時と場は物語る
立ち続けている記録する者。
そして、切り取られた会話を、詩へと昇華する。
この詩人は、客観性を重視している。
だから、時間と場所を特定して、そこで起こった「音」を記録し続けている。
しかし、しかしだ。
この詩人の主観性も感じうる。
つまり、「音」を書き起こす段階で
詩人の取捨選択が行われている。
それは、もはや街の音から詩人の言葉へ昇華されているのだ。
しかも、この詩人のコンセプチュアルな視座だけでなく、英語を解する知性も感じる。
私は、この詩人の詩を読んで、日本現代詩のアンディーウォーホルを想った。
読んでみれば分かると思うが、書き起こすという記録性よりも、会話の妙にフォーカスされている。
それは、この詩人のコンセプチュアルな動機と作品にして届ける作家性からだろう。
正直、noteには、ピンからキリまで詩人がいるが、
このコンセプトと作家性は驚きをもって迎えた。
私個人としては、その手があったか!
と、そのコンセプトに感動しているし、それだけでなく、言葉を切り取る作家性にも悔しさを覚える。
できるなら、俺が考えた、と自慢したくなるコンセプトだ。
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