私と親友とひなこのーと
「ひなこのーと」の作者、三月がおかしいということは何年も前から知っている。「ひなこのーと」の連載が終了してからも、作者は登場人物を描き続けた。それ自体は、自分の作品を愛しているように見えて印象は良い。ただし、作者は明らかにセクシュアルな方向に向かっていた。Twitterのタイムラインを眺めていると、作者本人による「ひなこのーと」のエロ画像が流れてきて、こんな始末になっているのかと私は嘆息するのだった。そのイラストをリツイートした人もまた、素直に欲情するわけもなく非難することもなく、連載終了後に暴れ出した作者の胆力について触れるしかないのだった。そんな我々の反応は、畏怖に近い。
連載終了後に作者が、その作品のエロ同人を描くという事例は、これまでに何度かある。「手品先輩」はそこそこ荒れていたし、「焼きたてジャぱん」はかなりの年数が経ってから突然同人誌が出た。最近も、島田フミカネによるワールドウィッチーズの露骨なイラストに対して苦言を呈する記事を見た。基本的に、作者が自分の作品のエロを描くという行為は批判を集めやすい。作者という強い存在が、従来の「公式」が描いてきた世界と異なるものを提示することは、作品を蹂躙する行為だ。という風に、多大な衝撃を見る人に与えるようだ。
とはいえ必ずしも、作者によるエロ=非難の的というわけでもないのが不思議だ。そして「ひなこのーと」作者の場合、どうも非難を浴びない方に立っている。いや、実際には非難の声もあったと思う。私もまた、「ひなこのーと」のエロ漫画化を良い気持ちで迎えたわけではないし、今だって評価は好転していない。それでも最初から、大きな失望を覚えなかったし、作者や作品のことが嫌いになることもなかった。それは私が大して「ひなこのーと」を応援していなかったからかもしれない。あるいは作者のエロへの傾倒が、非難の声を吹き飛ばすくらい執拗だったということもあるだろう。それに、エロと一言でいってもいろいろあり、作者はよりによって乳首開発を第一に選んだのだから、そこから既に読者の予想の斜め上をいっていた。こんな考察をしなくとも、もっと大きな答えはあるのだが。最初に答えを言うと、作者は「ひなこのーと」を連載している時から、何度も怪しい兆候を見せていたということだ。
先日も作者は初潮ネタを扱った。「ひなこのーと」のことを知らない人は、男による配慮のない性的消費だ(という誤解)、ネタだろうが女性作者だろうが気持ち悪いものは気持ち悪いなどと不快を露わにしていた。とうの昔から作者がどういう人間か知っている人は、作者を無敵の存在として、今さら言っても無駄だという擁護なのかどうかわからないことを言っている。それは作者の威を借る姿勢に近いように見える。なんにせよ作者は今日も相変わらず大層なイラストを公開しているから、頼もしい。作者の関心は、自分のアカウントがシャドウバンされているかどうかにあるようだ。
恐れるものが何もない無敵の作者となった三月だが、さすがに声優にブロックされているという話は嘘のようだ。その方が面白いとは思うのだが、事実は事実として留めておきたい。自撮りまで投稿し始めた話に関しては、もう知らぬ存ぜぬだ。
私とひなこのーと(そしてその時代)
「ひなこのーと」というのは、いわゆる「日常系」なるジャンルが、さらなる隆盛を誇ろうとしている時期に送り出された漫画だった。「日常系」アニメの全盛期はだいたい2014年前後で、余韻はしばらく続いた。ほとんど芳文社が独力でつくりあげた文化だと言ってよかった。その勢いに便乗する形で、他社の似た作風の漫画もアニメ化する事態が続いた。だいたい2018年前後のことだ。何をもって「日常系」と言うのかについて語るのは面倒だし、そもそも私は「日常系」という語があまり好きではない(日常とはなんだ?)。とりあえず、まんが4コマぱれっと、百合姫、コミックキューンといった雑誌から、それっぽい作品が輩出したのは確かだ。「ひなこのーと」は、コミックキューンで連載されていた。
コミックキューンほど、「日常系」とか4コマ漫画とかいう形式を模倣しようと意識していた雑誌は他にない。創刊当初の連載陣を見ると、かつて芳文社の雑誌で連載していた漫画家ばかりで、失笑したことがある。
コミックキューンが創刊した2015年というと、私は「かいちょー☆」という漫画を熱心に見ていた頃だ。知っている人は少ないと思うのだが、有名な「ご注文はうさぎですか?」とほぼ同時期に連載が開始された漫画だ。別に大した漫画ではないのだが、「ご注文はうさぎですか?」に負けないくらいかわいらしさに満ちている漫画だと思っていた。それだけに単行本が三巻で終わったのは残念だった。その無念が余韻となって、2015年にもなって「かいちょー☆」を繰り返し読んでいたのだった。多分、今読んでも当時の感動は得られないだろう。
