現代の進化論ーダーウィンの後に
進化論なんてもう良く知ってるよ、と思っていませんか? 実は、現代科学において進化の謎については未だに決着を見ていないのです。まさかでしょうか!? 進化の話はまるで終わったかのようですが、まだまだ分からないことは残っています。「大進化」と呼ばれる種の分岐について決定的なことは分かっていない状態です。また「小進化」と言われる適応的な変化ですら不確定といえます。それは生物学の発展に従って前提が変わってきた事に由来します。この記事ではダーウィンの進化論から始めて現代の進化論について考えたいと思います。
ダーウィンの進化論
そもそもですが「進化」という概念自体はダーウィンよりも前から存在しています。古代ギリシャBC610年頃、アナクシマンドロスは「全ての生命体は海から生まれた」と述べています。これは既に進化という視点を保持していたと言えるでしょう。ただ思弁的でありました。また、近世において1707年、カール・フォン・リンネが「自然の体系」の中で、植物は共通の祖先から発生したとの考えを述べています。少なくとも、進化という概念はダーウィンのオリジナルという事ではありません。ダーウィンの功績は進化を証拠をもって示したという点にあります。
先に進む前に、ちょっとダーウィン時代(19世紀)の生物学について寄り道をしましょう。そもそも時代としてはまだ自然発生説をなんとなく信じている頃です。自然発生説自体は古代ギリシャのアリストテレス(BC350頃)に由来します。生物は自然発生すると述べた事で、この考えがずっと踏襲されるのですが、自然発生とキリスト教の教義は矛盾します。当時のスコラ学者はこの矛盾を解釈で乗り越えていました。この自然発生説を覆すにはパスツールの登場(1860年)を待つことになります。自然発生説が否定された事は教会にとってむしろ有利になりました。なぜなら生物は神が造ったからと言えるからです。
そして、ここに「前成説」と「後成説」が関わってきます。卵から雛が換える事は分かっていました。その解釈として、卵には小さな鶏が入っているという主張と、卵は何にでもなれるが後からの影響で鶏になるのだという2つの主張でした。前成説論者のボネはホムンクルスを考えます。小さな人という意味ですが、卵の中には小さな人が入っていて、それが大きくなるのだと主張しました。現代人はせせら笑うかもしれませんが、当時の人にとって論理的整合的に説明できる主張でした。しかし、それでは生物が徐々に変わること、つまり進化を説明できません。ボネはそれをも神が予め創作したのだと主張するに至ります。結局この後の生物学の発展により、ホムンクルスの存在は否定され後成説がメインになります。よってダーウィンの時代には「自然発生説を否定し後成説」という思考が妥当な考えとしてあったわけです。後成説であるからこそ、生物は多様に変化するの考えることが出来ました。これが進化論の一端となるわけです。
ちなみに、我々はDNAという遺伝物質を知っています。DNAは、生物の設計図です。そしてその設計図が世代間を伝わっていきます。その意味ではほとんど「前成説」です。ボネの主張はあながち外れていませんでした。もちろん、設計図があるだけでは生物として機能しない事は明らかですから「後成説」もまた正しいと言えます。つまり現代はどちらの主張も内包されています。
同時代の進化論についても触れましょう。18世紀のパリにはキュヴィエという比較解剖学者がいました。多くの生物を解剖し、機能や形態を知っていたキュビエは極めて具体的で科学的でした。彼は研究の結果、動物は4つの大きなグループ(脊椎動物、軟体動物、関節動物、放射動物)に分類できると主張します。この4つのグループは全く互いに関係がないと考えていたキュヴィエにとって、共通祖先という発想はありませんでした。当時パリの地層から化石が出てきていましたが、現代の生物とは似ても似つかないもの。キュヴィエは古い生物は絶滅し、神がとある段階で新しく創造したのだと「天変地異説」を唱えました。
