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役割分担は「女性差別」なのか 「朝日新聞」のジェンダー平等論議を嗤う(2)

魔法のデータ

「どう思いますか夫婦の家事分担」のテーマで「朝日新聞」「声」欄のトップにのせられた16歳高校生男子からの投書。そこに反映された彼の「家事分担」への異常ともいえるこだわりに少なからず影響したと思われるのが、「朝日」(に限らないと思うが)がずいぶん前から折に触れて載せてきた、私が「魔法のデータ」と呼ぶグラフ。例えば2020年6月7日朝刊「『見えない仕事』在宅であらわに」と題した一面大の記事の中に次の小見出しをつけた棒線グラフがのっている。


「日本の男性が家事や育児に関わる時間は少ない]

日本、ノルウェー、スエーデン、ドイツ、フランス、英国、米国、7ヵ国での夫と妻の家事、育児時間(1日あたり)が示されている。日本の妻の家事、育児時間は最長。一方、日本の男の家事、育児時間はいちばん短い。私はこの手のグラフを見る度にある西洋の諺を思い出す。

 数字は嘘をつかない。しかし、ペテン師は常に数字を使う

「朝日」がペテン師だとは言わないが、このデータにはもうひとつの必要不可欠なデータが無視されている。それは労働時間の比較である。北欧諸国では午後4時には仕事が終わる(男女共家事、育児に費やす時間は十分ある)。英国も夕方4時~5時には人々はパブに集うという。残業がないからだ。ドイツも午後4時には仕事が終わる。フランス、アメリカもほぼ同様。一方、日本人、特に日本人男性の労働時間は7ヵ国中ダントツ。それは先に述べたようにハーバード大学日本研究所所長の女性が同情を示したほどなのだ。

 ここまでくれば子どもでも判ること。「日本の男の家事、育児時間が少ない」のは労働時間がダントツに長いからだ。スーパーマンではないのだから両方できるわけがない。つまり、男女の家事、育児時間のグラフともうひとつ、男女の労働時間の各国比を併せてのせてこそ責任あるジャーナリズムといえるのである。そこで始めて、長時間労働を強いるこの国のシステムに問題がある、ということが判るのだ。


物事はトータルに見る

という原則がここでも必要なのだが、「朝日」を始めとする日本のメディアは絶対それをしない。常に「男が悪い」「反省せよ」にもっていきたいため「データの取捨選択」「データの恣意的運用」という、ジャーナリズムが絶対してはいけないことを平気でする。

少年の未来が心配だ

「僕の家では父と母の家事分担がうまくできていない」「比率でいうと1対9」「父が1で母が9だ」そう書いた少年は家事をしない父(仕事にほぼすべての時間とエネルギーを注いでいるのだから出来るはずがない)を厳しく咎めた後、翻って自らを考える。自分の将来に思いを馳せる。「自分が誰かと結婚して家庭を持つとなった場合に、相手とうまく家事分担ができるだろうか」。一抹の不安がよぎる。なにせ、自分は「家事をやらない」ダメな父親の息子なのだ。「将来、同じようになるかもしれない」。しかし、「一番大事なのは話し合いをすること」。話し合いをし「家のルールを作る」のだ。「それを守れば互いに気持ちがいいだろう」。「将来、僕はしっかり話し合い家事分担が5対5になることを目指したい」と決意表明をして締めくくる。

非常に不可解なのは「家事分担」を絶対視する少年の議論に、前提となるべき「共働き」という概念が見当たらないことだ。少年だけではない、いつの間にかこの国のメディアから消えて、「家事の分担」だけが一人歩きしている。この国のフェミニズムの稚拙さを示すよい例だろう。

「家事分担」がリアリティを持つのは「共働き」という前提条件があってこそ。しかし、これも「共働き 共家事」と杓子定規にはいかない。「仕事」の内容は千差万別。日々、生命を削るような仕事もあれば、比較的ストレスの少ない仕事もある。エネルギーや時間に余裕のある方が、より多くすればよい。共働きではなく、一方が外で働き、他方が家事に専念する場合、「家事の分担」はテーマにならない。「分担」するとしてもせいぜい「1対9」くらいだろう。ところが少年の頭にはこの理屈が存在しない。存在しないだけでなく、将来、妻と話し合って「ルールを作る」そして「家事分担が5対5になることを目指す」という。「ルール」と聞いて極めて危ういものを感じた。

こんな話がある。夫と妻は共働き。それで「話し合」い夫と妻で家事分担を「5対5」にするという「ルールを作った」。暫くはそれで順調だった。しかし、夫が出世をした。当然、責任は重くなり帰宅時間が遅くなった。しかし、それでも2人は「家事を対等に分担する」、という「ルール」を守り続けた。が、これは当たり前の話なのだが、夫の負担は厳しいものになり、心身に影響し始めた。そしてある朝、彼はベッドから起きられなくなった。うつ病の始まりだった。彼は仕事も家事もできなくなった。休職、そして退職。収入は激減した。ルール至上主義がこの破滅をもたらした。元も子もない、とはこのこと。2人がほんの少し常識を働かせれば悲劇は避けられた。特に妻、おそく帰る夫に「あなたは家事をしなくていいのよ」とひと言いえば済んだ話。

