しかのこのこのここしたんたんは私に危険信号を出しているが嫌いにはなれない

「逆張り」という言葉を頻繁に見かけるようになったのは、2016年頃からではないかと感じている。本来は証券用語らしいし、近年の使われ方がいつ始まったのかという検証はこの際どうでもいいとして、私は最近、己に宿る「逆張り」精神をそこまで意識しないようになっている。まず私は「逆張り」という言葉が日常的に用いられる前からインターネット人間だった。十年前のインターネッツは、基本が「逆張り」だったから、わざわざ俺は天邪鬼で、人とは反対のことを言っているんだと言う必要がなかった。これは当時の私の精神が特別ねじまがっていたから、見えるインターネットの光景もそうなっていただけなのかもしれない。とはいえ昔のインターネッツが、やたらと新参に厳しく、まっすぐな精神でいる限り棲みつくことができない環境だったことは確かだと思う。私は私で屈折していたし、インターネッツの連中はもっと陰湿だった。素養と環境がかけあわさって、私は純真の逆張り人間になったと言える。では実際に「逆張り」という言葉が浸透した時代になり、ようやく私の時代が到来したと思ったかというと、そうではない。「逆張り」という言葉が台頭するとともに、インターネッツはだんだんと卑屈な精神がカジュアルなものになっていったように感じる。昔のネット教育によって「こんな俺達こそ最高」という気分を保持したままの私には、素直に住みやすいとは言えなくなった。私は無理して「逆張り」をやっているのではなくて、己の感性のまま選んでいるだけだ。結果として自分が少数派になっても構わない。
こういう気分で生きてゆこうと決めると、私の中の世間に抗う精神もいくらか和らいでいき、寛容な人間になれた気がする。一般に「逆張り」というのは、多数派が好むもの、選ぶものに対して異を唱えるという思想だろう。私の場合、ただ自分の感性に任せているので、多数派側に混じることになっても問題ではない。言い方次第では、逆張りの逆張りで結局表になった形かもしれない。もちろん私は、そんなつもりではない。それなりに長く生きることによって、私は少しずつ丸くなり、素直な性質になったのだと考えている。

私は何をもってして逆張りをしない素直な人になったと主張しているのかというと、例えば『葬送のフリーレン』の人気が気に喰わないなんて気分にならなかったことが挙げられる。他の例がちょっと思い出せないので、当分これ一つで戦わなければならないのが心もとないが、TVアニメ『葬送のフリーレン』をabema無料配信期間内に全話見たことは紛れもない事実であり、私の脱・逆張り精神を象徴する出来事となった。
最近、知り合った人間がアニメ鑑賞が趣味であることを公言しており、私はとある事情で警戒しているのだが、その彼から「(欄干代表は)アニメを見るか」と訊かれた。私が即座に「全然見ない」と答えると話はそこで終わった。私がアニメを見ないと言うのは間違いではない。昔ならともかく、今の私はアニメ鑑賞が特に好きではないことに気づいたので、積極的に見ることをしていないのだ。誰もがアニメを見てもおかしくなく、オタクという言葉が乱用される(何を趣味としているからなのか、ただ変人なだけなのかの定義や感覚が人によって異なる)時代になった今、「アニメを見ている」と公言するからには、それなりの情熱がなければならないと考えている私は、とてもじゃないがアニメ鑑賞が趣味だと言えない。これは私の美学の問題であって、反論されても動じない。こんな人間でも、生息地がツイッター・ランドだからアニメの話題は毎日飛び交う。そうした環境で、今話題のアニメや漫画を前にして不快に思うかどうかは重要な問題で、もちろん受け入れる気持ちでいた方が楽に決まっている。リコリス・リコイルもなんとなく好きでいるし、推しの子は奇怪なものを感じるがそれ以上は何も思わないし、水星の魔女もブルーロックも薬屋のひとりごともダンジョン飯も大変結構だ。何より、葬送のフリーレンを全話見た(倍速もしていない)。ところでこれらのアニメは全部放送終了している。時代はどんどん先に進む中で、どんなアニメが話題になっているのだろうか。

