しかのこ(以下略)は面白いということで

前々回、私は「しかのこのこのここしたんたんは私に危険信号を送っているが嫌いにはなれない」という記事を書いた。話題になっている楽曲および映像が気に入らず忌避していたが、その作品の作者が私にとって馴染みのある人だったため、歩み寄ってよいという、どちらかといえば前向きな、私の感覚で言えばリハビリ記事となった。記事の内容は「しかのこ(ry」ではなく、作者おしおしおの過去作の方へ向かうばかりだったが、私は見てもいないのに「しかのこ」に対して好意的な気持ちをもった。これならアニメ本編を見ても良いなと思ったのだった。
思うだけではいつまでも行動しない私だから、記事を投稿してすぐさまabemaに飛んで(違法視聴してないアピール)第一話を視聴した。そこまで面白いものではなかった。冷静な気持ちで見ることができたし、一部分はとても嫌だと感じる部分もあった。とはいえ全体的に無難な出来と言ってよく、ゴミ同然だと捨てるほどでもない。Twitterで話題になっている書き込みを見ると、ニコニコ動画の機能が停止して皆で実況することができないから、面白くはない事実が浸透してないとか、これは新手の『キルミーベイベー』であってオープニングとエンディング・テーマに狂喜乱舞するだけで本編はどうでもいいとかいった意見を目にする。面白いと思うかどうかは人それぞれだが、と言うのは野暮なほど当たり前のことだ。ともかく上記のツイートが注目を集めているということは、「しかのこ~」は見かけ倒しで、言うほどでもないアニメだという思っている人が存外多かったことを示している。
ちなみに私は、このアニメと電通の関係が云々ということに関してはどうでもいいと思っている。ただ、いわゆる「一話切り」を決め込むことはほぼ確定しているだろう。アニメはせめて三話まで見なければ真価はわからないという意見もあるし、わからなくもないのだが、難解な作風でもないのになぜ最初の段階から気分を上げてこないのかという疑問もある。ギャグを主体としているならなおさらだ。「しかのこ~」を見て、面白いことをやろうとしているという意思は感じた。
私の好みの問題として、普通ならざる人物が比較的常識をもっている人間にまとわりついて、時には迷惑をかける系統の作品のことは嫌いになりやすい。この作品での常識側の人間は、「元ヤン」だという設定をもっているが、これは何度見たかわからないくらい、ありふれたものだ。鹿が云々とか、体液が奔出するとかいった奇抜な演出は表層に塗られたもので、本質的にはよくある系統の、ギャグ指向作品だというのが現状の私の結論だ。多分これからも変わらない。作者は過去作品でも体液の流れを執拗に描いていたので、自分の作風を未だに曲げていなかったことについては好感を持った。

「鹿色デイズ」についての所感

私が最初に拒否感を抱いていたオープニング曲については、やはりイントロの印象が強いと思うばかりだった。もはやそれに尽きると思っている。エンディング曲に関しては何も記憶していない。
こういう、人が好むかどうかはともかく、やけに押しつけがましい曲調というのは昔からあるもので、私はシャーリー・エリスの「The Name Game」という曲を連想した。

私は感性が古い人間だからか、インパクトのあるフレーズがあるならば、いっそそれ一本で押し通した方が良いのではないかと思ってしまう。妙に変化をつけると、結果として散漫な印象になりかねないと思う。どうせ人は楽曲をはじめの方しか聴いていないのだ。アニメ「しかのこ~」のオープニング曲「鹿色デイズ」は印象的な「しかのこのこのここしたんたん」の呪文を唱え終えると、あとは割と普通の曲調に繋がっていったと記憶している。私としては、先の「The Name Game」のように同じリズムで曲を展開させていけば、イントロの要素が持続していったのではないかと考えている。私は「鹿色デイズ」をまともに曲を聴き込んでもいないのに、こんなことを言っている。何にしてもイントロの出来に関しては大成功だというのは、誰もが認めることだろう。

このアニメがつまらない

このアニメのジャンルはギャグですと言われると、私は身構える。経験上、その手のアニメが面白かったことがあまりないからだ。テンポが悪かったり、そもそも言ってることがつまらなかったりと理由はいろいろあるが、どれも生ぬるすぎて、しまいには不快になることもある。

