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デザイン思考家はソフィストなのか?

 今日から「ソフィストとは誰か?」読んでいきます。ソフィストと哲学者、著者はそれらをDNAの螺旋のように、お互い無くして存在し得ない仲であると主張します。しかしながら、現在ソフィストは歴史から消し去られ、哲学者のみが、脚光を浴びる。その状況を、ソフィストの言説に向き合い、かれらが何者か明らかにしていきます。

ソフィストは詭弁家か?それとも時代の挑戦者か

 序章と1章を読んだところで、ソフィストが何者かはまだ不明です。ソフィストは、言説手法など技巧に走り、議論の中身への関心は期薄だといいます。哲学が、議論のコンテンツを吟味したのに対し、ソフィストはその提供方法、手法、プロセスに熟知していました。そのため、ギリシャ時代には、ソフィストは政治家の家庭教師としてその手法を伝授していました。これまで、限られた富裕層のものであった知的議論術の民主化の一手を担ったのです。

 追加で上記の書籍をざっと読んでみたところ、書籍を書いていないソクラテスはもちろん、プラトン、アリストテレス等についても、長い歴史の中で伝えられてきたものが唯一の情報で、それらを丹念に紡ぎ合わせたものを今日私たちが得ていることが分かります。ソクラテスの死についてのプラトンによる「ソクラテスの弁明」や、クセノホンによる異なる議論など、何が真実なのかを理解することはそんなに単純なことではありません。

 そういった逸話の中に、アリストファネスが「雲」の中で、ソクラテスをソフィストとして扱っているのをプラトンが批判したというくだりが出てきます。それに対して反論したプラトンは、哲学者ではないソフィスト達を「詭弁家」として位置付けました。

 自然に対する哲学・科学が生まれてきつつあった頃、ポリス政治がはじまり、興味の対象が自然・資源から人・組織・政治へと移ってきました。その時期に活躍したのがソフィストです。それはちょうど、ソクラテスの活躍していた時期にあたります。「ソフィスト」は、人間・組織・社会に関する新しい知的領域に果敢に挑戦していった人たちとも考えられます。

デザイン思考教育とソフィストとの共通性

 そんな中、昨日まで行っていたサービスデザインの授業を思い出しました。3日の集中授業なのですが、デザイン思考を未来創造風に改良した手法を提供し、MBA生に体験してもらうことを主眼に置いています。メインは、エスノグラフィーの実施。観察から分析まで、一通りします。昨日が二日目で、ちょうど観察、分析を行ったところです。

 複数チームがあると、問いも異なれば、実際に観察で得た情報の量の違う。そのため、昨日の最初の洞察からそれら作り出す未来を描き出すところで、深みに差が出てきます。その時に、来週の最終日まで、日程があるので再度観察から挑戦もできるのですが、それはきっと無理。よって、コンテンツの出来よりも、手法、プロセスの実施を重視することになります。実際、コンテンツは水物で、良い悪いは参加者のみでは到底わかるものではありません。

 そんなことを考えていると、もしかすると手法の体験授業等は、ソフィストの家庭教師のようなものかもと、思い当たったわけです。つまり、ソフィストやデザイン思考は、実学、実務に役立つ教えであって、学問ではないし、学問になるという関心もない。一方、哲学は、真理を求め、学として成り立つことを目指した、ということです。目的が異なるので、お互いに同じ時代にいたとしても、交わることは少なかったのかもしれません。

 このように位置付けて、生活で役に立ちそうなことを教えるソフィストと、役に立つかわからないけど真理を追求する哲学者、を眺めてみると、ひたしみやすくなった感じがします。今日はここまで!

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