『すずめの戸締り』感想―大きな物語の喪失

※この文章は映画『すずめの戸締り』のネタバレを含みます。

ニーチェは「神は死んだ」と言った。日本から「大きな物語」が喪失したのは、太平洋戦争に負けたからだとニューアカデミズムの学者たちは結論を出した。東日本大震災から十一年が経った。
『すずめの戸締り』はそれらを踏まえて作られた、新海誠監督のアニメ映画だ。

物語は主人公、岩戸すずめが「常世」と「向こう側」の間にある扉を開いてしまうところから始まる。その先には、何もない場所、夜空で月が煌々と輝く世界が見える。しかし、その中に入ることはできない。その代わり、目の大きな白い猫が「向こう側」から出てくる。いずれダイジンと呼ばれることになる猫に餌を与えたり、扉を見たりしているうちに、先程自転車ですれ違った美しい青年が駆け寄ってきて、こう言う。

「きみはその中に何を見たんだ」

『すずめの戸締り』より

すずめが見た世界について話すと、青年(草太)は、はっとした顔をしたのちに、押し黙ってしまう。すずめが見た世界、これは恐らく震災直後のすずめが見た光景だからだと気づいたからだ。

すずめとすずめが大切にしていた椅子に憑依させられた草太の旅は、終始明るい雰囲気で進んでいく。ロードムービーという前書きも間違いではない。様々な出会いを経て、各所の「戸締り」をしていく。しかし、結局草太は東京の「後ろ戸」を閉じることに失敗し、自らが東の要石になってしまう。東京の地下鉄の線路の傍に「要石」が置かれていたことは暗示的だ。
すずめは自身のトラウマだった震災後の世界(すずめにとっての「扉の向こう側」)に入ることで、なんとか草太を救い出し、災害を招くミミズを封じることにも成功し、物語はハッピーエンドを迎える。
これがあらすじだ。面白い映画だと思う。温かい気持ちにもなれる。それでも何か物足りない。

「神」は実在するのだろうか?
土着の信仰が、震災の記憶が(岩倉文也が震災についての小説を刊行するタイミングでもある)、どうしようもなく失われていく現在で、新海誠はそれに警鐘を鳴らす。鳴らし続ける。
今作の新海誠もまた、ただ神仏の実在ではなく、神事、そしてそこに根付いてきた人々の想いの強さを描こうとしているようにも感じられる。それがすずめのロードムービーというかたちで現れる。
神は語る者を持たなければ消えてしまう。誰も神について語らなくなれば、アノマリーとも言えるような異常事態に名前をつけることができなくなってしまう。「名づけ」によって異常な存在を「分かるもの」へと規定することは古代から国を問わず行われてきた。土着信仰は紛れもなくそのひとつだ。『すずめの戸締り』の草太や草太の育ての親が脈々と受け継いできたものはただ「後ろ戸を閉じる」ことではなく、語り継ぐことでもあるのだ。そして後ろ戸が廃墟に開くとき、それは異常な存在が再びその「分からなさ」を取り戻したということの証左なのである。

新海誠が大きなテーマ、大きな物語について語ることを始めたのは、『君の名は。』以降だ。
『君の名は。』では隕石が降り注ぐというある意味で突飛な災害だったが、それ以降の作品から、よりリアリティのある「災害」に変貌していく。『天気の子』で語られるのはひとつの異常気象へのテーゼであり、elf傘下でアダルトゲームのアニメーションを担当していた彼らしい、ゼロ年代らしいセカイ系ボーイミーツガールでもある。
例えば、プロデューサーに川村元気がついたことや、『君の名は。』の大ヒットも関係するだろう。それらは時世の流れというものだ。
しかし、『言の葉の庭』では短歌が引用されていたし、以前から新海監督が日本神話や古代日本に深い興味と造詣があったのは間違いないだろう。
ゼロ年代に流行したSFみのあるセカイ系(例えば新海監督作品では『雲の向こう、約束の場所』などが顕著だろう)こそ、彼の作りたかったものとは違うのかもしれないし、異常気象の連続や震災が彼の作りたいものを変えたのかもしれない。
何かしらの使命感のようなものを新海監督は背負っているように感じる。大船渡のビルが繰り返し映されるのは強いメッセージの表れのように思える。

新海監督といえば、「絶対に実らない恋」を描くことでも有名だった。一番最初の作品である『彼女と彼女の猫』ですら、愛猫は死んでしまうし、悲哀を描くことに定評があったと言える。
『君の名は。』がはじめに話題になったのは、「新海誠が描いた初めてのハッピーエンド」としてだった。実は『言の葉の庭』の小説版もハッピーエンドなのだが、とにかく一緒に素晴らしい時間を過ごした男女がどうしようもない理由でもう会えなくなってしまう、というのは、新海監督作品のテンプレートであったことは間違いないだろう。

新海監督は『君の名は。』で市民権を得て以降、社会的に強いメッセージ性を持った作品を発表し、スクリーンに「大きな物語」を映し出そうとしているように感じる。私たちが日頃忘れている、けれど確かにあった「大きな物語」を、彼は必死に伝えようとしている。そこに批判が生じることを厭わずに。

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