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ゲーム・オブ・スローンズ

ゲーム・オブ・スローンズを今更ながら観てみました。完全に「にわか」です。ようやく8シリーズを観終わりましたので、感想を書こうと思います。ネタバレ満載なので、観終わった人だけ読んでください。


当初は中世時代を反映した貴族たちの継承権争いのように見えた物語は、途中から空想上の存在が入り込んで話が豊かになっていきます。やはり現実的な話だけでは少々退屈であるというのは間違えないでしょう。

登場人物が多く、各々がいろいろな物語を抱えているという話になっています。そのため、一人ひとりの描像がかなりしっかりと描かれます。最初こそバラバラに見えた登場人物たちが最後に向かって集い、最終決戦を迎えるという筋書きになっています。なかなか壮大でこの物語のファンは多いだろうなと分かります。

一方で、映像描写は結構なエログロです。画面の緊張感が緩むと、グロが発生し、グロが終わって政治が続くとエロが入り、といった具合にかなりの頻度でエロとグロが発生します。これをリアルと見るか、不要とみるか、結構好みが分かれそうです。私はかつて観た「ローマ」というドラマを思い出しました。

どちらかといえば、ローマの方が好みです。ゲーム・オブ・スローンズは壮大さが返って人々の行動描写のあらになってしまっているためですが、その辺りは好みの問題でしょうね。ちなみに、ローマもHBOが制作でした。ということは、ゲーム・オブ・スローンズは二番煎じ的なものと言えるかもしれません。

さて、内容に入りたいのですが、私個人的には結局、一番ライドしたのがティリオン・ラニスターでした。小人症として王家の次男として生まれた彼は、その生まれと生まれにおいて起こった母親の死亡という悲劇を抱えて生きている人物です。そのためか、出だしこそシニカルなキャラクターでしたが、その心根としては良心があり、行動に一定の合理性と現代性を持ち合わせています。権利という概念セットも理解しています。そして、兄ジェイミーがいうように、ティリオンは結局「弱者の味方」なんです。自己が弱者として社会規定されているために、比較すれば同類となるのは弱者なんですね。

このnoteに書いている事柄から私がどういう思想の持ち主かは既におわかりでしょう。ティリオンと同じく「弱者の味方」です。比較してしまえば強者の肩をもつ事は卑怯であるというのが私に内面化された価値観です。よって私の感想はティリオンを軸に述べることになります。GOTのような登場人物がたくさんいる物語では誰に賛同するのかという事は興味深い問になります。

物語の全体として「大人」は強者として描かれています。強権を奮って、人々をなぎ倒すのはそれが正義だからという思想の結果です。自己正当化の理由でもあります。大人とは常に目的のために非道を行うという形で現れます。作者の価値観が反映しているのでしょう。確かに世界の悪とは大人によって発動しています。私が今までみた世界でも、基本的な悪は大人になるに従い、心が雁字搦めになり、どうにもならない状況下において発生するという認識があります。子供が当初より悪を行うことはありません。一見すると悪にみえるのは無知から来るものでしょう。
 かつての職場には保育園が併設されていました。その保育園の子どもたちから将来、万引をしたり、恫喝や恐喝に生きる人間が生まれていきます。しかし、現時点では、そのような悪人ではありません。私には悪事とは大人のエゴであるという確信があります。そして、その悪事につながるエゴをどう自己コントロールするのか、それが人生の一大事であると考えます。ともかくも、大人は悪を実行する主体になり得るという事です。そして、一度悪事をおかした人間は、その悪事を「正義」や「大義」と言い換え、自己欺瞞を隠蔽し生き続けるわけです。常にその言い訳は「現実世界とは厳しいものだ」とか「生活のためには仕方がない」、「家族のためだ」や「お前を守るには」です。誰がお前にそうしろなんて要求したのかと私は思います。これらの言い分は常に欺瞞です。人を守るために人殺しする人間は、そもそもその行動と思想に乖離があることに気がついていません。それは狂った思想です。しかし、かなり多くの人間が、歴史的にみても、殆どの大人がこの狂った思想に大なり小なり揺さぶれて生きてきたのが人類史と言えます。