一方で、同僚であったジャン=バティスト・ラマルクという植物学者は違うことを考えます。当時において自然発生説は否定されていましたが、微生物についてはまだ議論がありました。ラマルクは微生物は自然発生し、その生物が徐々に高等な生物に変わっていくと主張します(「進化時空間斉一説」)。そこかしこで微生物が発生し、それらがヒトに向かって日々進化し続ける。そういう発想です。ラマルクは著作『動物哲学』のなかで、生物が徐々に変わっていく事を神の力とは無関係に述べました。この意味で最初の進化論者と言えそうです。しかし、自然発生説が残っていますし、微生物が徐々に変化して最終的にはヒトになるという直線的に進化するという主張は複雑な生物界を説明するのに無理がありました。そこでラマルクは「用不用説」や「獲得形質の遺伝説」という補助的な仮説が付け加わえます。直線ではなく環境に適応して変化しているために生物に多様性があると述べたわけです。
ちなみに、現代ではラマルクの進化論は否定されていますが、補助的な仮説は生き延びてきました。例えば「用不用説」はダーウィンも受け入れていた考えです。また古生物学者にも人気がありました。しかし、その後「獲得形質」は生物学的な理由により起こり得ないと否定されます。ところがこの21世紀、分子生物学の発展により、DNAが改変されはしないものの、環境要因によってDNAの発現の仕方が変わる事、そしてその変化が子供に伝わることが分かってきました。つまり「獲得形質」的な現象が起こっている事が明らかになったのです。いま、この話題はエピジェネティクスとして議論されています。
さて、これらの生物学・進化論的知見をバックグランドとしてダーウィンは進化論を考えました。ダーウィンは1809年にイギリスに生まれます。
ダーウィンはエジンバラ大学で医学をかじり、その後、ケンブリッジ大学で牧師を目指します。そう、実は神学を学んでいました。神による創造論をです。後に進化論を考えた時、どう反発を受けるのかは十分に理解していた事でしょう。当時は、ウィリアム・ベイリーが書いた「自然神学」を信じていたとのこと。1831年に卒業後、すぐに牧師になるのではなく、ヘンズロー教授のツテにより測量船ビーグル号にのって調査に出かけるという経験をします。5年ほどかけて世界を一周しました。プリマス、サルバドール、フォークランド諸島、ガラパゴス、ココス諸島、セントヘレナ。主に赤道から南半球側を探索しています。
ダーウィンが参考にした本があります。一つは、同時代の人チャールズ・ライエル著作「地質学原理」です。これは地質が風雨に晒されながら、長い時間をかけて徐々に作られていくという思想が書かれています。これを「斉一説」といいます。現代人としては当たり前過ぎるのですが、当時の人はとにかく世界は、神が造ったと信じていたわけで、その思想に反する事はなかなか受け入れ難い状況にあったと言えます。もう一冊は、やや先人のマルサス著「人口論」です。有名なテーゼは「人口は級数的に増加するが、生活物質(資源)は算術的にしか増加しないので、食糧不足を招く」というものです。マルサスはここから貧困が生まれてくると説きました。そして、食料をめぐる争いが起こるだろうと。
ダーウィンは船旅の間、島々でカメやマネシツグミなどの動植物を観察しました。その結果、島々にいる動物たちの体躯の違いから、共通の祖先が元々いるのだと直感します。祖先が島々に広がり、各島において適応した。つまり生物は「進化」しているのだ。島々に散らばったツグミたちは、島の環境に適応してその形態を変えたと考えられます。ライエルが言うように適応は徐々に進行し、マルサスがいうように適応的な個体が生存競争を生き延び、その形質が遺伝していくと。このような事を様々な動物たちの証拠を集めて、確実な論拠をもつものとして発表をしようとダーウィンを考えます。
考えが固まってくると、この事柄が当然、人間にも当てはまる事が分かります。つまり、ヒトもまた「進化」したのだと。これがダーウィンの悩み所であり21年間も著作を机に閉まったままにした理由でもあります。サルからヒトが進化という発想を人々が受け入れ難いとわかっていたからです。
1858年に採集家アルフレッド・ラッセル・ウォーレスから論文「変種が元の形から限りなく遠ざかる傾向について」が届きます。そこには「自然選択説」が語られていました。驚いたダーウィンは、ウォーレスの論文と共に「進化論」について、ロンドン・リンネ学会においてライエルとフッカーが代読する形で発表をします。そして、翌年1859年に『種の起源』をついに出版します。種の起源といいつつも、起源については語られず、生物が徐々に変化するという事が膨大な証拠ともに提示されています。
