って、その割り振りに対して従属変数がどう変動するかが問題となります。例えば、勉強量と成績の間には通常、正の相関があります。しかし、脳科学や認知科学では、強い相関が現れることは稀です。大抵は、せいぜい相関係数0.5前後あたりをうろつく場合が殆どです。そして、その相関はあくまで、相関であって因果ではありません。しかし結論を自然言語的に表明するさいには、あたかも因果関係かのように語られてしまいます。

 この相関と因果の取り違えが大問題です。こういうのを因果推論の誤謬といいます。

また、統計的な差を事柄の差異と拡大解釈する事も問題です。例えば、男性と女性では、女性の方がIQが高いという話があります。本当?といま信じた人や、嫌悪を感じた人は気をつけて下さい。上記を読み直してくださいね。
 統計的なものの見方とは、数値的な差が統計的有意にあるかだけが問題で、本質的な意味があるかは別物なのです。実際に男女のIQの平均値はほとんど同じです。【大きな違いは分散*にあります。女性の方がばらつきが小さく平均に集まっています。一方で、男性はばらつきが大きく個人差が大きいのです。このような分布の2つを比べてどちらが優れているとかを論じても全く無意味です。そもそもこの二群で差をみていること自体に前提となる信条があります。】

*【追記2021. 1.30】コメント有難うございました。近年の調査では分散にも差がないとのです。科学的な事柄はより真理に書き換わるという事例ですね。科学者が見たいように見てしまうという事にも当てはまります。上記【】の部分はかつての議論になります。

統計的な差の意味について、ちょっと簡単な例を出しましょう。とある町にA小学校とB小学校があるとします。A小学校の平均身長が130cmだとしましょう。B小学校の平均身長が130.1cmだとしますね。この時、統計的有意にB小学校が背が高いとしましょう。すると、言明的にはB小学校の人たちはA小学校よりも背が高いと結論されます。しかしです。しかし、その差は0.1cmつまり1ミリです。この一ミリの差にどれほどの意味があると思いますか? 5年位たって、同じ調査をしたら簡単に逆転していることもあり得ます。まあ、殆ど同じと言っても良いでしょう。統計的な差があるからといって、意味がある差かどうかは、別問題なんです。科学ではひとまず統計的な差が報告されますが、程度については語られないので注意が必要です。

つまり統計的有意差は数字的な意味でしかなく、差の意味合いは要検討です。

統計的有意差には一つマジックがあって、サンプル数に依存するという事です。統計的に差があるということは、通常、計算上意味がある差を示していると考えます。ですが、統計的な差はサンプル数を増やすと絶対に統計的有意差を生み出します。(専門的にいえば、t分布の統計値がサンプル数Nのルートに比例するからです。)だから、上記の小学校の差が統計的な差として現れても不思議はないんです。もっといえば、平均身長が130cmと130.01cmでも、ものすごいビックサイズの小学校同士で比べたら、差が出る事もあります。それでも、科学的な言明は、「後者の方が背が高い」です。たった0.01cmでもです。統計的な差が意味があるかどうかは、数字だけでは決まりません。

3.人の行動は状況で変わります。

これこそがもっとも言いたいことです。研究では、条件をなるべく統制します。自分たちが興味ある変数以外の影響を抑えるためです。しかし、実条件では様々な理由があります。

例えば、美味しそうなケーキが目の前にあったとしましょう。10人中8人が美味しいというようなケーキです。そしたら、買いたくなりますね。ですが、今しがた、パンケーキを食べてきたばかりだとしましょう。それでもなお、ケーキを買うでしょうか。怪しくなります。

同様に、人の行動はあらゆる要因によって左右されます。過去の出来事かもしれません。誰かの振る舞いかもしれません。同じような状況でも、同じに振る舞うかは分からないのです。その時に、人は異なった振る舞いを見せます。

実験室では、同じようなものを何度と無く提示して、脳活動を眺めます。つまり、平均値として眺めているわけです。その時に活動した脳活動は確かに、特定の条件下では活動するものになります。しかし、実条件では、かなりいろいろな条件が入ってきます。よって、特定の振る舞いを人に求めるのは、だいぶ困難になります。端的にいえば、予測困難という事です。特定の個人が、どういうふるまいに出るのかは、置かれた状況次第としか言えないのです。

それでは、認知科学や脳科学が語っている事柄はなんなのか。それは、ある方向性についてだけ言っています。それは事後的推論です。Xという刺激ないしは状況においてYという行動をとった時、Xという条件ではYとなる。と言う風に帰結するわけですが、この推論は逆向きになされています。本当はYの時、Xが存在していたというのが事実です。厳密に考えてみればすぐに分かりますが、Yという結果がたしかに起こった。そこはゆらぎません。では、そのYという結果を引き起こしたのはXなのでしょうか? 科学的なものの見方をちゃんと適用すれば、それは条件に過ぎません。