狂った大人に襲われた人々が、対抗するために、否応なく人殺しになります。こうして悪事=正義という思想がずっと人々の間に留まり続けています。虐待は親子間を連鎖するといいます。まったく同じ道理で、殺しという悪事が人々の間を往来しているんです。これを食い止めるには誰かが、勇気ある誰かが、この連鎖を食い止める必要があります。それは世間一般には「情けない」とか「弱気」と形容されてしまう行為です。私はこのどれほど屈辱的であっても、人殺しに人殺しでは対抗しないという行為に強さを見出します。屈辱的であればあるほど、その怒りを、その復讐心を、かの敵に向けないという行為に高潔さを見出します。ガンジーが表明したのはこの種の高潔さでした。キング牧師やマルコムXが見せた行為もまた同じ高潔さでした。私は宗教的な事を抜きにしても、彼らがどれほどに勇気があり、どれほどの賛辞を贈っても、それに値するかすら分からない行為を現実に行ったという事に驚きを隠せません。21世紀の人々は、彼らのような本当に勇気ある人間たちが存在したことを忘れてはいけないんです。白人には理解できないこれらの高潔さこそアジアや南の人々がもっと訴えるべき価値観でしょう。人殺しに対して、人殺しで対抗するような行為はサルでも出来ます。でも人はサルではない。どんなに理不尽でも、いや、理不尽だからこそ人は殺戮に抵抗する事、自身も殺戮に参加しないこと、そこにこそ価値が、人生の意義があると私は思うのです。
 むろん、自分たちが惨殺されてしまえば、価値もなんにもならないだろうというのは当然の批判でしょう。人類史は、結局生き残ったものの歴史。ということは、必然的に復讐の歴史でもあります。そして、残酷な人々だけが生き残る世界です。平和な社会は関係性を硬直化し、外乱や病気や災害によって不安を生じさせます。平和さとは逆説的ですが、争いを生むタネそのものです。そして人々はその不安を怒りを争いで解消しようとします。そのためにわざわざ敵を作り出すほどです。敵とは本質的に幻想です。敵を作り出すことで内部的な争いを減らすという効果があるというだけの事です。一度、殺戮が起こればもう終わりません。両者が相当に痛手を被るまで争いが続くのです。そして世代を重ね、そのような復讐心理が弱くなるまで続きます。だからこそ、定期的に戦争が起こるのです。攻撃を受けた人々の恐怖と怒りは、その世代はもちろんの事、その次の世代、その次の世代と受け継がれていきます。その心象エートスが次の争いを生み出すのです。
 人類は愚かですね、わかっていても争いを行う存在であり、その争いによって自ら復讐の輪の中に突入する。そして自分は犠牲者であると嘆くという愚かさ。これだから「大人」とは狂っていると言えるのです。でも、自己の生存を保つためには狂わなければならない。それが世界の真理であると多くの人が考えるわけです。この見方によれば、現代人はほとんどが狂っていると断定できます。


その一方で、動物から受け継いできた他個体と協力するという行動様式があります。協力とは進化の賜物です。そしてかなり初期の動物において協力行動は存在していました。一説には三葉虫にすら協力行動があったと考えられています。むろん、人類だって大抵の場合は協力を求めます。金の現実的機能とは協力を数字化した結果です。見知らぬ他人を協力関係に導くための手段が金なのですから。金がこれほど流通しているというのは協力が流通しているとも言えるわけです。
 ところが大脳が大きくなった人類は様々な陰謀を考えつきます。ゲーム理論をしっている人にとっては「裏切り」が如何に利益を生むかを知っているでしょう。大抵の場合において、短期的にみれば裏切りは利益なんです。関係性が繰り返される事が前提になって始めて、裏切りは不利益を被ります。
 現代人は、生存不安の解消と、裏切りによる利益享受と、協力関係による妥協的不利益の間で揺れ動く存在と言えます。