私のさほど充実していないアニメ遍歴の中で、今も燦然と輝くつまらないアニメといえば「女子高生の無駄づかい」だ。第一話のすさまじい完成度に完膚なきまで打ちのめされ、半分まで見る頃にはほとんど意識が朦朧としており、結局最終話まで見ることができなかった。どうやらこの作品は、ギャグを装ってはいるが、必ずしもそれだけで構成されているわけでもないようで、人情方面に比重を増していったらしいが、とてもそこまで楽しむ余裕は私になかった。
とにかく第一話の印象だけは強いので、憶えている限りを記そう。まず主要な登場人物が三人いて、はじめて会話を交わす場面があるのだが、いきなりまくしたてられるギャグからして意味不明なものだった。面白いことをしようとしていることは伝わったのだが、どう反応して良いのかわからなかったのだ。漫才やコントにおいて、観客の関心を引き寄せる最初の場面のことを「掴み」と言うが、これに失敗した感があった。
次の山場となるのが、男性教師の第一声だった。教師は眼前の机を並べている女子高生に向かって、「俺は女子大生派である」と宣言する。確かに強烈で、普通ではない挨拶だ。ところがその後の教師の語りは、女子高生相手は犯罪だが女子大生なら問題ないという、一応筋の通ったもので、これは全然ギャグではない。これが形式上ギャグに見えたのは、演出が最低限そうなっているからだ。これが爆笑ものなら、今私が書いている文章だって抑揚を込めて発せば一丁あがりだ。
いきなり男性教師から奇妙なことを大声で言われた生徒たちは、ひそひそと「駄目だ……」「駄目だ……」と落胆する。そうしてカメラが主要人物のうちの一人にズームしていき、さあオチとして彼女は何を言うのかと観客は待ち構えるのだが、彼女が言ったのは「この人、駄目だ」だから、どうしようもない。なぜ言葉の新規性を考えなかったのだろう。
その後も、延々と面白いことを意図した会話が繰り広げられたのだが、私は最初の一切の手応えのないギャグに、心が荒涼としていてまともに受け止めることができなかった。登場人物の一人の言動があまりにしつこくて嫌気が差したことだけは確かだ。どうも私は、創作でも現実でもしつこい奴が嫌いなようだ。「キルミーベイベー」の美点は、しつこい奴に値するやすなが、相方のソーニャの暴力によって必ず封殺されるからだ。「キルミーベイベー」の原作・アニメを観ていて不快にならないのは、しっかりと溜飲がさがるからだ。
「女子高生の無駄づかい」は声優がベテラン揃いであることから、「女性声優の無駄づかい」とも呼称されていたが、声優に詳しくない私にとっては価値がわからない。声優の芸歴に頼らなければならない時点で、純粋に作品の内容で勝負できないことを認めてはいるのではないかとすら思う。

「女子高生の無駄づかい」と同時期に放送されていたアニメでは、「三ツ星カラーズ」もかなりつまらない部類だった。もうほとんど覚えていないが、第一話が中盤まで差し掛かり、これはいつ面白くなるのだろうかと思ったことだけは記憶している。この作品に関しては、批判する者を問答無用でハゲ扱いすることができる魔法が適用されていたから、制作サイドにとっては都合が良かっただろう。ただ私の記憶だと、後半になるとまともになっていったはずだ。だらけているアニメも最後まで見ると慣れるということだったのかもしれない。

あまりに酷いという点で、「女子高生の無駄づかい」に比肩し、「三ツ星カラーズ」に勝っていたのは「まちカドまぞく」第二期の第一話だった。私は「まちカドまぞく」をそれなりに良作と思っていて、単行本も全巻初版で盛っているくらいなので、本当は悪く書きたくはない。第二期の第一話も概ね問題はないのだが、牛肉の存在感を効果音(人の声)つきで何度も強調した場面には大変閉口した。貧しい暮らしを送っている主人公、優子にとって牛肉はとても貴重だからという意味で、「バーン」なる声が挿入されるのだが、これは特に気の利いた効果を発揮していなかったと思う。それなのに何度も「バーン」と繰り返すから、つまらないを通し越して怒りすら湧いたほどだ。「まちカドまぞく」Blu-ray・DVDの発売を知らせるCMでも「バーン」は使用されていて、制作陣はよっぽど気に入っていたらしい。その意図をくみ取った視聴者は、ニコニコ大百科で記事をつくったほど、盛り上がる演出ではあったらしい。
とてもそこまで祭り上げるものではないと思った私は、あの牛肉のシーンの何が良くなかったのか考えることにした。当時の私が考えた説は以下の通りだ。