警戒のはじまり

『しかのこのこのここしたんたん』は私の中で非常に扱いが難しい作品で、私の気分が今後どこに傾くかまるで分からない不穏なものと化している。この作品といえば、やはりあの奇妙な楽曲で、それを聴いたのは六月以前のことだと思う。私は最近てっきり今放送されているアニメだと思っていたが、七月になって始まったばかりだ。ということは前評判にして異様な盛り上がりを見せていたことになる。
私が最初に例の「しかのこのこのここしたんたん」を耳にしたのはYouTubeで、それも本家ではなく既にあちこちで作られていたパロディーの一つだった。『しかのこのこのここしたんたん』の例の映像は、鹿を前に少女が奇妙な踊りを見せているものだが、その少女が任意の誰かに置き換えられて描かれているのだ。あるいは鹿までが別の誰かに代わっていることも珍しくない。私は熱心なアニメ鑑賞者ではないが、VTuber鑑賞者であることは間違いないので、誰かしら有名なVTuberタレントの「しかのこ」パロディーを見たのが最初なのは確かだ(作ったのはタレント本人ではなく、ファンによるものだろう)。
映像と音声を見た私は、一瞬奇妙で面白いと思ったが、すぐに別の感情が兆して、これはまずいと思った。率直に言えば「嫌い」の方面へ、ものすごい勢いで走る意識を感じたのだ。その時は、その映像の元ネタが何か知らなかったので、少し不気味な夢を見た後のような気持ちでやり過ごすことができた。しかしその後の流れは誰もがご存知のように、あちこちで「しかのこ」パロディー・イラスト/ムーヴィーが流れるようになった。どうもこれは当分続くムーヴメントで、私は身構えなければならないようだと覚悟する日が来るのは早かった。それからというもの、鹿(あるいは人間)の前で変な動きを見せているイラストを見る度に、素早く視界から消す作業を続ける日が来た。ある日ツイッターのスペース機能で通話したら、爆音で焼きそばを食べ、爆音で歯磨きをする異常な女性と同席することになり、その人が脈絡もなく「しかのこのこのここしたんたん」と繰り返した時は勘弁してくれと思ったものだ。やはり私の「逆張り」は筋金入りなのか。いやまだ待って欲しい。
なぜ私は「しかのこのこのここしたんたん」を警戒しなければならないのか。理由を考えればいくらでも書けるだろうが、やはり「中毒性」というものが一つの方向に傾いたのは重要な要素だ。あの音楽の、押しつけがましさというか、人の胸奥に勝手に入ってくるあの感じは何だろう。この表現は私なりのもので、要するにとても強い印象を人に与えるものだということだ。音楽においてこれは重要な要素で、何かしらフックとなる部分がなければ聴く人からの反応を得ることは難しい。だから「しかのこのこのここしたんたん」は楽曲としては大成功だと言わなければならない。嫌悪を買うことも成功の一つだ。

和解、そして再会

このように私は「しかのこのこのここしたんたん」を遠ざけようと必死でいたが、雪解けはあっさりしていた。問題の『しかのこのこのここしたんたん』の作者が「おしおしお」であることを知ったのだった。なんだ、おしおしおか。だったら仕方がない。急に許せる気持ちになった。なぜ作者が誰かわかっただけで気分が鎮まるのかといえば、私はおしおしおという漫画家/イラストレーターのことをそれなりに知っていたからだ。
まずおしおしおは天音かなたというVTuberの生みの親だ。天音かなたのファンからは「おしおママ」と呼ばれている。天音かなたは所謂「貧乳キャラ」として有名で、かなたが隙あらば自分を巨乳にして見せてご満悦でいる度に、おしおママから苦情が入るという劇場が演じられるのは恒例行事と言うべきだろう。私は貧乳いじりみたいなものがあまり好きではない(飽きた&すべては素晴らしいの精神)のでこれ以上語りたくないが、とにかく天音かなたについて深く語るなら、「おしおママ」の存在を避けて通ることはできないことさえ伝わればそれで良い。私が天音かなたを最初に見かけたのは2020年か21年で、その時は所謂「ママ」が誰か知らなかった。知った時は驚いたものだ。さらに不可解に思ったのは、ファンの間での「おしおママ」の扱いが割と穏当なものだったということだ。先述の通り、天音かなたの巨乳ネタが始まると、おしおしおがホロライブの所有する27億円のスタジオを破壊するぞという脅しを入れたいうエピソードから、脅威の存在として認識されることはあっても、それはあくまでも茶番の一つだ。それにしても、自分の記憶する「おしおしお」は、かなり頭のおかしい存在だったはずではなかったか。

私がおしおしおに異常性を見てしまったのは、『神様とクインテット』という漫画を読んだためだ。これはおしおしおが2014年から2016年にかけて連載していた漫画で、単行本が二巻出ている。これがもうとんでもない内容の漫画で、はっきり言って狂気の沙汰だった。だから、VTuberファンから見たおしおしおの、天音かなたという可愛らしいVTuberの可愛らしいママという扱いに我慢ならなかった。あいつはかなりヤバいぞと一人叫んでいたようなものだ。

