『サスペリアPART2 (完全版) 』(1975) むしろイタリアン『サイコ』
『サスペリア』(1977)とは直接の関係は無いうえに、監督のダリオ・アルジェントがサスペリアの一つ前に撮った作品。『Mr.Boo!ミスター・ブー』なんかもそうですが、昔の東宝東和は無理やりシリーズという事にするのが得意でしたね。まあ、そんなことは映画自体の評価には全く関係ないですが。
まず、リマスターされており画質が良い。テクニカラーではなくイーストマンカラーのようですが、色も綺麗に再現されています。広場に面したバーと、店内の妙にクラシカルな帽子の女性たちは、アメリカの画家エドワード・ホッパーの作品の影響というのは有名な話ですが、窓越しの店内の人の様子なども高画質で確認できます。完全版という事ですが、イタリアで公開されたものは当初から、この尺だったようです。日本で劇場公開されたのは106分程度の輸出版。言語はイタリア語。イタリア人俳優は本人のアフレコ、イタリア人以外は、たぶん別人による吹き替え。イタリア映画に慣れてる人ならまったく気になりませんが、ハリウッド作品しか観ない人は違和感を感じるかもしれません。
元々イタリアのヒッチコックと言われたアルジェント、本作品くらいまではヒッチコックの影響を強く感じます。カメラが窓から入り込んいくようなヒッチコックお得意のショットや、後にデ・パルマが多用するカメラが被写体の周りを回るような「ヴァーティゴ360度キスショット」(私が勝手に名づけました)に近い手法も見られます。次にミケランジェロ・アントニオーニの影響。視覚のトリックやデヴィッド・ヘミングスの起用は、あきらかに『欲望』の影響でしょう。デヴィッド・ヘミングスは前年公開の『ジャガーノート』の時より若々しく見える。メイクや服装で『欲望』の時の感じを出したんでしょう。そしてなんといってもフェリーニが演出した『世にも怪奇な物語』第三話の影響が強い。脚本もベルナルディーノ・ザッポーニに依頼してますしね。アルジェント単独なら「映像はともかくストーリーは(笑)」て感じですが、フェリーニ作品で知られるザッポーニとの共同脚本となれば、考察のしがいがあります。
デ・パルマとは互いに影響を受けたりしてたんでしょうか?クローネンバーグは間違いなく本作品の影響を受けているでしょう。そして、2018年のリメイク版『サスペリア』には、赤い紐など本作品のオマージュが見受けられます。
ロケは本家の『サイコ』を凌駕します。まあ、サイコはほぼユニヴァーサル・スタジオ内で撮ってるだけなので。本作品の撮影に使われた、彫像のある広場、劇場、超能力者が殺されるアパートの外観、屋敷の廃墟など、ほとんどがトリノに現存しています。
(以下、結末や核心に関する記述)
ヒッチコックのファンなら『サイコ』『三十九夜』『裏窓』『めまい』『疑惑の影』などの影響を感じるでしょう。あえて分かりにくいところで一例をあげると、序盤の超心理学会は『三十九夜』のオマージュです(三十九夜もプライム・ヴィデオで視聴可能ですので、ぜひ確認してください)。音楽も、なぜか超心理学会のシーンだけ普通にヒッチコック(バーナード・ハーマン)っぽい。主人公はジャズ音楽家という設定なので、当初は全体的にジャズっぽい音楽を使うつもりだったんじゃないかと思います。さらに超心理学会をオマージュしたのがクローネンバーグの『スキャナーズ』。本作品は、テレパシーという超常現象的な要素が殺人の動機になるのですが、実はこれもヒッチコックの『疑惑の影』の影響です。
浴室の文字が消えるところや、廃墟の壁の絵は『フェリーニのローマ』のオマージュでしょうね。
アルジェントの1984年作品『フェノミナ』は本作品の翻案と言ってもいいでしょう。本作品は、テレパシーの女性を除けば、超常現象的な要素は無く、ホラーというよりスリラーなのですが、結局のところ『サスペリア』と同じく悪母や魔女がテーマになっており、ユングの説く「グレートマザー」を、主人公が克服して成長する物語が『サスペリア』、グレートマザーと呑み込まれてしまった子供が犯人なのが本作品と言えるでしょう。
〈犯人について〉
超能力者殺しは間違いなく、カルロの母の犯行。
作家殺しと教授殺しも母の犯行と考える人が多いようです。
屋敷でマークを気絶させて屋敷に火をつけたのはカルロ。マークが屋敷に向かう前に電話を掛けたらカルロの母は自宅に居ましたね。学校でジャンナを刺したのも当然カルロでしょう。
最後のカルロの母の告白も、一連の殺人は全て彼女の犯行であるように取れます。
しかし、作家殺し、教授殺しはカルロによる犯行と考えたほうが辻褄が合う気がします。カルロの母が犯人なら、優先順位がずっと高いはずのマークについては、一回アパートへ行っただけですしね。なによりも、手口が違う。超能力者殺しと最後のマーク殺人未遂の時、カルロの母は中華包丁みたいなのを用意してきている。体力的に劣る高齢女性が殺す気満々なら凶器は用意してくるでしょう。一方、作家殺しと教授殺しは凶器ではなく、人形という小道具を用意している。作家殺しと、マークのアパートに来た時は、テープレコーダーを用意してきていましたね。マークのアパートには殺しに来たというより、脅しに来たような感じです。というか、あの声はマルコだろ?
マルコは「自分では事実と思い込んでいても、実は記憶がすり替わっていることがある」と言います。母親が父親を殺した記憶を、母親によって無理に封印されたマルコは、自分が父親を殺したという記憶にすり替わってしまったのではないでしょうか?人形は観客を脅かすためのこけおどしだけではないでしょう。学校の黒板にも首を吊った子供の絵が描かれていることから、マルコが子供時代から強い罪悪感を感じていることが伺えます。冒頭のクリスマスのシーンと終盤のカルロの母の告白では、刺すほうと刺されるほうの位置が逆だし、影の頭の形も、なんとなくカルロっぽい。冒頭のシーンはカルロの記憶なんでしょう。カルロの描いた絵も背中でなく胸を刺されている。シンプルに一連の殺人全て母親によるものという解釈より、このほうがヒッチコックっぽい。
結局、なぜ犯人は主人公の先回りが出来たのかは、
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