 さて、GOTに話を戻しましょう。結局、多くの争いが起こり、戦いがあり、謀略がある物語において、何が起こったのか。GOTの話大まとめすると、4つの話になるでしょう。1.ラニスター家を取り巻く王都の話、2. デナーリスを取り巻くターガリエン家の話、3.北部総督の長、スターク家の話、4.壁の北、夜の王やホワイトウォーカーの話です。

 1の話は、要するに上記の陰謀と他者への不信からくる生存戦略の話です。サーセイという女性を取り巻く形で話が進行します。サーセイは「大人」です。ですから狂っていて、自己と家族を守るためには何をする事も正当化されるという価値観に生きています。(絶望的ですが、現代日本でも、これは是認される価値観です。)よって、サーセイがやる非道な事は身を守るという動機に包まれています。父タイウィン公は、非道な人物でした。その存在から身を守るにも、同じ行為が必要だったはずです。恐怖という心理から共同体のまとまりを作り出す事は、一見すると合理的ですが、結局崩壊します。ただ人はエゴの塊ですから、自分が所属している時に崩壊しなければ、それで良いと状況を維持しようとします。崩壊するときに自分がそこにいなければいいと考えるわけです。これは現代日本の縮図です。政治家だけではなく、特に官僚や官僚化した大企業の人々考え方はサーセイにそっくりです。自己利益が阻害されれば、その敵を叩きにいく。狂った人生をおくっているのですが、そんな事は露知らず「真っ当な高級な人生」を送っていると信じ込んでいる人々たちです。

 2の話は正義とは何かという話です。ターガリエン家の血筋という物語の設定上、ターガリエン家の末裔であるデナーリスは内面に野望を埋め込まれました。それは一族の勃興です。そして自分こそが七王国の王座にふさわしいと思い込みます。海を挟んでドスラク人がいる場所にいたときこそ、奴隷解放という社会正義を志向しました。ところが奴隷を解放しても、親方という支配者を求める人々。また支配できる力、身分を剥奪されたものの恨みによって、反乱が引き起こされます。GOTはこのような人々の心理描写が巧みですね。権利を奪われた人々は、生存を危ぶまれます。そしてそのような「横暴」を許さないというのが、親方たちの正義なわけです。金の仮面の人々は、やはり大人の正当な理由によってデナーリスの支配を覆そうと企むわけです。デナーリスの高潔な理想、奴隷解放とは既得権益者の反乱を招いたわけです。奴隷解放が上手くいくと同時に問題を引き起こすと知った彼女はドラゴンの血筋を活かし力でねじ伏せに行きます。そして正義を遂行するための犠牲は仕方がないと自己肯定します。大人の論理にハマっていくわけです。これをティリオンやヴァリス公によって窘められるわけですが、女王はそれを無視していきます。結局、ラストの脚本が自然に思われるのは、この女王の正義が気がついたら狂った大人の論理でしかなくなったからと言えます。
 ただ、多くの大人たちはこれをやや理不尽に感じたはずです。なぜなら支配とは力であると信じているからです。表立って表明せずとも、戦争を生き延びた老人たちはこの思想を内面化しています。今の子供達ならいざしらず、老人たちはジョンの「謀反」を快く思わないことでしょう。
 この2の話は現代の国という単位による支配の困難さを表現しています。正義を貫徹するための暴力は果たして肯定されるべきかどうか。奴隷解放という当然の事柄が招く様々な争い。これを現代日本に引き寄せるなら、労働者開放でしょう。奴隷として働かせている資本家や経営者たちから、その利権を剥奪し、労働者に利潤を還元する仕組みを作ろうとしたら、果たしてどうなるのか。数が多いはずの労働者はそれを喜ぶはずですが、一部の労働者は、やはり会社に努めようとするでしょうし、それで何が悪いと経営者や資本家はやかましく叫ぶことでしょう。それをねじ伏せるために殺戮をするのは、およそ肯定しにくいはずです。フロムがいうように人々はなれてしまった不自由から開放されることを望みません。奴隷のような惨めさに目をつぶって、自分は労働者としてまともであると人生を送る事で自己の人生を肯定する。その「自由」を奪う女王を現代人が受け入れるかどうか。かなり困難な問を突きつけているのがデナーリスの物語です。