この少年が将来家庭を持った時、妻と話し合い「ルールを作る」、しかも「家事の分担が5対5になることを目指す」との「宣言」に接し不安になった。おい、大丈夫か、と。彼が「ルール至上主義」「家事分担は5対5」、に固執するあまり、この男性のようにうつ病(あるいはほかの病気)にならないことを祈るばかりだ。いや、それ以前に「朝日」を始めとする日本のマスコミが作り出した「対等な家事分担」という原理主義から一日も早く抜け出してほしいと思う。

女性が家事をするだけで「女性差別」

さて、少年の投書を少し違った設定で論じてみたいと思う。彼の父と母を入れ替えてみる。ジェンダーの交換である。父が主夫として家事全般を担い、母が外で働いて給与所得を得るのだ。この場合、家事の分担は主夫である父と外で働く母で「9対1」ひょっとして「10対0」になるかもしれない。すると少年は「僕の家では父と母の家事分担がうまくできていない」「比率でいうと9対1、父が9で母が1だ」と書いて「朝日新聞」に投書をするだろうか。そして主夫である父は、母が家事をしないと言って不満を募らせ、母の帰宅時に「爆発」するだろうか?

どうもそうはならないような気がする。それは我国独特のフェミニズムのありようと関わってくる。つまり、女性が家事をしない分には一向に構わないのだ。逆に言うと、女性が家事をするだけで、何かそこに女性差別のようなものを感じるらしい。我国の歪んだフェミニズムの行きついた先、というべきか。ここで、ひとつ海外に目を向けてみよう。日本でいま行われている議論がすべてではないことが判るはずだ。

主婦の仕事は家族を守ることです。

 最近、滅多に聞かれなくなった言葉だが、発信者は「イタリア在住25年の日本人主婦」ユーチューバーのみほさん。この言葉は彼女が日本人だからではない。長年イタリアに住んで周囲のイタリア人主婦に感化されての認識なのだ。「主婦の役割は家族の健康を守り、家族の人生をより充実させるように助けることです」「日本人はその気持ちを忘れている人が多い」。いわば「縁の下の力持ち」的な存在(これも最近聞かれなくなった)。みほさんによると

イタリアの主婦は“主婦のプロ”

日本にも昔は「プロ」といえるような主婦は多くいた。実際、プロにならなければ主婦業は務まらなかった。が、現在のように夫と妻、「時間がある方」が家事をする状況では「プロ」は生まれにくい。しかし、みほさんによるとイタリアでは「性による役割分担」(「朝日新聞」が最も嫌悪するコトバ)があって、「家事は主婦の仕事」だという。具体的に何をするのか。みほさんの語るところを聞いてみよう。

<掃除>「イタリアの家、本当にきれいです。いつ行ってもちらかっているのを見たことがない。靴のまま上がるんですけれど本当にきれい。掃除は女性がすることなんですね。とにかくよく掃除するんです。

<台所>「シンクも本当にきれい。これは私が真っ先に見習ったことなんですけれど、ガス台は毎回洗うんです。お皿洗いと一緒。毎回やるとわけないんですよ。特別な洗剤もいらない。ガス台が汚れている家は見たことがない。」

<アイロンかけ>「本当にびっくりしたんですけれど、下着やパンツにもかけるんですね。義理の母(注:みほさんの夫はイタリア人)はそこまでやっていなかったけれど―。一般には、シーツ、ジーンズ、テーブルクロス、Tシャツも…私はそこまでやらないんですけれど、主人はそこまでこだわらないので―。こだわるご主人の奥さんは大変でしょうね。」

<以前、民放テレビで「海外に嫁いで困った!」という番組を見た。イタリアでタクシー運転手の男性と結婚した日本人女性の一日の家事労働の様子を追った。A子さんのいう通り家中の掃除、台所と徹底して時間をかける。しかもこの場合、A子さんのいう「こだわる夫」のようでいちいちチェックを入れる。「ここがまだ汚れているよ」とか「ここにはこの洗剤がいい」とか。日本だったら疑いもなく「お前がやれ!」だが、イタリアでは主婦の仕事とされているから仕方がない。掃除が一段落すると今度は古めかしい大きなアイロンを持ち出す。A子さんが言う通り、下着類から始まって、ジーンズ、Tシャツ、カーテンと続く。「そこまでこだわる夫」なのだ。街中で男性に聞く。「ジーンズにアイロンかかってなきゃ国際問題になりますよ」半ば冗談めかして言う。ローマの町は日本より汚いのだが各自の家の中は「ピカピカ」なのだ。スタジオには2人の若いイタリア女性。ビデオを見ながら「その通りだ」と言う。「そうするようママからしつけられている」と。>

