詩編2:5(Psalm2:5)

אָ֤ז יְדַבֵּ֣ר אֵלֵ֣ימֹו בְאַפֹּ֑ו וּֽבַחֲרֹונֹ֥ו יְבַהֲלֵֽמֹו׃

【ヘブライ語は右から左に読む】

新共同訳
 憤って、恐怖に落とし怒って、彼らに宣言される。

口語訳
 そして主は憤りをもって彼らに語り、激しい怒りをもって彼らを恐れ惑わせて言われる、

KJV
 Then shall he speak unto them in his wrath, And vex them in his sore displeasure.

「אָז」「その時」
「דָבַר」「(彼は)話す」
「אֵל」「(彼ら)へ」
「בְ」「in」「אַף」「(彼の)怒り」(鼻とも訳せる)
「וּֽ」「and」「בַ」「in」「חָרוֹן」「(彼の)怒り」「בָּהל」「(彼らを)邪魔する」

 主である神は、イスラエル民族を通して、その「名」や「存在」を明かされた。
 キリスト教徒は、イスラエル民族の預言者が語りつないだ「メシア」が、ユダヤ人のイエスという人物であると信仰する。
 原始教会は、ユダヤ教徒と「メシア」の「解釈」が違うことで分かれていくことになる。
 すなわち「旧約聖書」(Scripture)の「解釈」の問題なのだ。

 そして、イスラム教徒は、同じ名を持つ神を信じているにも関わらず、「最後の預言者」の言葉を信じている。
 ユダヤ教は腐敗してしまった。キリスト教のイエスはメシアではなく預言者であるが、「最後の預言者」ではない。(最後の預言者思想はマニ教にもある)
 つまり、「Scripture」「Bible」ではなく、クルアーンが一番貴いとするのだろう。
 (間違えてたらご指摘下さい)
 すなわち、「Scripture」(旧約聖書)の「解釈」の問題なのだ。
 イサクは、正統なアブラハムの嫡子であり、イシュマエルは、傍系の子だ。
 確かに、アブラハムは、イシュマエルも「祝福」されよと神に祈っているが、「Scripture」の解釈を歪めてもいいとは言っていない。

 ここに来て、「偶像崇拝」の意味が逆に問われている。
 預言者もまた、行き過ぎれば「偶像」になってしまう。

 ここで、イエス・キリストは「偶像」ではないか?
 と、問われるかもしれないが、
 イエス・キリストは「真の神にして、真の人である」から
 偶像にはならない。なぜなら、人となられた神だから。

 とにかく、私たちは、「Scripture」(旧約聖書)の「解釈」の問題が突き詰められている。
 同じ神の名で争うのは、おかしい。
 争いは、やはり「人間の側」に問題がある。
 「Scripture」は不変である。
 だから、後は「解釈の違い」なのだ。

 平和のために、皆で、祈ろう。

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