 3の話は、スターク家の話ですが、これは家族とはどういうものかという問いかけです。血と関係性という問題をはらんでいます。シオン・グレイジョイは果たして家族だったのか。ジョン・スノウは家族と言えたのか。また、家族であれば、協力して当然なのか。「俺達は家族じゃないか」という言葉にどれほどの意味があるのか。西洋はいま、この大問題に直面しています。もっともこれらの事から遠いはずのアメリカでGOTが受けた事を考えると、人類は今持って血という問題を解決していないことが分かります。日本は皇室問題で象徴されています。およそ、家族とは協力関係を否応なく結ぶべき集団です。有無を言わさない効力があります。では、それは当然だろうか。否。動物たちをみれば、それが明らかでしょう。子育てこそ、家族を形成しますが、巣立った子どもたちへのケアは殆どの動物はしません。ましてや孫の世話などするはずがありません。人間特有の問題なのです。人類が長命なのは孫の世話をするためという話があります。孫とはもう少し拡大解釈され、村に生きる子どもたちの生存率をあげるために老人がいるというものです。現代の都会暮らしにはまるで想像もつかないでしょうが、地方では相変わらず地域のおじさんたちが共同体の跡継ぎを生み出すために機能しています。そして、老人たちは一種の知恵として生存しています。家族という共同体は確実に存在し続けているわけです。
 では、スターク家のように共同体のために、人生を捧げるのか。それだけの価値を見出すのか。貴族という人々のモチベーションには家の存続があります。人類にはほおって置くと、世襲制を肯定する力が生まれてきます。それは惰性を肯定するものです。そして世襲の大半は失敗します。ましてや三世にもなれば、殆どが失敗です。ラニスター家はそれを象徴しましたが、スターク家は成功の例として描かれています。その秘訣はなにか。それは「他者のために行動する」という事です。自己のために、自己利益のために行動するのが大人の論理であると上記に述べました。スターク家はこの論理を脇に置きます。そして、他者利益のために行動するわけです。もちろん、常にうまくいくわけでは有りません。GOTでは、他者利益のために行動した二人のスターク、ネッドスタークと、ロブスタークはあっさりと裏切られてしまいます。大人たちと対峙すると、スターク家の方針は明らかに不利でしょう。なぜなら、多くの狂った大人たちにとってはスターク家はカモのようなものだからです。南部に巣食う狂った大人たちはスタークをあっさりと屠ります。
 一方で、北部の同盟はまさにスターク家の方針だからこそ守られます。スターク家の方針はいわゆる高潔さです。人々は狂った大人の論理にも導かれますが、一方で高潔な理想にも惹かれます。その高潔さを肯定するものは、大人ではありません。その正義はあまりにもナイーブであるがゆえに常に絶滅に瀕しているわけですが、世代を超えて常にうまれ続けています。このGOT物語では、リアナ・モーモントというモーモント家の少女領主がその象徴です。狂った大人たちはすぐに自己利益のみを主張します。それが経験則だからです。ある意味でおとなになるとはエゴをむき出しにしていく事と言えます。一方で、子供は本当の意味での正義を主張できます。まだ、手を汚していないからです。理想を掲げる事に衒いがないのです。自己欺瞞を孕まずに済むからです。スターク家とは、大人になっても自己欺瞞を持たずに生きるという事の象徴と言えるでしょう。だからこそ、ジョン・スノウは「何も知らないジョン・スノウ」なんですね。ジョン・スノウは世界とはどういうものか、大人とはどういうものかを学んでいくという存在です。壁を超えて女をしり、殺人を理解し、政治を理解していく。スターク家の青臭さこそが、彼を北の王にまで押し上げます。そして、その青臭さによって、デナーリスを刺し殺すのです。なぜなら、高潔さを完遂するためです。掲げた正義を遂行するために殺人を犯す女王はもはや悪人になってしまったからです。大人になるとは悲劇なのかもしれません。
 グレタ・トゥンベリ氏を思い出してください。世界の事実を表明し、そのための対策を訴えています。およそ彼女は正しいのです。リアナと同じ高潔さがあります。だからこそ若者を中心に世界的な支持があります。ところが大人はどうでしょうか。狂った大人は彼女の主張する正義に異を唱えます。その心根には2つの意味があるでしょう。一つは、現実に手をかした、既に手が汚れてしまった大人という立場からの意見。世界はそんなものではないという諦めです。もう一つは既に大人が失ってしまった高潔さに対する批判です。「お前はまだ何もしていない、知らないではないか」という大人の反発です。生きるためにという論理で悪事を働くのが大人だからこそ、グレタさんに強く反発するわけです。彼女を認めるとは、自分の中の大人を批判する事そのものだからです。