何を言っているのか?となってきたと思うので、卑近な例をだしましょう。例えば、あなたが銀行からお金を下ろしたとします(Y)。この現象をYとしたとき、原因はなんでしょうか? 給料日だったから、支払いの請求がきていたから、たまたま銀行の前を通ったから、はたまたオレオレ詐欺に遭ったから、かもしれません。その行動をとった要因はいくらでも説明が有り得ます。Yが起こったことは観測事象ですから確定しています。ですが、Yを引き起こした要因を単純に決めることは困難と言わざるを得ません。

これが物理のような単純な系とはまるで違う所です。記憶や予測という能力がある動物では、同じ行動の要因はまるで違う原因かもしれないと常に考えることが出来ます。

じゃあ、本人に直接聞けば? と思うかもしれません。ですが、実をいえば本人も自分の行動すべてについて理解していないのです。自分の意識は身体すべてを把握しているわけではありません。指一本動かすのに必要な筋肉すべてを意識することがないように、自分の行動についても、理解せずに行動しています。加えて、最初は意識していたことは習慣化されていきます。これが適応であり文化です。最初に述べた模倣もここに入ります。
 その上で、さらに人には思い込みがあります。自分の行動要因は説明できると信じているのです。だから、問われれば答えを出すことでしょう。しかし、本当の意味での動機など答えられるはずもありません。ですから、人はある意味で答えを捏造しているとも言えます。自分の行動を説明できないなんておかしいと思うかもしれませんが、厳密な意味では出来ません。しかし、社会的な意味ではできることになっています。そうして置かないと社会制度が維持できないからです。ここには小さな欺瞞があります。いや、大きな欺瞞かもしれませんが。

ともかくも、人は特定の行動をした際に、その原因は多数あり得るという事です。では、認知科学や脳科学は何を説明しているのでしょうか?

4.平均的な描像、蓋然性の問題

結局、学問上の認知科学や脳科学は、「傾向」を指し示します。こういう時に、人はこうしやすい。という事です。そしてそれは程度問題となります。必ずなるわけでなく、全く無関係でもない。そういう傾向を述べているにほかなりません。よって人の行動予測や、自分の行動の説明に、認知科学や脳科学を援用しても、判然としない結果になります。学術的にはこれでいいのですが、世間の人が受け止めた時に、むやみに法則化したり、法則を過剰適用するのはやめたほうが無難です。

人の行動は、つねに事後的にしか解釈できず、しかも真なる解釈は存在しません。なので程度問題と心得たほうがいいのです。認知科学や脳科学を知れば、人の性質を知る意味で役立ちます。そして傾向を利用する事はビジネスシーンでも可能でしょう。ほんのちょっとした事がビジネスでの差異化につながります。しかし、多くの場合、すでに既知の事柄を脳で説明し直している場合が殆どだとも理解しておいた方が良いです。よっぽどか、学者が考える枠組みより、ビジネスのほうが人の性質をよく見抜いているなと思います。

5.脳こそ真実を反映する!? ニューロマーケティングについて

ちょっとまって、人に聞いたりしてわからないからこそ、脳を測ることで嗜好の本当のところが分かるんじゃないの? と。そうなんです、いまニューロマーケティングという分野では、人の嗜好を見える化する技術が進んでいます。実際に、脳がどのように反応するかについてはある程度法則があり、人の好みも把握出来ています。ある会社では、発売前のCDの楽曲を人に聴かせて、どれくらい魅力的かを判断してからリリースするという事をしています。また、映画宣伝において予告編が打たれますが、どんな映像をみせるとより魅力的に見えるかなどにも応用されています。脳の反応はごまかしがきかないから、本音が見えるという事でもあります。

しかし、商品の魅力は脳の反応として見ることができるかもしれませんが、必ずしも購入につながるとは限りません。購買行動はそのものの魅力もさることながら、タイミングや周りの人達の目など、多くのファクターが働いています。どんなに味が良いというラーメン屋でも、不衛生であったり、あまりに遠い場所にあったりすれば、なかなか足が向かないものです。好みに関しても知ってるか知らないかといった親しみに強く依存します。結局、単体ではモノの価値は決まらないわけです。

