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北村薫著『空飛ぶ馬』を読んで溜息をつく話

なんで溜息、と問われればこれほど完璧な小説は有るのだろうか、いや無い、という嘆息である。
デビュー作には作者の全てが詰まっている、というのは多分本当であり、北村薫の諸作はこの“円紫さんと私”シリーズを以て嚆矢とする向きもあるほどだ。主に私が主張している。
主人公は大学生の“私”。
私が暮らす日常の中に散りばめられた小さな謎を、ひょんなことから出会った落語家の“円紫さん”が、スルリと解いてしまう、といった趣。
当時は綾辻行人、法月綸太郎などといった『新本格』新人作家の活躍が華やかなりし頃。人が死ぬという事象に思いつく限りのアクロバチックな理屈を捏ね回し、名探偵が「さて、と言い」関係者は快哉を叫ぶ、そんな時代。
松本清張に代表される「社会派」なる現実路線に対し、「名探偵の名推理」という浪漫の復権が現象化していった。
そんな頃に、ごくひっそりと刊行された本書。

一読措く能わず。
連作短編集の本書は“私”が出会う、少し奇妙で心の何処かに引っ掛かる針のような小さな謎の数々。
織部は斬首されたのか。
砂糖は何故執拗に投入されたのか。

それは日常の中で、不意をついて現れる小さな違和感。
その小さな違和感を感じ取る観察者の役割を“私”に与えるために、作者は私のプロフィールを非常に繊細に、緻密に、作り上げていく。
創作だろうという枠を超えて、作者の視線は“私”を慈しみ、優しく成長を見守る。ほんの少し生意気だったり、不器用だったりという血肉は、主人公の“私”を生き生きと活写していく。
当然の様に、探偵役となる“円紫さん”は、理想の父親像であり、導師であり、ミステリーの名探偵である。
実際の“私”の父親の姿というのは非常に断片的で影が薄いのだが、これは円紫さんに多くの役割を振っているので、混乱を避けるためだと考えられる。
この関係性は作者北村薫とその娘をモデルとしているのではないか、という憶測は当然あったろう。
しかし、“私”も“円紫さん”も、理想像として些か清潔に過ぎるきらいが無くもない。円紫さんには家庭があり、子供がいることが判るのだが、“私”には恋愛らしき雰囲気が匂ってくるのは、遥かシリーズ5作目『朝霧』まで待たなければならない。
6作目の『太宰治の辞書』では、もう子供が高校生、などと十数年過ぎ去っており、“私”は中年の女性になっているのだから驚く。
妄想を逞しくするのを許してもらえれば、もしかすると作者の奥さんがモデルなのではないかな、と思ったりもする。ミステリ研にいた、というのは確かなようだが、その中の1人に“私”のモデルたる奥さんがいたのではないか、と。
比較的現代的ではあるのだが、実は時代設定ははっきりとしない様な気がする。たとえば作品世界が10年くらい前の風俗であってもおかしくはない。
実は二作目『夜の蝉』の初版ハードカバーには、ちょっとだけ時代風俗が描写されていた。
「知るは楽しみなり、だな」
の、後で教師がNHKの某アナウンサーに似ていた、というような1行があったのだが、文庫版では削られている。これは1980年代に放送されていた『クイズ面白ゼミナール』のことで、鈴木健二アナに似ていた、ということだろう。しかし当時としても例えとしては少し古くはないだろうか。
単なるうっかりということもあるだろうが、それよりも実は時代背景が少しばかり昔のことであったとする方が、“私”=作者の奥様説の補強材料となる。
と、ここまで書いて念のために調べたら、初版刊行が1990年。ちと無理があるかなぁ。残念。
まぁ、妄想です。

この『私と円紫さん』シリーズは、少しばかりそうした清潔感が強く、もっと言えば下世話な描写はまず無い。
どこかお伽噺、童話めいた厳格なルールが作品全体を覆いつつ、しかしじゃあ説教臭くて詰まらないかと言ったらまるで逆で、すこぶる面白い。
それは謎解きもそうなんだけれど、円紫さんが現役の落語家であるという事と無縁ではないだろう。
「笑い」を芸として昇華した話芸の達人が、時に快刀乱麻を断つが如き名推理で鳴らす名探偵、なんてロマンチック過ぎる。
派手さは無いけれど、ちゃんと新本格なんだよね。
後の作品『冬のオペラ』で「名探偵というのは意思」などと綴ったりもするのだけれど、そういうミステリーに対する偏愛が作者の中にはしっかりと根付いており、それを端正かつ巧みな語り口と、尋常ではない文学趣味で仕上げた佳品が、この『空飛ぶ馬』というわけ。
本が好きな人なら琴線に触れない部分がない、という蘊蓄の数々や、後に『詩歌の待ち伏せ』で語られる韻文への傾倒、これで面白くない訳がない。教養と成長、推理と古典落語、そんなものを一つの作品に仕上げるなんて、人間業とは思えないよ。
物語は連作短編で5篇が語られるのだが、最後はクリスマスの夜に顕れた小さな奇跡、『空飛ぶ馬』が雪空の中を舞い幕を閉じる。
思いやりに溢れた人々の温もりに包まれ、祝福を込めた雪が全てを覆い隠すのは、とある親子の義侠心とでも言えば良いだろうか。この2人がまた、本当に落語の中の親子のようで凄く良いのだ。
当然ながら、めでたしめでたしで、幕を下ろすという寸法だ。
こんな本を読める幸せったらない。


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