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小山田いくという色々と早過ぎたご当地作家の話

小諸市の郷土の偉人的な話題となるやはるか昔からしゃしゃってきたのが、島崎藤村。「ぽーにょぽーにょぽにょ魚の子〜」と歌い出しそうな名前だが、『破壊』や『夜明け前』、『千曲川のスケッチ』などで有名なので、皆様御存知。
ただ「郷土の」となると些か微妙な存在で、小諸義塾に在籍していたのは明治33〜38年までの僅か5年間。ちょーっと無理が無いか?
しかも『新生』を読んだら「藤村、おめーはダメだ」とならざるを得ない。当時の女性の地位の低さを差し引いてもお前はロリコンだ。
寧ろ藤村を小諸義塾に招聘した木村熊二の方がよほど小諸に長く暮らし、桃や苺の栽培を推奨し産業に発展させたという意味で業績は小諸に残る。
しかしいかんせん知名度が低い。

誰がより相応しいかなどという賞レースは少し下品に過ぎるのだが、島崎藤村などに比べれば、よほど郷里小諸市に根差した作家というと、小山田いくに軍配が上がる。
59年の生涯の殆どを小諸で過ごし、傑作『すくらっぷ・ブック』を執筆するなどした。
その業績はWikiを辿るのが早い。初期の数作は青春期にある若者の心理を繊細に、叙情的に、瑞々しく描いた。
そんな中でも特に『すくらっぷ・ブック』は、時代を遥かに先取りし、聖地巡礼が可能な「ご当地物」として先鞭を付けた。無論当時に観光客誘致などという下世話な目的もなく、一地方都市に過ぎなかった小諸市を舞台とするのは実験的にあり過ぎたかもしれない。
読者としての私は、この僅か二年足らずの連載漫画に強く影響され、後にご当地小諸への転勤を二つ返事で承諾し、所帯を構えて家のローンまで抱える羽目になっているのだから、決して影響は小さくない。1人の人生を変えたのは確かである。
小諸に暮らして25年になるが、唯一悔やまれるのが「いつか会えるだろう」と慢心し、終に相見えなかった事だ。
まさか59なとという若さで亡くなられるとは、思いもしなかった。残念でならない。
昨今ではアニメを元にした聖地巡礼も市民権を得て、自治体も作品も、現実と地続きという幻想を提供することでコアなファンを獲得するWin-Winの関係のプロデュース方法が定着した感もあるのだが、そうして作られた聖地がどうなるか、というのは誰でも薄々察しがつくかもしれない。
恐らくご当地ビジネス・モデルの1番の成功作と思える『ガールズ&パンツァー(茨城県大洗)』でさえも、遂に地元で展示を終了した所があるという話だし、他もおっつかっつではないだろうか。命脈は10年前後程度と見るべきか。
小諸市もこうした流行りを狙った作品『あの夏で待ってる』があるが、ここでは取り上げない。
観光誘致有りき、ではないにしてもどうにもそういう臭みが漂うご当地アニメにはお手軽な聖地需要を作り出す。別にどこでも良くない?という批判も無くはない。
じゃ『すくらっぷ・ブック』は小諸である必然性はあるのか、と問われると、実はそんなことはない。小諸が舞台でも、他の地方都市であっても、結果は同じだろう。取り替えが効かない設定ではない。
小諸市が舞台であることは、あくまでも作者に内在しており、生まれ暮らした場所であるという以上に強い意味は持っていないと思われる。通常なら架空の都市を作り出したり、○○市などと伏字にしたりするのが一般的だったが、小山田は初の連載漫画で都市名を明確にした。
これは恐らくキャラクターを動かす舞台設定にリアリティを持たせる為だったのかもしれない。小山田いくは一歩踏み込んだ表現を選んだ。何気ないかもしれないが、これはかなり画期的なことだ。読者は作品の中で懐古園を知り、千曲川を知り、芦ノ原中学を知り、妖精館を知った。
現実と地続きに舞台を設定することで、実はファンタジー、もしくはユートピアめいた中学校生活を作り上げた。
友情や恋、受験といった学生生活の描写の中で、しかしこれほど理想に満ちた前向きな学生などいるとは思えない。自分に中2の娘がいるので、これは余計にそう思う。
中学生なんて、もっと愚かで、身勝手で、利己的で、生意気だり
これは誰にでも身に覚えのあることで、恐らくはそうした現実とのギャップを埋めるためのリアリティだったのかもしれない。
そうした配慮は絵柄にも現れているのではないだろうか。
デビューとされる『五百羅漢』を見ると、どちらかといえば弟のたがみよしひさ氏に似た、劇画風の粗めのタッチであることが判る。むしろたがみ氏は兄に強い影響を受けていたのでは、と思うくらいだ。内容も含めて『五百羅漢』はたがみ氏の初期短編集『妖精紀行』の一篇だと言われても違和感がない。
それがビッグコミックスからチャンピオンに活躍の場を移してから、意図的に自身の絵柄に強烈な記号化を行っている。
『12月の唯』にはまだ以前の絵柄の雰囲気を残しつつ、続く『春雨みらーじゅ』『三角定規+1』と記号化は進み、描線も固まりつつ有る。
これは『すくらっふ・ブック』へ向けた習作と位置付けても良いかもしれない。『春雨〜』の晴ボンの描線はまだ若干不安定な細い線なのが、『スクラップ』では自信に満ちた強い描線に固まっている。
この記号化もまた、小山田氏の芦ノ原中ファンタジーを描く上で必要な変化だったはずだ。現実味の無い二頭身の晴ボンや雅一郎がバカバカしいイタズラや喧嘩をしたり、恋に悩んだりする姿は、このギャグ漫画様の記号化で生々しさから脱することが出来る。
思春期の彼らから生々しさを排除することで、彼らは性的な関係性を免れ、せいぜいキス止まりのプラトニックな関係の中で恋愛し、友情を育み、悩み、喧嘩し、和解する。
このユートピアの中に必要のない描写として性的生臭さを排除しても無理のない絵柄であり、それでもリアリティを施すための舞台設定として、実際の地方都市を舞台とする小諸、というのが私の理解するところである。
この一種歪でありながらも、言葉は悪いが「綺麗事」で終わる物語は、その理想の高さ故に、今も当時の読者の心を捉えて離さない。私達は小諸市という信州の地方都市を実在すると知りつつも、ファンタジーの“小諸市”という異郷を見させられていたのだろう。
惜しむらくは、小山田氏は以後その手法をあっさり手放してしまった。次作の『ぶるーピーター』『星のローカス』では実在から離れ、また性的な描写へも踏み込んでいる。『すくらっぷ・ブック』は、その一作で様々な試みを行ったはずたが、労作でもあったのだろう。もはや同じ世界線は顧みられることはなかった。
願望を述べれば、この金脈に作者には拘って欲しかった。とりわけ“小諸”という異郷の中で、高校生や小学生、不況にあえぐ社会人を描いた“小諸”サーガを描く世界線に触れてみたかったのたが、もはや望むべくもない。“小諸”は永遠に喪われてしまった。
故に憧れ、故に巡礼する。
私もまた“小諸”に魅せられた1人であり、遂にはここを第二の故郷とし、住み着いた。
これからも『すくらっぷ・ブック』は読者を魅了し続けることを、切に願う。

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