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イタリアの悲観主義:根底にある主流への拒否感

 今回は、『イタリア的:「南」の魅力』ファビオ・ランベッリ第5章 「イタリア的悲観主義ー明るさは暗く、暗さは明るい」と終章「イタリアから何が学べるかー新しい人間観へ」です。

不信の文化の裏側にある家族愛

 前回イタリアの社会は、「家族」を基盤とする一方、その他の相互理解が欠如気味であり「不信の文化」と呼ばれる。多くのイタリア人にとって、「明るさ」は人を操るため、利用するために使う「一種の武器」である。この非公式な家族的コミュニティと公式な社会組織、理想的な暗さと戦略的明るさといった二面性がイタリア人の特徴であり、明るい印象を持つ彼らは、実は複雑であることが指摘された。
 今回は「弱い思想」の運動を中心に見ていこう。

イタリアのポストモダニズム

 イタリアの悲観主義の根底には、主流であるモダンへの拒否感、近代化への失望がある。合理的、科学的、工学的、オープン性、人間尊重、民主主義は、ヨーロッパ(特に北)では恩恵をもたらした。一方、イタリアの知識人には、そもそも近代化は、堕落、破壊、人間としての価値観の喪失に繋がりかねないという懸念があった。ポストモダンでは、近代の合理主義を否定し、近代を越えようとした。イタリアで見られた動きは、単なる破壊といった単純なものではなく、両義的であった。
 バァッティモはイタリアのポストモダニズムと呼ばれる「弱い思想」を提唱した。彼は近代の形而上学の強固に形成される「強い思想」に対して、「弱い思想」を提示した。絶対性、普遍性、権威性、排他性などを暴力的であるとして退ける一方、弱い思想は、多元性、自らの言葉で語ることを許容する。この運動には、イタリア記号論のエーコも加わる。
 エーコの記号論は、解釈における権威を否定し、思想のオープン性を重視する。エーコによると、権威のある解釈や権力が引き起こす意味作用に不信を持つ必要があるという。そして、たえず新しい解釈を作り続ける。さらに、その新しい解釈は、社会的・歴史的コンテキストを意識し、そこで新しい意味作用を起こすのだ、と。

日本の未来:価値共創型地域コミュニティ

 最終章で、ランベッリは日本は製品を作ったが、近代化の中でイタリアが保持した「地域性」や「人間観・世界観」など多くのものを失い、元々保持していた良さも含めて変容しているという。一方イタリアは、近代化の中で、ヨーロッパの列強の競争下で、家族性・地域性・職人性を守り抜いた。そして、そのように生き抜くために、愛すべき仲間を守るために、周りを足し抜くことも正としてきた。
 ランベッリが言うように、日本はイタリアに学ぶことが多い。しかし、私は日本には、家族・地域・職人的な部分を強化しつつ、さらに一歩進んで、出し抜くのではなく、オープンな価値共創社会になることを期待したい。もともと、協力的、自分のことを我慢しても組織の力になる素養を持つ日本であるからこそ築ける、地域コミュニティの形を模索していきたい。
 この「我慢」が、単に現状を維持することのみに向くのではなく、未来に向けた「前向きの我慢」になれば、日本にマッチする未来の築き方になるのかもしれない。

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