人の価値観や宗教性や信条によって、同じ状況・同じサービスに対して、反応を変化させます。結局、行動Yを駆動するための要因Xを明確に絞り込むことは困難といえます。

世間に流布する個別の事柄について

右脳・左脳問題

まず、傾向として左右差があります。これは事実です。具体的には左脳はシリアル処理を、右脳はパラレル処理に向く傾向を持ちます。このような左右差は社会の分業と同じで効率化のために存在しています。そして、左右半球は情報のやり取りをしていて、時間的には早いケースで十数ミリセカンドのオーダーと考えられます。一方、人の認知にかかる時間は100〜500ミリセカンドのオーダーと考えられています。この事から、我々が脳の半球差をリアルタイムで意識することはありえません。あっという間に左右で情報をやりとりしてしまっています。つまり、脳を使うという意味おいては、左右を使っているというのが当たり前ですが妥当な解釈です。片方だけを使うなんてことは、かなり考えにくい事態です。

いやいや、脳の癖みたいなものがあって、右が活動しやすいとか、左が活動しやすいとかがあるのではないか? 偏りみたいなものを考えるかもしれません。しかし、左右差が出てくる状況とは身体において左右非対称に使用したケースくらいなもので、考えるとか感覚を受け止めるなどにおいて顕著な左右差は見られません。よって、人のなんらかの性質(性格とか創造性とか)が左右差に起因するというよりも、トータルとして活動した結果とみなすほうが実状に則しています。

端的にいって、右脳型とか、左脳型とか、人間を切り分ける方が無茶というものです。両方使っているに決まっています。そもそも使わないような器官を維持できるほど、身体はエネルギーが有り余っていません。使わなければ無くなるのが細胞というものです。ちなみに、認知症でも、脳が萎縮するということは、神経細胞が不要とみなされているという事が分かっています。

右脳型や左脳型など、厳密に計測すれば程度の差はあるのかもしれません。しかし先の統計的な処理の説明と同じことですが、その差が意味があるかどうかいえば、およそ無意味です。万遍なく脳を使っていると思って下さい。その結果として、性格とかセンスとか出てきているのです。

脳トレの効能について

脳をつかうと性能が上がるかについて、確かに訓練で脳は変わります。ジャグリングの訓練を続けた結果、特定の脳領域が増大した結果などがあります。よって、脳トレをすると脳が変化するだろうという事は間違えありません。ところが、皆さんの関心事は、そうではなくて、脳トレでより賢くなるとか、ボケなくなるとか、そういう事ではありませんか?

繰り返しますが、脳トレに効果はあります。ですが、脳トレで賢くなるとかボケなくなるかどうかは別の問題です。これを切り分けられない人が多いのが大変気になります。

脳トレと呼ばれているものの中身、なんであるか分かりますか? 大抵は計算とか、クイズとか、記憶テストとか、反射神経のテストではありませんか? それらをやると何が起こるのかといえば、「それらがうまくなる。」です。

もう一度いいましょうか、もし、ボケ防止のためと、将棋や囲碁を始めたとします。するとどうなるか。「将棋や囲碁がうまくなる」です。

当たり前過ぎて、怖いくらいです(苦笑)。ですが、この当たり前が、なぜか脳トレという文脈になると、事実が霧散して、幻想や願望が入り込みます。ボケの防止になっているかどうかと、脳トレとは切り離して考えることが必要です。

脳トレの認知症予防の実態はどうなんでしょうか? いろいろなコホート研究がなされています。そして、それらを取りまとめたWHOの認知症予防の提言があります。

この資料によれば、脳トレはそこまで効果があるとは言えないというものでした。要するに、特定の認知負荷をかける行為が認知症予防になっているとまでは言えないという事です。

もちろん、脳トレをやるかやらないかという事であれば、やったほうが良いと個人的には思います。何もしないくらいなら、頭を使う方がずっといい、そう思うからです。ですが、もっと認知症予防に効果があるものがあります。

それは「運動」です。えっ! とか思いましたか? WHOの提言にもしっかり効果があると書かれています。激しすぎる運動は逆効果みたいなので、やや汗ばむ程度の運動が良いかと思います。少なくとも、犬の散歩程度には運動したほうがいいでしょうね。

ボケ防止だといって、脳トレに励む時間があったら、軽い運動をしてください。その方が確実に効果があります。

それっぽいWebサイトの弊害

脳と医学ないしは健康科学のような分野には玉石混交の情報が溢れています。よって、内容がうさ臭いものから、もっともなものまで色々です。例えば、

大正製薬のウェブサイトですが、脳の元気度なるものをいきなり提言していますね。研究者の立場からいえば、この見出しを観た瞬間に「うへえ」と思います。ストレスへの耐性が脳の疲労で決まるかのような書き出し。はっきりいってウソに限りなく近いグレーです。脳が疲労するかといえば、かなり怪しいところがあります。正確には疲労できるほど酷使できるのか?という感じです。その前に大抵は、身体的な不具が発生することでしょう。つまり、脳が疲労するという点ですでにアウトです。
 加えて、ストレスと脳の関係ですが、交感神経系を過敏にするという意味ではかなり影響がありますが、果たしてストレスに強いとか弱いが脳の耐性?のようなものに関連するかとなると、何も分かってないはずです。その点もアウト。