気に入った漫画があると、その作者が書いた他の作品にも手を出そうとするのは自然な道理ではないだろうか。私は「かいちょー☆」の作者である武シノブの漫画が気になって、「緋弾のアリアちゃん」「かわいいハンター」を買った。その購買の一環として、「ガンズ&ガールズ」も揃えることになった。コミックキューンという新興レーベルのことは知らなかったので、本屋で探すのに手間取った。幸い、いくら探しても見つからないということはなく、地元の本屋で買うことができた。「ガンズ&ガールズ」は「かいちょー☆」と同じく4コマ漫画だった。それから掲載誌のコミックキューンが4コマ専門雑誌だということを知るのに、さほど時間はかからなかった。私はコミックキューンから出ている単行本を集め出すようになった。
キューンから単行本が出始めた頃、単行本の帯には必ず同じイラストが掲載されていた。それが「ひなこのーと」の主人公、ひな子の顔だった。つまり、「ひなこのーと」はコミックキューンという雑誌の顔だった。事実、創刊号の表紙を飾ったのも「ひなこのーと」だった。ひな子のイラストを見て、当時の私は惚れ惚れとするものを覚えていたことを記憶している。それくらい華のあるイラストだったということだ。それは「きんいろモザイク」や「ご注文はうさぎですか?」を見た時に近い感情を、「ひなこのーと」に対しても起こすことができたのだ。今ではいささか信じられないことだ。とはいえ今の「ひなこのーと」作者の描く絵が、魅力を一切失っているというわけでもないのだが。
「ひなこのーと」は、コミックキューンから大きな期待をかけられていた漫画だったと思う。しかし、いやそれだからこそ「ひなこのーと」はキューンからの第一のアニメ化作品とはならなかった。最初にアニメ化されたのは「パンでPeace!」で、その次は「にゃんこデイズ」だった。コミックキューンが、芳文社で漫画を連載していた漫画家にとっての新たな活動の場となっていたとは、先にも書いたことだ。ところがアニメ化した作品は、すべて芳文社で連載経験のない作者によるものだったのだから、少し興味深い。
「パンでPeace!」と「にゃんこデイズ」に共通するのは、どちらも五分枠のアニメだということだ。それから、どちらも大して話題にならなかったことも共通している。「にゃんこデイズ」にいたっては、同時期に「けものフレンズ」が放送されており、同じ獣要素なだけに完全に存在を喰われているという印象だった。
コミックキューン編集部は雑誌を充実した内容にするために、いろいろな工夫を凝らしていた。「あやかしこ」や「くだみみの猫」のように、別の雑誌で連載されていた漫画を引き抜いたりもした。一度、特典として「おそ松さん」の入浴イラスト(確か風呂場に貼れる仕様だったのではないか)が付属したことがあり、こんなものキューン読者の誰が欲しがるんだと憤ったこともある。これは大手メディアファクトリーだからできたことなのだろう。未だにコミックキューンは現役の雑誌だ。ただ、アニメ化という点では今一つ決定的なヒットが出ていないというのも事実だ。
話が前後してしまったが、「ひなこのーと」はキューンにとって満を持してアニメ化された作品だった。今度こそ30分枠のアニメとなった。アニメ化の発表が出たのは2016年で、そのことに驚きはなかった。そして「ひなこのーと」のアニメが放送されたのは、2017年の4月からだった。
親友とひなこのーと
2017年の4月以降のいつの日か、私は親友の車に乗る機会があった。この親友は、私の人生に大きな作用を与えた人物だ。この人なくして今の自分は存在しなかったと断言できる。二人で「日常系」作品の全盛期をともに生きることができたのは、何事にも代えがたい思い出だ。ここには書ききれないくらいの紆余曲折を経て、二人はズッ友と言える仲になった。特に2016年から2017年は、二人の友情が質実ともに堅固な時期だった。
私が親友の車に乗って、しばらくの挨拶を交わした後に音楽がかけられた。なんとなくの印象で、親友の車ではシュタインズ・ゲートのオープニング曲が流れていた気がする。もっとも私は親友の車にいつも居たわけではないから、偏見でしかない。実際その日いきなり流れた曲もシュタインズ・ゲートではなかった。もっと奇妙で、言葉を失う音楽だった。
