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榎本健一「エノケンの浮かれ音楽」をSP盤と蓄音機で聴く

東京喜劇。

高度経済成長期の頃、エノケンとあると(様々な媒体に)、必ずといってよいほど「喜劇の王様...云々。が、そのキャプションの意図するところがなんとも? せいぜい"渡辺のジュースの素"のCMソングの人という印象のみ。当時、TV時代(TV全盛期の末期、ちなみにまだ白黒テレビ)、喜劇=笑いでは、すぐに思い浮かぶのは藤山寛美にコント55号だろうか?

80年代初頭(偶然手にした)、小林信彦著「日本の喜劇人」でようやく見えてきたというお粗末さ。そう、戦前が最盛期(特に体技派では、齢による衰えは如何ともし難い)の喜劇人のようだ。と、履歴は掴めても、舞台を観ていない以上、実態は不明ママ。

映像作品では、さらに後年、例えば「エノケンのちゃっきり金太」を見て、ああ、これかぁ"?"と。でもカット編集が顕著だそうで、他の作品もオリジナルのママ現存は極めて少ない由。幸い「エノケンの頑張り戦術(1939年)」など完全に近い作品も、またレコードが(CD化)。

わりと近年では、不勉強はふまえ「エノケンと"東京喜劇"の黄金時代(東京喜劇研究会)」で初めて知ったことが多かった。エピソード選集(その他、未公開資料&関係者の証言など)でもあるのだけれど、おぼろげにも、一座の中での"エノケン"という存在が見えてくる。なにが知りたいかにもよるのだろうけれど、もう舞台が観れない以上、残された様々な資料から統合的に捉えるしかないでしょう。

(エノケンにまつわる文献では、その舞台にも携わった劇作家の林圭一の本は面白い、もしもし未読であればぜひ。菊田一夫の弟子の一人が林圭一で、その逸話も語られている。菊田一夫では、古川ロッパの日記も参照されたし)

エノケンの浮かれ音楽(The Music Goes Round and Round)。

当時のSP盤で「エノケンの浮かれ音楽」。これはエノケンのメジャー・デビュー盤(1936年)。もう片面も同曲で"Betty Boop"バージョン(feat.Mae Questel)、両A面でしょうか?

レコード品番"2308"。録音ママ無加工、マイクは約1mの位置。250蓄音機にサウンドボックスは9番(ストック)。盤にやや難あり。

さて、演じるという世界も様々、ただ、ライブでは観客の反応がダイレクト。それは転じて、いわゆる"観客をのせる"ための即興性にも繋がる話なのだけれど、原始的な形態の芸ほど顕著。歌謡の元祖となる節談説教に例えても、反応を見据え、語りのトーンとテンポを如何様にも変化させる(端的には、音の効果で、一種の変性意識に導くのだろう)。ある意味そんな操作術も駆使は、日当を得る=生活に直結=生きるための術として数多の芸能は、芸に磨きをかけてきた。

それはハングリー感とも云われるけれど、エノケンに戻すと、生活の糧云々はともかく、人を楽しませることに飢えていた(何が何でも笑わせるという)、そこに芸人魂を注いだと思しい。評伝では、舞台の幕につかまり(開演の緞帳?)、幕とともに宙に昇ってまでもウケを狙ったそうで、また晩年に於いて病で脚を失ってからも体技の鍛練は続けていた。しかも宙返りの練習をもだ、それを舞台上で成功させたのだから尋常なサービス精神ではない(原文には"日劇の舞台")。

60年代のエピソードと思われるが(再起&再婚後で60歳頃?)、いくらなんでも当時、そんな高機能な義足があるわけがない。観客はびっくりしたそうだが(義足の件は知れ渡っていたはず)、スタッフも驚愕したのではあるまいか。演者としての狂気をも感じるが、それを正統な芸として評価すべきかは別として、そこまでもして舞台をヒートUPさせる執念には感服する。

(ちなみに芝居でのアドリブをエノケンは嫌っていた、一座の役者には禁じていたそうだが、実際のところ、どうなのでしょう?)

当時の音楽を当時のオーディオで聴く。

体技云々のみでなく、そもそもエノケンは柳田貞一(オペラ歌手)に師事、それ以前、音楽的才能の片鱗を見せるような子供だった(譜が読めたそうだ)。そこも散々に語り継がれてきたであろうし、造詣もない。参考書籍では、瀬川昌久著「舶来音楽芸能史」は名著として名高い。先に紹介のエノケン本と突き合わせると、エノケンが音楽的にも先鋭的であったことが、より明確にわかると思う。

ところでUPの動画、蓄音機は日本コロムビアの"No.250"で、これは盤と蓄音機の年代がほぼ合致する。音楽って様々な接し方が、ライブが基本はふまえ、録音音源(ソフト)の再生手法&聴き方も様々という話で。レコード盤(ソフト)と再生機器(ハード)との年代を合わせるのもその一つ(製造&流通していた時期を合わせる)。音質&再現性はともかくも、当時の庶民が日常的に接していた音に興味があれば。

(私は、特にそこ、当時の普通=庶民感覚が知りたいんです)

留意は、およそ100年前のソフトとハード、経年&使用による劣化が(当時は新譜、よりクリアな音)。そこなのだけれど、蓄音機本体は基本的に頑丈、ところが状態の良いシェラック盤は少ない(ハードはあるがソフトがない)。そしてUPはしたけれど、直に聴くのとでは微妙に違う(録音環境がプアなのと、SNSにUPな時点で自動的に圧縮される)。SP盤&蓄音機の独特な"趣"は体験してみないとわからないと思う、もしもチャンスがあれば様々な機種で直に聴くのがベスト。

まあタイムスリップでもしない限りは当時の舞台を観ることは不可能であり、せめてレコードは当時ママに近い環境でという戦術でも。それと、もう観れない&観ていないから、却って、聴き入る、想像を掻き立てられることも。