ダーウィンとウォレスはこの後、次第に離れていきます。ダーウィンは自然選択という原理が最終的には人間という知性を生み出すほど強力であると考えたのに対し、ウォレスは高度な知性のようなものは自然選択ではなく、何かしら大きな力の働きによって知性などが生み出されたのであろうと考えていました。ダーウィンは神などの超越的なものの介在を許さない唯物的志向と言えます。科学主義ともいえるでしょうか。この違いが二人を分かつ要因になっていったと一説に言われています。
さてダーウィンの進化論ですが、いくつかの要素があります。大きくは2つの事がテーマとなっていました。
1.種は’進化’による (神が造ったわけではない)
2.自然淘汰によって進化が生じる (理論)
ダーウィンはこの1が既存の概念つまりキリスト教の教えに反する事を危惧していました。とりわけヒトの進化という点において抵抗感があったようです。現代では、膨大な証拠を用いた科学的な考察から種は自然法則に従って出来たという主張は科学の世界において受けいられています。一方で、キリスト教圏では教義に反するという事で進化論を教えないという地域があることも付記しておきます。
2ですが、これは1の種が自然に進化するというテーゼを説明するために用意された論拠です。ここに先の2つの本の思考が役立っています。マルサスの人口論とライエルの斉一説です。かつて同一であった種が各環境に適応し、徐々に別種に変わる。その際に環境に適応的であった個体が多くの子孫を残すことで自然選択が起こる。徐々に変わっていくというのは斉一説をベースにしていますし、適応的な個体が残るというのはマルサスの人口論を適応していると言えます。マルサスの人口論は、人口は資源が増えるよりも早いので、必然的に食(資源)を求めて競争が生じるという事を示唆しています。ダーウィンはここに生き残りの競争(生存競争)が生じると考えました。そして、より環境に適応的な個体がこの競争を生き延びるのだろうと。この2、ダーウィンの自然淘汰の論をフレッド・ウィルソン(1991年)は論理推論形式で整理していますが、ここではより自然言語による簡潔なまとめを引用しておきます。
”(種の起源をまとめると)(1)変異の存在、(2)選択の作用、(3)形質の遺伝、この三段階である。そしてこの中の(2)がダーウィンの進化論の特色を示す。選択は、飼育栽培では人間の取捨選択、性選択ではメスがオスを選ぶこと、自然選択では生物の優劣に応じて自然の側が規制すること、と一般化されている。”
(今西錦司・吉本隆明対談『ダーウィンを超えて』より)
言い換えてみると、前提として「個体には変異が内在していて、繁殖力があり、資源が有限である。」これに対して「生まれた子供は多数なので限られた資源を巡って生存闘争が不可避的に起こる。」(但し、同種同個体間、異種個体間の闘争だけでなく、生活の物理条件の克服という意味でも生存闘争を使う)という。結果として「ある変異を持つ個体は他のものより多く子孫を残し、その変異は遺伝され進化的変化として淘汰されていく。」となります。
ダーウィンのロジックは後に様々な議論を生み出し、現代では多くの批判がなされています。現代からみれば、ダーウィンの主な貢献は1を物的証拠を通じて実証的に示したという点です。2の自然淘汰の説については、科学的実証の困難さがあり、現代では改変を迫られています。自然淘汰説だけでは説明できない事例が増えてきたことや、実際に遺伝物質としてDNAやタンパク質などが同定されたことが大きな影響を与えています。
とはいえ、ダーウィンが語ったことは、それまでの考えをガラリと変えました。それは「生物は変わる」という考えです。そしてそのままヒトは変わると続き、社会が変わると人々が考えるようになりました。キリスト教的史観から、進化思想時代になったというわけです。不動に思えた人の存在や社会構造は変えられるのだと人々が認識するようになった。この事は非常に大きな事でした。
この後、ダーウィンの思想はメンデルの遺伝学を取り込んで「ネオ・ダーウィニズム」となっていきます。そちらに行く前に寄り道をして、ダーウィンの思想の別角度について触れたいと思います。それは、ダーウィンの時代背景の影響です。
さて、いよいよ核心に入りますが、ここまでを無料パートにしたいと思います。此処から先の現代の進化論について知りたい方は以下の有料パートをご覧ください。また、ここまで読んで頂いた方に感謝致します。
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