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佐藤さとる著『てのひら島はどこにある』の話

例に依って、ネタバレ気にせず書き散らすので、未読の方は今すぐ戻り、私をブロックしましょう。

佐藤さとるは恐らく殆どの著作に目を通していると思う。もちろん有名なのは『コロボックルシリーズ』だとか『おばあさんのひこうき』、『赤んぼ大将シリーズ』といったところか。それらはいつか触れるかもしれない。

『てのひら島』の時代背景は恐らく戦前辺りで、『コロボックルシリーズ』の『誰も知らない小さな国』と共通する。双子のお姉ちゃんが亡くなったりする小さな挿話に戦争の事も記載されていたはずだ(うろ覚え)。
その必然性は佐藤さとる本人にあり、押し寄せる現実からファンタジーへの異世界を橋渡しできる、ギリギリの時代なのではないか、と思える。
佐藤さとるのポリシーは「幻想的な想像をあたかも現実に存在する」ように描く事、というのがあったはずで、意外とディテールを細かく描写する。そうした姿勢が現代と折り合い難いのではないだろうか。
この『てのひら島』は恐らく後の『コロボックルシリーズ』に繋がる発想の異世界を描いている。このてのひら島を主人公太郎のお母さんの寝物語という想像だけの世界から、現実世界へとリンクさせたのが『コロボックル』の世界とも思えるのだ。
よっててのひら島の住人は昆虫をモデルとした妖精風の小さな神様の姿で表現されるが、コロボックルはより現実への介入を考えて「小さな人」として表出する。
てのひら島の発端は、主人公太郎がしでかしたイタズラの罰として掌に刻まれたお仕置きの火傷の跡だ。これを力士風に記念に手形として残したものが、てのひら島ということになる。手形に残る火傷の跡は掌の中心で湖のように見える。それがてのひら島へと発展していく。
これは解説にもある話だが、もともとの着想は『井戸のある風景』という掌編から発展した物語である。
ある男女がとある場所で出会う、というだけの物語に作者は愛着を憶え、物語を膨らませていった。
タイトルからも分かるように、当初作者が描きたかったのは井戸のある谷間の風景であった。
ぽっかりと突然視界に現れた光景に目を奪われるという特別な場所への憧憬は、佐藤の代表作であるコロボックルシリーズにも登場する。もっと言えば、ファンタジー作品ではない『わんぱく天国』においては、主な舞台である安針塚そのものが物語を引っ張っていく特別な場所である。
こうした場所に共通するユートピアめいた理想の中で、主人公は特別な体験をする。
『てのひら島』の中では、それは『井戸のある風景』として物語の掉尾を飾ることになる。てのひら島で暮らす小さな神様たちはの暮らしは色濃くなる戦争の影の中で、どうしても現実に押し流されて切れ切れとなってしまう。
そしてついにヨシボウとの別れによって、完全に内向することになる。
それは太郎の中で有っても同様で、つまりはそれこそが成長ということになるのだろうが、童話として描かれた『てのひら島』が現実に押し流されてしまって果たして良いのだろうか?と作者は考えている。どこかに小さな神様が生きる余地が無いのだろうか?
ここで、作者はユートピアとして描ききれなかったてのひら島を通じてつながった小さな出会いを、微かな記憶として留めながら、改めて井戸のある風景として再登場させる。
この景色はもしかして・・・?という気付きから、眼の前の人物がかつて『てのひら島』を共有した人物だという確信へ至る描き方は、もはや一幅の絵画である。
「そうすると、もしかしたら君は、ヨシボウじゃないか?」
この再会のくだりは、実は物語の中ではちょっとした補足扱いで語られる。
そこには既にてのひら島の小さな神様たちは想い出の中だけに存在し、多くの登場人物が成長したり亡くなったり、連続性を失っているからだ。
しかし作者が描きたかった風景は、正にここにある。もっと言えば、井戸のある風景をしっくりとした結末へと導くために用意されたのが、てのひら島のエピソードなのであろう。作家の想像力というのには驚くばかりだ。
『井戸のある風景』では水道工事のためにいずれ再会を予感させて物語が終わる。
一方の『てのひら島』では、既に再会を経て、もっと言えばその再会が、太郎とヨシボウの結縁となって終わる。
幸福の予感から、幸福なその後へと変貌したのは、そこまで綿密に描写してきた『てのひら島』のその後が、やがて童話の終わりの「めでたし、めでたし」で終わることを要請したのだ、と思えてくるのである。

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