 デナーリスには手元にドラゴンがいました。また血筋という権力がありました。もし高潔な若者にこれらの力があったらどうなのか。正義のために、狂った大人をなぎ倒すのでしょうか。興味深い点ですが、世界はそのようなものを準備はしないようです。

4の話は、夜の王やホワイトウォーカーです。ブランが身につけた三つ目のカラスというのもここに入るでしょう。またドラゴンの存在自体もこのジャンルですね。また、魔女に象徴するように火の神という信仰や、七神というものもここに含まれるでしょう。この話が象徴しているのは、人を超えるものへの憧憬と嫌悪です。それは自然とも言えます。現代的な視点でいえば環境問題でしょうか。人は自然に対して畏敬をもつと共に、征服を目論みます。それは制御不能な事柄を人々が嫌うということです。人類の悲願は、不幸のない世界です。それは自然が唐突にもたらす悲劇をさけるということ。悲劇をさけるには、どうしたらいいのか。かつての人々は生贄を捧げ、異能な存在に対しひれ伏していました。なだめすかすというのが人の知恵です。もちろん無駄な事ですが、当時の人々にとってはリアルな世界観でしょう。現代人だって彼らを馬鹿には出来ません。神社にお参りにいったり、祖先に手を合わせていますね。それは目に見えない存在、気まぐれな存在への憧憬と嫌悪と言えます。GOTではこれらの存在が物語を豊かにしてくれました。その一方で、不可解な存在は対応が不明です。
 GOTでは、このアイランドに住むものの全体の敵として、夜の王はやってきます。まさに環境問題のようなものです。地球全体としての問題がここの国盗り合戦という小さな物語に覆いかぶさっているわけです。ジョン・スノウはこの危機を訴え、王都にいるサーセイを説得し、ドラゴン城にいるデナーリスを説得し、夜の王を迎え撃ちます。個人的には彼ら死の軍団に蹂躙されてしまってもいいなと思っていたのですが、まあそれでは物語になりませんね。というわけで、一発逆転という設定を作り、そこにアリアを向かわせました。アリア・スタークの存在意義が発揮されるシーンです。アサシンとして成長したアリアにはうってつけの役でした。
 現実問題としては、夜の王はウィークポイントがあるわけではありません。いつも神出鬼没に現れます。地震や台風、火災、噴火、日本にはたくさんの「夜の王」がいます。残念ながらドラゴングラスはありません。打ち砕きたくても、克服不能にみえるのが現実世界の夜の王です。まさに、今コロナウィルスがパンデミック寸前ですが、これもまた夜の王でしょう。人外の力によるものには人は無力といえます。とはいえ、対策がないわけではありません。それこそ、石油の使用を控え、環境に悪い素材を使用しないようにし、適宜対策を練る。それが人類の知恵です。コロナウィルスだって野放しにする必要はありません。

 一方で、魔女の話のように宗教はどうでしょうか。王都に突然としてはびこったハイスパローたちはどうでしょうか。魔女は奇々怪々です。物語には、時として利用される超常の現象を象徴しています。GOTでの扱いは割合と素朴だった気がします。魔法として万能という事にしなったことに物語製作者の良心を感じますね。一方で、ハイスパローの話は、まさに宗教問題として存在しています。我々日本人には馴染みがないことですが、海外では人々の思想にかなり食い込んだ存在として宗教があります。もちろん日本にだってあります。意識していないだけで、人が死んだらちゃんと葬式をあげるわけですからね。