それはアニメ「ひなこのーと」の有名なオープニング曲、「あ・え・い・う・え・お・あお!!」だった。最初から最後まで様子のおかしい曲だった。私は聞き覚えのない異常な音楽を耳にして、これは「ひなこのーと」に違いないという確信を抱いた。
ここで自分でもおかしいと思うのは、なぜ「ひなこのーと」の読者でありながら親友に遅れてオープニング曲を聴くことになったのかということだ。仮にもファンだったなら、多少はアニメに触れるべきだったのではないか。特徴的な曲を聴いて、「ひなこのーとかもしれない」では遅すぎる。
これには一応の訳がある。私は、いわゆる「日常系」作品のアニメ化を喜びつつも恐れていた。これまでの傾向から言って、「日常系」アニメの第一話は、絶望的なまでにつまらないという問題がある。アニメ化されると聞いて、果たしてこの漫画が面白くなるのだろうかと思い、単行本を読み返す。自分の思うテンポで、脳内でできる限り最大限の脚色をすることで、まずまずの出来にはなるだろうと勝手な見当をつける。その状態で実際に放送されたアニメを見ると、自分で思い描いた映像とかなり調子が異なるものにぶつかり、激しく動揺してしまうのだ。その度に間違いなく史上最低のアニメが誕生してしまったと落胆する。記憶する限りでは、「スロウスタート」や「アニマエール!」で同じ過程を踏んで、深刻な心境になったことがある。辛抱して見続ける内に、こちらが慣れてくるのか、制作陣が慣れてきたのか、次第に面白く感じるから、どうにか安堵して最終回を迎えることはできる。しかし第一話は相変わらず恐ろしい。この恐怖のために、私は「ゆるキャン△」ですら大コケするのではないかと、作者でもないのに心配していたことがある。親友にも吐露したところ、「ヤマノススメのように受け入れられる可能性がある」という返事があり、実際それ以上の反響となったのは幸いだった。
以上のような不安により、私はアニメ「ひなこのーと」をなかなか視聴する気になれなかった。その状況でいきなり「あ・え・い・う・え・お・あお!!」が飛び込んできたのだから、それは凄い衝撃だった。
親友は「あ・え・い・う・え・お・あお!!」をリピート再生していた。曲が終わっても、何度でも最初からやり直しになる。親友は同じ曲を繰り返し聴くことで、自分の身に染みるようにしていたらしい。早くも効果は出ており、あの複雑な歌詞をほぼ正確に歌えるようになっていた。こうなると私も便乗したくなり、繰り返し流れる曲を真剣に聞き込もうとした。しかし、親友とは聞き重ねた数が違う。特に早口言葉になっているところはとても追いつくことができなかった。そういう自分を誤魔化す調子で、私は「この曲、買うかもしれないな」と言った。親友はただ冷静に「早く買えばいいじゃん」と答えるのみだった。ちなみに本当に買った。
当時、私と親友が会うとなると、カラオケに行くことがかなりの頻度であった。音楽鑑賞といえばイギリスかアメリカの音楽ばかり聴く私だ。親友のいる場で洋楽を歌うことに遠慮するような気遣いはなかったにしても、私はなるべく日本の歌を選んだ。互いにアニメを見ていたから、アニメソングが中心だった。あまり同じ曲ばかり歌うのも味気ないからと、毎回新しい歌が歌えるように、事前に聞き込みをしていたものだ。といって、我々は特に歌唱力に自信がある方ではない。
あの頃、私達の中で関心が高かった「あ・え・い・う・え・お・あお!!」を歌うことはあっただろうか。一度くらいはあったと思う。ただまともに歌えるような曲ではない。それよりも私達は、「らき☆すた」や「ロウきゅーぶ!」のテーマ曲を一緒に歌う方がよほど楽しかった。だからカラオケでの「あ・え・い・う・え・お・あお!!」の記憶はほとんどない。
ある時は、親友を部屋に招いて、作者の画集を見せることもあった。これは今考えると珍しい光景だったと思う。画集が出たのは、「ひなこのーと」のアニメが放送する直前のことだった。この頃になると、親友は家を変えて私から遠いところに住んでいた。二人が会うには、私が親友のいるところに寄るのがほとんどだった。だから親友が私の部屋にいること自体が少し異様な気がする。
一番自然なのは、親友が引っ越しをする直前に私が画集を見せたという流れだ。それは不可能ではないし、当時の我々の仲ならあり得ることだった。私が4コマ漫画の専門家として、来るアニメ化作品についてプレゼンするという形式だ。しかしこれだとしっくりこない。私は「ひなこのーと」の画風が好きで漫画を読んでいたとはいえ、作風自体は繊細な感じがない(要するにエロが直球すぎる)と最初から感じていた。だから親友にわざわざ「ひなこのーと」の名を挙げるならまだしも、画集まで見せるのかという疑問が浮かぶ。