そんな狂気に満ちていたはずの『神様のクインテット』について思い起こしたが、驚くことにどのような内容だったか記憶がごっそり抜け落ちている。あまりの衝撃的な内容だったため、脳に傷が入っているのかもしれない。私が記憶しているのは、「登場人物の一人の頭の中が炊飯器になっていて、そこにカブトムシの幼虫を放り込んだ」シーンだけだ。これは一体なにを意味していたのだろう。私は頭を抱えている。これは記憶違いではなく、2016年の冬、親友を家にあがらせて「こんな漫画があるぞ」と雑誌を読ませたことがある。絵を見て苦笑していた親友の顔を私は忘れない。それにしても先述のシーンの説明は意味不明だ。もしかすると複雑な伏線があっての納得の展開だったのに、私がすっかり忘れているだけかもしれない。
私は事の究明のために、単行本を探した。最終巻(第二巻)が出たのは2017年1月で、信じがたいくらい昔のことになっている。私は滝の汗を流しながら単行本二冊を探し当てた。本棚をかいくぐっても見つからず、最終的にすぐ隣にあったから何という不毛だっただろう。

私はこれから『神様とクインテット』を再読する。そしてこの漫画がいかなる物語であったかを確認する。これは懐かしい思い出に触れるためでもあるし、今後の処世術のためでもある。当分は「しかのこのこのここしたんたん」という呪文と、嫌でも向き合わなければならないのだ。多少の免疫をつけておかなければ危険だ。それにもしかすると、私は『しかのこのこのここしたんたん』を笑顔で受け入れることができるようになるかもしれない。その薬として『神様とクインテット』が機能してくれるかもしれないではないか。

絶賛品切れ中。

第一巻

まず重大な点として、『神様とクインテット』は美術大学を舞台としていた。私は土台となる部分すら忘れていた。
主人公の名前は日下部うららという。苦労して鈴ケ谷美術大学に入学するも、友達がいないという問題に直面する。ド田舎育ちで、自分以外に生徒がいない学校に通い続けていたうららにとって、友達をつくるという行為は虚構だった。そんなうららも、教室で隣り合わせになった烏口あかねと知り合うことで、一気に友人が増えることになる。あかねの姉かえでは大学の教諭を務めており、あかねら友人はかえでの研究室を遊び場としていたのだった。研究室の通称は「かねけん」。
かねけんに入り浸る仲間たちは四人いる。常に威勢がよく、すぐに腹を空かせて大食に走る烏口あかね。八歳にして天才芸術家としての名声を得ており、日々闇落ちしたモアイ像みたいな作品を造っている梅皿(うめざら)こもも。四浪したため一年生でありながら既に22歳の溝引(みぞびき)トーコ。一見おしとやかだが女性同士の友情やトーコを観察することに激しく興奮を催す薄墨りん。これに日下部うららが加わった。
既に登場人物が特殊であることがわかる。ただしこういう設定は、むしろありふれたものと言うべきだろう。主人公というのは気が弱いに決まっているし、それを導く相方はやたらと元気が良く、健啖家だ。これは『ひだまりスケッチ』のゆのと宮子の関係と同じだ。いきなり幼女が出てくるのも普通のことで、天才という扱いを受けているのもよくあることだ。ここまでは『ひなこのーと』とだいたい同じ関係性だ。「クレイジーサイコレズ」という言葉があったように、無暗に同性のいきすぎた友情に執着する者がいるのも、この世界ではまったく珍しくない。その役割を担った薄墨りんの姿は『きんいろモザイク』の大宮忍(シノ)に酷似している。『神様とクインテット』が連載されていた2015年当時は『きんいろモザイク』全盛期で、同年春にテレビアニメ第二期が放送されていた。新キャラなのに別作品の誰かに似ているという現象も結構あることだ。このように『神様とクインテット』で最初に提示される人物や設定、関係性は、2015年当時の所謂「日常系」なるジャンルにおいては極めてオーソドックスなものだったことを理解すべきだ。さすがに浪人の設定はないだろうと思ったが『スロウスタート』があった。他にも類似する例は思いつくのだが、知名度が下がってくるし、キリがないのでやめる。
この手の作品で舞台が大学というのは少し珍しい。美術を題材にしているから大学の方が自由に描けるのと、高校を舞台にすると『ひだまりスケッチ』という偉大なる先達がいるからといった理由があったのだろう。『こみっくがーるず』が先に連載されていたことも多少関係があるかもしれない。