 政治に宗教性が入り込むとどうなるのか。それはまさに現代日本の問題でしょう。日本会議という(宗教)団体が政権を保持しています。また公明党という団体が政権の一翼を担っています。古代ローマにおけるキリスト教を取り上げるまでもなく、宗教性のある団体が政治とつながると非道や横暴が顕著になります。それは間違えを認めないという思想だからです。神は間違えてはいけません。神に近づきたい人々の欲望は、その帰依者もまた間違えないという誤った認識を導きます。その権力が現実世界に向けられた時、過ちを許すという本来の法律の機能を弱体化し、むしろ過ちを否定するという心的状態を強化します。GOTでは、マージェリーたちがその見せしめとして表現されていました。権威あるものも、神の前での平等という思想をとるならば、まさにGOTのような状況になるはずです。すると、逆もまた然りです。
 自分を神のような存在であると認識する愚か者たちは、自分が間違えるはずがないという思考に陥ります。結果として、間違えを決して認めないという人間が出来上がります。コロナウィルスへの対策を失敗しても反省せず、政策に失敗してても反省せず、ただひたすらに嘘を付き続ける。愚昧さ全開の存在になっている。これが宗教性を帯びた指導者のウィークポイントです。間違えられない事、間違えを認められない事は、愚かな人間の行為でしょう。

結局、4の話は人々が日々失っている世界の脅威を思い起こさせる機能がありました。その脅威を覆すには、人々は謙虚になるしかないのかもしれません。

 

 ティリオンに話を戻しましょうか。GOTの話の中で、彼ほど人間的な人はいませんでした。命が危なければ、交渉し、戦いは誰かにまかせ、恩義にはきちんと借りを返す。その彼が生き延びる物語になったのは、当然でしょう。無力な人間がどうやって現実を生き延びるのか。そのバランスをとっていたのです。彼が犯した殺人は小さなものです。父親殺し以外は。そして、彼の行動は最終的に「他のため」という場所へ向かいました。それはヴァリスとも一緒です。GOTの恐ろしい部分は自分のためというのを全面的に出した人間は消えたことです。例え、それが正義に依拠しようともです。ティリオンの生き様は、人が人らしく生きるための中庸に見えます。ほどほどの悪と、ベーシックな善。弱きものを助けたいという気持ちと、現実にはそれが困難であるという無力さ。こういう点が私が肩入れする理由です。ティリオンが無能になるのは、ラニスター家に関わることです。どこか信じたいティリオンと、やすやすと裏切っていく父と姉。なぜ人は、愚かしいのか。
 我々は簡単にはスタークにはなれません。ましてやリアナ・モーモントには。大人とは、手を汚す事だとしたら、それを避けようとする存在はうざったいものになるでしょう。ですが、若い世代とは常にそのようなものでした。現代社会をみてください。ITが勃興して、世界を牛耳っているのはFANGAと呼ばれる企業体です。彼らの創業はほとんど20代だった事を思い出してください。彼らは、大人の論理とは異なる事で、現代のメインストリームを作ったのです。大人には出来なかった事をしているのです。手を汚す事、極端に言えば殺戮の輪の中に入ること=大人だとしたら、大人はもはや不要かもしれない。むしろいなくなったほうが人類にとっては有益かもしれない。そういう事も思案する必要があるでしょう。

さて、GOTですが、これだけの内容を含んだ物語です。そりゃヒットもしますね。最後のエンディングがあれでいいのかどうか。多くのモヤモヤはあるでしょう。大団円を目指したわけではない。その意味でGOTはリアルでもあります。そして、人がもついろいろな側面を炙りだしています。人と社会を考える私にとってはとても参考になる物語だった気がします。果たしてみなさんは、この物語どう読みましたか? 

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