私の感覚としては、親友が「ひなこのーと」のオープニング曲を始終流すくらい気に入っていることを知って、ようやく画集を見せる気になったのが自然な流れに思える。私はすっかりそのように記憶していたのだが、考えると親友が私の部屋にいるのは滅多にないことなので、立ち止ってしまった。
「ひなこのーと」の画集を一人で眺めていた時の私は、ある程度の満足といくらかの不満を覚えていた。不満の正体は、やはり作者の欲求が露骨にあらわれているということだ。
一番鮮明に記憶しているのは、ひな子がほとんど紐みたいな水着を着ているイラストだ。それだけでも既に肉感的なのだが、ひな子の身体は蟹とともにあった。なぜか蟹は紐を切る役目を受けている。そのイラストで水着が完全に取れているということはないのだが、次の瞬間には大変なことになっているのは明らかだった。私は何もそこまでのことをしなくても良いのにと小言が言いたくなった。
なぜこのイラストを記憶しているのかというと、親友もまたそのページを眺めて、「こういうのは違うんだよな」と呟いたからだ。二人の心は、こんなことで通じ合っていた。なんにせよ私は感激して、勢いよく親友の言葉に同意したのだった。私は作者にここまでのことはしてほしくないと思っていた。しかしそれが叶わぬことだったのは言うまでもない。今の作者の描くイラストがすべてを物語っている。
「ひなこのーと」作者が描くキャラクターは総じて見た目が幼い。それはもう絵のタッチがそうなのだから仕方がないのだろう。それにしても作者は身体を描くと、やたらと脂肪の盛り方をするのが癖だった。ひな子からしてなかなかのものだった。これはコミックキューン創刊当初、ひな子の顔だけが雑誌や帯なので飾られているだけでは予想もつかない肉体の具合で、随分と意外に思ったものだ。一応「ひなこのーと」には、くいなと真雪というちゃんと顔も体も幼いキャラクターがいる。これは作者が己を抑えに抑えた結果だったのではないか。今回改めて「ひなこのーと」の主要人物を確認して、存外バランスの良いキャラクター構成なのだなと思った。私の感覚だと、「ひなこのーと」は巨乳だらけの漫画だったのだが、実はそうでもなかったのだ。ただし、黒柳ルリ子という小学生にして天才女優というキャラクターに関しては暴発としか言いようがない。
親友には画集の他に、作者の別作品も見せた。その漫画は「わたしの友達が世界一かわいい」という題名だった。これは作者が「ひなこのーと」より前に連載していた漫画で……ということはなく、「ひなこのーと」と同じ時期に、同じ雑誌で連載していたものだった。この点を見ても、コミックキューンは三月という人物にどれほどの期待を寄せていたのだろうと考えてしまう。なぜ同時に二つの漫画を連載させるという措置をとることになったのだろう。作者にとっても負担は並大抵のことではなかったようで、単行本が一冊でたきり、今日まで連載は再開されていない。私はこの漫画の続きが読みたいと時折望んでいた。しかし、作者が自分のキャラクターを魔改造している現在、美しい思い出のまま閉じ込めた方が幸いである気がする。実は私の知らないところで作者は「わたしの友達が世界一かわいい」にも手を染めているのかもしれないが、そこは深掘りするつもりはない。
「ひなこのーと」のアニメが放送される直前にでた画集は「三月画集」という題名だ。決して「ひなこのーとイラストレーションズ」ではない。だから「わたしの友達が世界一かわいい」のイラストも掲載されていた。表紙には「ひなこのーと」と「わたしの友達が世界一かわいい」の主役が互いの豊かな胸を押し付け合っている姿が写されている。「ひなこのーと」しか知らない人にとって、隣にいるキャラクターは謎の人物だ。
「わたしの友達が世界一かわいい」は別にどうということのない漫画だ。「ひなこのーと」は演劇という一応のテーマがあるから、そちらの方が中身があるように見える。私はというと、「わたしの友達が世界一かわいい」もそれなりに楽しんでいた。私の隣で、漫画を少しだけ読んだ親友の反応もそれなりに良かった。さらに具体的に言うなら、登場人物の一人である少女が「俺の脳内に直接語り掛けているのか!?」と疑うシーンを気に入っていた。当時の私達は、妄想が激しくなって頭のおかしくなっている人間が好きで、脳に幻聴が届くという台詞だけで笑い合っていた。実のところ私は、最初そのシーンに興味をもったわけではなく、親友の反応を見てそういう見方もあるのだなと思ったのだが。我々は悪いネット民だった。