・擬音で笑いをとるのは程度が低すぎる。
・「バーン」という効果音はありきたりで工夫がない。
・その安易な表現を繰り返しすぎ。
・「バーン」の声は、音量的にも音域的にも調和がとれていない。
・原作では「バーン」を一度しか使っていない。

「まちカドまぞく」で見られるギャグは、擬音に頼るばかりの単調なものではない。一応あったにはあったはずだが、それらの擬音の声は女性によるものだったはずで、ざっくりと分類すれば美少女アニメであるこの作品に適合していた。その常識を破っていきなり男性の声で意表を突くことで、面白いものになる可能性があるにしても、それが「バーン」とはあまりに普通だ。ましてや何度も繰り返すものではない。結果として、ただ馴染みのない面白くないものができあがるだけだ。原作では、当然音のない「バーン」という文字が牛肉の真上に付け足されているだけで、その効果音をしつこく繰り返そうという意思は作者になかった。作者はそれが特に面白いものにはならないことを勘でわかっていたのだろう。その点で、原作は優っている。アニメで余計なことをして、誰も止めなかったのは、第二期がめでたく放送されることで舞い上がってでもいたのだろうか。
「バーン」という演出はとても酷かったが、それ一つで作品を嫌いになるつもりはなく、その後もアニメを見続けることにした。しかし、作品全体を支配する面白い風な言い回し、演出がだんだん気に障ってきて、結局見るのをやめてしまった。アニメを観続けるかどうかは、私の問題なのだが、第一話の「バーン」が心に負担をかけたことは確実だ。「まちカドまぞく」の、いくら深刻な展開になっても、どこか明るい調子を失わないところは、大変優れているので、その精神だけは失わないでいてほしいものだ。

あれがつまらない、これもつまらないと宣う私は、どのアニメならギャグが面白いと思ったか。「ポプテピピック」は最初は面白かった。「あそびあそばせ」は勢いをほぼ失わず面白いものが演出できていた。「斉木楠雄のψ難」はかなり良かった。「ヒナまつり」はつまらないところは酷かったが良いところもあった。「かぐや様は告らせたい」も大体同じ。「ちおちゃんの通学路」は「三ツ星カラーズ」より少し上。どれも同時期に放送されていたアニメばかりで、私がいかにアニメ鑑賞者として引退しているかを物語っている。

笑いの判定は何が由来か

「あのアニメのこの部分は酷かった」という指摘は、充分に賛同を集めるかというと、私は全然期待していない。どのアニメも相応に好評を博している。私が何より一番に酷いと言った「女子高生の無駄づかい」だって、検索すれば絶賛の声ばかりだ。面白くないと思っていた人間もいただろうし、実際にそういう意見もあるにはあるのだが、そうしたことはわざわざ書くほどのことではない。つまらないならさっさと切って、執着しなければ良いのだ。私だって、今こうして書いたのが初めてのことで、あちこち駆け巡って酷評したわけではない。
なぜ上記の作品が好評を博しているのかといえば単純で、面白いと感じる人がいたからだ。私が心底つまらないと思ったシーンで笑った人間がたくさんいるということだ。だから「まちカドまぞく」は牛肉一つで記事が作られて、失望する者は少なく、今もそれなりに人気がある。私はつまらないと感じるが、面白いと感じる人もいる。当然のことではあるが、この差はどこからくるのだろうか。

私が対象のものをつまらないと断じる上で基準にしているのは、プロの笑いの世界で、上に紹介したシーンをそのままお笑い番組に転用したら絶対に白けるだろうという確信があるからだ。お笑いの世界にもまったく面白くない人間がいて、どういうわけかテレビで一瞬もてはやされることがあるから、結局のところ断言はできないのだが、やはりアニメで演じられる笑いは上質なものとして扱われないだろう。しかし、このお笑いの世界に当てはめようとする癖とは、果たして正しいものだろうか。私はここでお笑いの世界を疑っている。疑って、否定もすることで、アニメで描かれたギャグは肯定され、それを面白いと思ったアニメ・ファンも否定されることはなくなるのではないか。やがては「しかのこのこのここしたんたん」も面白いアニメとして評価は確定するのではないか。こういう期待を込めている。ということで次回に続く。(2024年8月12日追記:というのは嘘で、未だに続きを書いていない。書く気はあるので、投稿できたらURLを埋め込む予定でいる)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?