<料理>(イタリアは「ファスト・フード」を拒絶し、「スロー・フード」を提唱したお国柄。その一事をもってしても予想がつく。ちなみにイタリア男の妻に求める条件は

 ◎家の中はぴかぴかに
 ◎料理の名人たれ
 ◎いつもきれいでいろ

 何やら、さだまさしの「関白宣言」みたいだが、あの歌、実は極めて西欧的価値観を現した歌なのだ(作者は夢にも思わないだろうが)。しかもイタリア男の願望がリアリティをもっていることは既に述べてきた通り。では料理の方は?ここでは主婦の技量が最大限に発揮されるクリスマス・シーズンに焦点をあてて、みほさんのレポートに耳を傾けてみよう)。

<クリスマスのお料理>「12月24日に友人、親族が来ます。この日は魚料理、前菜、プリモアット、セカンドプリアモット、サラダ、ドルチェ(お菓子)、パンドール等を用意します。12月24日から26日までの間にお客さまが来ます。イタリア人が一番楽しみにしているシーズン。女性は大変ですね。毎日4~5人分の料理を作る(のも大変だとおもうよ―筆者)のとは違い、クリスマス時期は10人分位、しかも各自にフルコースを出すわけです。そのプラン、材料の買い出し、そして料理、すべてを主婦がこなします。大変なんですけれど、そのおかげでぼけないんじゃないでしょうか。イタリアの高齢女性、ぼけている人が少ない、生き生きとしているんです。実際、大勢の食事作りは女性にとって大変。でも、大変なことはやり遂げた方がいいんです。その点、この習慣、私は気に入っています」。

「日本の場合、お節料理を買ってきたりしますよね。イタリアの場合、そういう習慣がありません。ケータリング・サービスもあるけれど利用する人はごく少数」

 このようにみほさんが女性にとって「大変な」行事をむしろ肯定的に捉えているということは、イタリアの主婦が不平不満を鳴らしていないからだろう。仮に、「毎年、このシーズンが来るとゆううつになる」とか「いやになっちゃう、なぜ女だけ?」あるいは「こんなの男女平等に反する」などともらしていたら、みほさんの感想も全く違ったものになったに違いない。もうひとつ、このことからうかがえるのは、イタリアのマスコミが日本のように「夫婦で家事分担を」をヒステリックに叫んではいないだろうということ。我々がいかに「井の中の蛙」状態にあるのか判るというものだ。

 ドイツで「一人前の女性」とは

 イタリアだけではない。ドイツの例。日本で発酵の研究で知られる先生の下にドイツから若い女性留学生が来ていた。任期を終え帰国する段になって、みなが結婚について聞いた。すると彼女「フィアンセはいるけどあと3年は結婚できない」「なぜ?」「3年間で母のレシピをすべて習得しなければならないから」。みなそれを聞いて感心することしきり。「日本ではどんなそんな話聞いたことない」。

 NHK第2放送のドイツ語講座を聞いていたらドイツ人講師が「ドイツではいまだに女性は何種類ものケーキを焼くことができなければ一人前とはみなされない」と話していた。日本にもかつて似たようなことはあったと思うが、そうした習慣は日本的フェミニズムの中で消滅してしまった。

 私の長年のメル友、日本在住約30年のアメリカ人男性の母親は看護師をしつつ6人の子供を育てた「肝っ玉母さん」だったが、亡くなって彼女の100になんなんとするレシピはレシピボックスと共に長女に受け継がれたという。私はこうした習慣をたいへんうるわしいと思う。「母の味」が娘へと受け継がれるのだ。もっとも、いまの日本だと「女性差別の再生産」といわれかねないが―。

「セクシー田中さん」を観てびっくり

 テレビドラマ「セクシー田中さん」(日テレ系)に描かれる若い男女の価値観についてかなりびっくりした。都内の商事会社で働く「かわいい系」のOLを中心に彼女をとりまく男女を描いているのだが、合コンをかねた飲み会のあと、主催者のKに「理想の女性像」を聞かれたらS、「家庭的」「料理上手」「倹約家」「男遊びしていない」と条件あげると「いまどきそんな女いないよ」と呆れられる。HPにもSについて「女性に対する偏見まみれの昭和脳」とある。そしてドラマ後半ではSはKの「理想の女性像」について「くさった価値観」とまで酷評するのだ。

 さて、このドラマの提示する「価値感」がいかにバランスを欠いた一方に偏したものか、イタリアやドイツの例を見てもお判りのことと思う。「朝日」に投書した少年の「家事分担」への異常なこだわりを含め、日本にとって焦眉の急は、この歪んだ日本的フェミニズムからの解放だろう。

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