新入りのうららを歓迎するためのパーティーを、うらら宅で開くことになった。うらら宅へ入ると、驚くことに鹿が登場する。うららの父はマタギで、東京の大学へ行く娘が寂しくないようにと送った鹿の剥製なのだった。普通の人の家にはないものだから、トーコは衝撃を受けるのだが、2024年を生きる私からすると『しかのこのこのここしたんたん』の作者が2015年にして既に鹿を描いていたことに重大なものを感じる。作者にとって、鹿とは創作の源泉であり、主題の一つなのだろうか。作中でわかるのは、うららが田舎育ちで自然と触れ合う機会に恵まれていたため、野生動物とコミュニケーションをとることが可能だということだ。仲間で山登りをした際、巨大な熊に遭遇したがうららが対話を図ることで、最終的に熊とともに集合写真を撮ることができた(写真撮影をもちかけたのは熊)。このようにおしお作品は、自然との調和が目指されているのだ。
『神様とクインテット』における、生の躍動は主に「体液」によって表現されている。連載開始当初では、あかねが空腹により極めて大きな腹の鳴る音をたてる程度で、それはあかねが食いしん坊キャラだからということで済んでいたが、次第に別のキャラクターまでが爆音をたてることになり、普遍的生理現象だということが示された。また、うららは初期の段階から感動の涙を滝のごとく流している。これは孤独な自分が仲間として受け入れられたことの感動を誇張した表現であるかに見えたが、次第に唾液や鼻水、血液まで大量に流すようになり、一過性のものではなくなった。こももが彫刻のために使用していたヘラがうららの頭に刺さった時も、多量出血している。『神様とクインテット』において流血は重要な要素だ。薄墨りんの女性の挙止動作に興奮する習性は、鼻血によって表現され、欲情する対象も主にトーコに一点集中することになる。クレイジーサイコレズには主に二つの種があり、欲求をなりふり構わず無差別に周囲の女性に放つタイプと、特定の誰かに異常な執着を向けるタイプとがある。りんの場合は連載が進行するにつれて急速に後者に傾いていった。
第一話の時点ではかろうじて控えめだった表現も、次第に過激なものになっていった。しばらく様子見していたのだろうが、読者からのアンケートも悪くなかったのだろう、安心して過剰な路線を突き進むことになった。無理もないことで、もし『神様のクインテット』から体液の噴出を除いたら、平凡な美少女漫画になりかねない。差別化のためにも彼女達の出血は避けられなかった。この漫画の興味深いところは、一度出血したらその回では最後まで血まみれになっていることだ。流した血は服や地に染み通る。それは一時的な表現ではなく、いつまでも血に汚れているのだから、作者の態度は真摯だ。多分、この漫画で髪を切るのに失敗する回があったら、次回になっても変な髪型が維持されていたことだろう。