次に脳の元気度とかいう点もアウトです。脳の元気度なんて科学的には知られていません。その審議は不明です。もちろん、この記事を書いた人たちが何かを発見しているという可能性もありますので、断定する事はしませんが、およそ勝手なでっち上げというべき事柄です。

中身はどうか。出だしにストレスは大脳皮質でキャッチするとあります。正直にいってはてな? です。脳におけるストレスによる身体反応処理で有名なのは、視床下部を含むHPA系と呼ばれるものや、海馬や扁桃体などの皮質下組織が主役です。と私は習っていますので、「ストレスは大脳皮質でキャッチする」とか書かれると、私はそんなこと新しく分かったんだーという気持ちと、勝手なこと言ってるだけじゃないのかという推論がアタマに浮かびます。そして、およそ後者だろうと推論します。
 続いて述べられている、大脳辺縁系の説明があり、この辺縁系を窮屈な状況にしないようにしましょう的なことが書かれていますが、何をいっているのかさっぱり不明です。大脳辺縁系とは、ものすごく大雑把に言えば入ってきた刺激・置かれている状態をモニターして良し悪しの判断をする所です。その結果はもっぱら情動や感情として現れます。Webサイトの説明はところどころはともかくも、全体として実におかしな事をいっています。「忙しすぎたり、スマホをみすぎたり」って、大脳辺縁系に対してどう働きかけるのか全く不明です。忙しすぎたりは、そりゃストレス要因そのものですが、大脳辺縁系にどう関係するのでしょうか? 一方で、スマホを沢山眺めるのが果たしてストレスを増加させているのでしょうか、むしろストレス解消のためにスマホを眺めているのではありませんか。

まあ、細かく見るのはやめましょう。時間の無駄です。とにかく、このサイトがいいたいのは、脳ではなくリラックスせよという事です。脳の説明は全くなくても成り立つことでしょう。

個人的には、こういう無意味に脳をこじつけるような事をしないでほしいと思います。このサイトをみた一般の人が、そうなんだと思って、実際の神経科学を学ぶと、どこにも繋がらないと感じることになります。脳に変なイメージが付いて、かえって弊害が大きいと思うのです。

では、こういうサイトに引っかからないためにはどうしたらいいか。

・大学や研究系のサイトを信用する事
・専門家以外が書いた企業サイトの説明は程々に参照すること(疑っておくこと)

(ちなみに、上記サイトはお医者さんが監修していますが、お医者さんが脳の専門家とは限りません。また監修とは記事を書いたとは限らないという事であります。)
・そもそも、脳科学や神経科学をちゃんと学ぶ事
(脳についてとかに限らず、まともな事を知ろうとしたら、普通は本を読んだり専門書をみたりします。Webサイトだけで何か、まっとうなものを得ようというのは、少々お気楽すぎます。まあ、上記サイトもただのエンタメとして消費されている限りにおいては問題はないのです。)

脳科学や神経科学を知りたい人

一先ず、専門家が書いた本を読んで下さい。研究者の中には、本には査読がないから言いたいことだけ書いていると批判する人もいます。しかし、一般の人が原著の論文にあたったりするのは少々酷です。それなら、専門家の図書は十分に役立ちます。ポイントは、一人の著書だけを読むことは避けることです。案外と同じことが別の形で書かれていたりして、解釈が違ったりします。これは別段、この分野に限ったことではありません。

昨今は、Webサイトだけでなく、メディアでも脳科学が取り上げられます。その時に常に気になるのは、話が単純化される事です。そして、本来グレーでしかない科学的な事柄が、白黒の形で提示されることです。それを批判的に眺められるほど、日本人に科学リテラシーがあるとは思えません。

とはいえ、皆さんは常識を持っています。何か脳などの話題を聞いて、変だなと思ったら、その感覚を大事にしてください。およそ、脳が云々より、常識の方が役立つ事が多いのですから。
 その上で、常識外の発見や、常識だけでは見えてこない事柄に科学が貢献するはずです。その時は科学に耳を傾けてもらって、そういう事が分かってきたのかと思ってもらえたら、研究者冥利につきます。

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