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二村定一と色川武大のジャズ

日本初のジャズのレコード

色川武大著「唄えば天国ジャズソング」の第3章は「アラビアの唄」。この章では国内ジャズ・レコード歌手の元祖とみなされる存在でもある、ボードビルの二村定一がフィーチャーされている。幼少の色川武大と晩年の二村定一には親交が、詳しくは「怪しい来客簿」を参照されたし(他の随筆でも、折にふれて二村定一の逸話が紹介されている)。ボードビリアンとしての二村定一論では色川武大による考察を超えるものはないだろう(音楽的に体系的な解説では、瀬川昌久著「舶来音楽芸能史」などに詳しい)。

では「唄えば天国ジャズソング」から「アラビヤの唄(Sing Me a Song of Araby)」。1928年の録音SP盤("50460")、蓄音機で。

そして「青空(My Blue Heaven)」。同SP盤(片面が「アラビヤの唄」もう片面が「青空」)、蓄音機で。

この二曲、実は一関での通夜で流された。これは訃報に、かけつけた樋口修吉(作家)が追悼文で明かしている。

(その通夜では、SP盤かは不明だが、80年代の話であり、ヴァイナルまたカセットテープであっても、ルーツは、この1928年版の音源となるはず)

最後に1928年の「君恋し」、SP盤("50559")と蓄音機で。

そもそもは大正後期、佐々紅華作詞作曲による作品。そのオリジナルを基に、昭和初頭、時雨音羽による新たな歌詞と、井田一郎によるフォックストロットのアレンジ(ダンス用ジャズ)によりリバイバルされた。この曲が国産ジャズのレコードでは初(国会図書館のデータは1928年12月)。先の「青空(1928年10月)」など、それまでは洋楽ジャズの日本化、対してこの曲は、邦楽のジャズ化=日本人による日本のジャズのレコード第1号。つまり二村定一は、洋楽アレンジのジャズレコードの元祖であるのと重ねて、邦楽アレンジのジャズレコードの元祖でもある。そしてこのジャズ版「君恋し」のヒットが二村定一の人気を不動のものとしたそうだ。

不世出の無頼漢

色川武大またの名を阿佐田哲也、1929年(昭和4年3月)-1989年(平成元年4月10日10時半、一関にて急逝)、享年60歳。泉鏡花文学賞&直木賞&川端康成文学賞など数多の受賞歴がある作家としての反面、元博徒であり、最後の無頼派とも云われる。その作品を読んでいただければわかるだろう、まさに不世出の人物であった。

アウトローな面を称えるものでなく、なんといっても洞察力が鋭い、否、怖い(その作品を読んでいて、ふと、漠然とした不安に駆られたことが、それは読み手側=私の内面までも見透かされているような感覚があったのだ)。幼少から鉄火場に出入り、たとえ末席でも、鎬を削るかのような場で得た眼力でもあるのだろが、数多のステージ(観劇&アーティスト観察)で鍛えられた面も大きいのではないか。ちなみに博徒として、19-20才当時、関東エリアのランキングでは7-8位とのこと。ケツ持ちのない一青年がランクINすること自体が異例だった由。

芸能面では、曰く「1000人以上もの芸人と接してきた...云々。当時の浅草という土壌から数多の芸人が育ったと云われるが、同等に、見巧者も育てたのであり、その一人が色川武大でもあるのだろう。話は逸れる&野暮ったいことをいうと、観劇では、観客に、いっときのカタルシスを与え得るのみでなく、その内包し得る創造性をも育むという考え方がある=優れた舞台は、それを観た者のクリエイティビティをも刺激する。そこに芸術芸能の一つの意義がある(これはまあ、私の師によるテーゼなのだが)。

御大に話を戻し、そんな一人の青年が"文学的に覚醒"する様に圧倒される。そして鋭い反面、色川評ほどに優しさに満ちた作家評&作品評を他に知らない。おそらく、色川武大ほどに他のクリエーター(作家&プレーヤー)と広く深く親交があった作家は戦後では稀ではあるまいか。実際、数多の関係者が追悼の辞を述べており、その追悼文集のみでも数冊も刊行されているというのは80年代では異例だと思う。こんな作家は他にいない、時代性に鑑みても、もう出てこない。

(紹介のSP盤動画に関しては隣接権が消滅であろうと思われる、また権利が消滅もしくはJASRACまたはNexTone管理下に置かれている曲です)

第6回[戦時下の笠置シヅ子(色川武大のジャズ)]
第8回[テル・ミー (Tell Me) 色川武大のジャズ]