第二巻

『神様とクインテット』に欠けているのは、物語性ではないかと思う。これは何がどうなってそうなのかといった説明が希薄なのだ。例えば、トーコが四浪して大学に入ったことは作中でしつこく繰り返されるトピックだが、なぜ何度も受験に失敗しているのかという説明は連載中に一度もなされなかった。単行本第二巻の刊行の際に、描き下ろしとして簡単に原因が描かれはしたが、本編には関係していないも同然だ。りんがトーコに執心するようになった理由もわからない。個性豊かな人達が仲間として集まるようになったきっかけもわからない。
所謂「日常系」なる作品には中身がないという言説をよく見かけるが、そんなことはない。激しい物語展開があまりないというだけで、登場人物の背景や出会うきっかけやその後の過程はしつこく描かれることがほとんどだ。起伏の少ない物語に耐えられるかどうかという読者の問題に過ぎない。『神様とクインテット』が異常に映るのは、過剰な表現もそうだが、すべての事が唐突に始まっているからだ。ここまで荒唐無稽な展開を繰り返すのは、どちらかというと少数派になる。私はそのことで「物語性が欠けている」と書いたが、それは悪い意味で考えているのではない。
そんな漫画に脈絡があるとすれば、私が気になっている「登場人物の一人の頭の中が炊飯器になっていて、そこにカブトムシの幼虫を放り込」むようになるまでの過程だ。真相は第二巻になってから一気に解明される。第一巻で、登場人物が平気で流血するのはその後の展開の伏線だったのだ。
はじまりは、トーコが捨て猫を飼ったことに始まる。近くにいると呪われそうな見た目をした猫だが、そんなことを気にする人達ではないので全員で可愛がる。天才幼女こももまで猫を愛でる。ここまで重要じゃないと思っていたので書かなかったが、こももには相棒の犬・おすしがいて、いつもこももの頭に乗っている。しかし、こももがおすしを降ろして猫を頭に乗せだすから、おすしは嫉妬に狂い騒ぐ。反抗的な態度にこももも激昂し、両者は喧嘩別れとなった。とはいえ長年肝胆相照らした絆が忘れられるわけもなく、両者は喪失感に苦しむ。おすしは荒れに荒れ、うららの頭を掘ることになる。中身が飛び散ることに動揺するうららだったが、こももの代わりとして自分の頭が機能しているのだと冷静にもなっている。その場をともにしていたあかねが、自分の頭にもおすしを乗せようとする。ここで発覚したのは、おすしの体重はすさまじく重いことで、頭に乗せた途端、あかねの頭は著しく凹んでしまった。実は私が記憶している、「炊飯器機能を搭載した登場人物」とはあかねのことで、原因はここにあったのだ。あかねは、空洞化した自分の頭部を炊飯器として利用するようになり、非常食として役立ったようだ。蓋の機能までついているから便利に変形したものだ。
その後も研究室が爆破したり、うららが餓死しかけたり、りんに勝るとも劣らない女性へ執着を起こす高校三年生の水張(みずばり)はるが乱入したりといろいろあった。そうした楽しい日々が続いて訪れた初春、うららが突然実家に戻ることを伝える。ずっと帰らないとまで言う。突然のしらせに、あかねは動揺する。まだ行きたいところ、やりたいことがあったではないか。しかし、うららは去年の夏から思案していたことであり、最終的には彼女達もうららの意思を尊重し見送る覚悟ができた。それに、うららは書き置きを残しており、それはうららの故郷であるド田舎の住所だった。こういう風に物語のトーンがダウンした時は、最終回が近いことの証拠だ。
東京から飛行機で七時間、空港から車で八時間かけ、あかね、りん、トーコ、こももの四人はうららの故郷を訪れた。実はうららの「実家に戻る」とは一時的な帰省で、「ずっと帰らない」というのも春休みの間はずっと田舎に居るという意味のことでしかなかった。りんもこももは当初から察していたそうだが別にそれを言わなかったし、一番動揺していたあかねも真相を知っていてわざわざ葛藤していたというから、よくわからない。
せっかくなので、うららの故郷を知ろうと、うららの案内で外を出歩く一行だが、遭難した。雪が降り積もる環境に食べるものはない。しかたがないので、あかねは食料を求めてカブトムシの幼虫を掘り起こした。これは極限状態に陥った時のためにと、己の空洞化した頭の中に放り込んだ。それで遭難が解決するわけはないので、皆で木造建築をつくり、火を起こし、衣服をしこみ、狩りをし、温泉を掘り、普通に快適な暮らしを実現させた。悠々自適な暮らしに時間を忘れていたが、ふと新学期が近いことに気づいた彼女たちは、野生に近い状態から無理矢理東京へ戻り、なんとか学校に間に合った。全身血まみれだが、無事生還はできている。するとあかねの頭の中がなにやらうるさい。蓋を開けると、あの時のカブトムシの幼虫がヘラクレスオオカブトとなっていた。おしおしお、堂々のデビュー作の完結だ。なぜ題名が『神様とクインテット』なのだろう。

結論

いかがだっただろうか。私としては、唯一記憶していた「炊飯器と化した頭」と「カブトムシ」がどういう流れで出てきたのかが分かって満足している。それにしても本当に何も記憶していなかった。よく優れた作品に対して、記憶をなくしてもう一度見たいという言い方をするが、私はそれを可能とした。
問題は、今後の私が『しかのこのこのここしたんたん』を正常な気持ちで受け入れ、見ることができるのかということだ。今回『神様とクインテット』を再読して、それなりにアニメ化作品と共通するものがあると察知することができた。多分、自分の中のわだかまりは溶けたように思う。とりあえず言えるのは、私は「男」と「漢」なら、もちろん後者を選ぶということだ。

後者のLittle V氏は見ていて潔いものを感じる。前者のしょぴくん氏も違う意味で潔いとも言えるのだが。なんにしても私は、例の音楽にハマっているといえばハマっていると思う。



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