親友と私
今となっては古い出来事になるが、親友は私に「ロウきゅーぶ!」をめぐる問答をしかけたことがある。「ロウきゅーぶ!」に登場する女子小学生のうち、誰を好むかという論題だった。親友のなかでは答えが決まっており、もっかん(湊智花)か(三沢)真帆以外にはあり得ないということだった。曰く、ひなたには知能に問題がありそうだし、紗季はウザいし、愛莉は小学生としてあり得ない姿をしている。私はそこまで過激な思索をしていなかったため、答えるのに言い淀んでいた。すると親友は「あっ、ひなただった? ごめんごめん」と謝るふりをしてみせた。そうなると意志薄弱な私は、もっかんと答えるしかなくなった。この思い出は、出来事としてはどうでもいいが、私に一つの教訓を与えている。つまり、ロリキャラを追求するなら、徹底してロリータとしての姿に忠実であれということだ。
後に親友との議論で、「ロウきゅーぶ!」はそこまでスタンダードなロリを造り出していないということを私は言ったことがある。それは随分と親友に寄り添った意見だった。愛莉は高身長だし、紗季の外見はスタンダードから少し外れている。ひなたは身体的に実は成長しているという描写も見た覚えがある。ロリに忠実であるためには、ひたすらに正しい道を歩むべきなのだというのが当時の我々が共有した観念だった。
2018年10月には「となりの吸血鬼さん」というアニメが放送されていた。信じがたいことに「となりの吸血鬼さん」を最後にコミックキューンからアニメ化された作品はないのだから、よく未だに刊行が続いていると思う。アニメになるかならないかの基準で運営されているわけではないのかもしれない。
私の4コマ漫画鑑賞、そしてアニメ鑑賞を振り返ると、2018年が幸せだった最後の時期だったという気がする。結果的に「となりの吸血鬼さん」は私にとって最後の希望となってしまった。長々とは書かないが、私は「となりの吸血鬼さん」のアニメをかなり熱心に見ていた。円盤もDVDで全巻買ったし、後に出たBlu-ray Boxも買ったほどだった。滅多に買わないフィギュアは今も大事にしている。それもこれも「となりの吸血鬼さん」のソフィー・トワイライトの姿が、私と親友で描いたロリのイメージに忠実だったからだろう。これは「ひなこのーと」では充分に味わうことができない世界だった。
一方、同じ2018年を生きた親友はというと、私よりも先に萌えから足を洗っていた。「ゆるキャン△」のアニメがヒットした頃には、キャンプに行っている模様をツイートしていたこともあったのに、いつの間にか熱が冷めていた。代わりに海外ドラマばかり見るようになったのだという。
2018年の暮れから2019年にかけてのこと、私と親友はまたしてもカラオケに行っていた。そこで私は「となりの吸血鬼さん」のオープニング曲である「†吸tie Ladies†」を歌った。電波といえばそう言えなくもない曲だ。親友は私が歌っているのを聞いて、はじめて「†吸tie Ladies†」を知った。そして最初に言ったのは「何、この萌え豚御用達みたいな曲は」だった。しかしこれはおかしくないだろうか。どの口がどの口がという話だ。少なくとも「あ・え・い・う・え・お・あお!!」をエンドレスで流していた人間が言っていいことではない。これが私とともに曖昧3センチとか小学生は最高だぜとか歌っていた人間なのだろうか。こんな信じがたい言葉を受けて、私は反論もせずヘラヘラしていた。親友が辛辣なことを言う時は、なんとなく笑って流すのが一番の得策だということを身に染みて理解していたからだ。
親友は執着が少ない人間なのだと思う。まず物欲があまりないようだ。私がひたすら蒐集の路に走っているのとは正反対だ。親友は物質的にはもちろん、精神的にも何かに傾くということが少ない。だからアニメにだって全身浸かるということはなかった。私は2018年あたりまで、二人の性質がどう異なっているかについて考えたことはなかった。特に根拠もなく、考えていることは大体同じなのだと思い込んでいた。実はそうではないことを知るまでに時間がかかった。親友は一つ所に留まる人間ではなく、常に軽く飛び続けるのだった。そうして突然結婚の報告をして、(地理的に)さらに遠いところに行った。
私はというと、未だにくねくねしている。アニメこそあまり見ないが、未だに不知火フレアがさぁ! ミオしゃがさぁ!と喚いている。これは親友とも語ったことがあるのだが、私は自分を変えたくないのだ。自分の趣味や生活様式を守り続け、それを脅かそうとする人は跳ね除ける。そういう姿勢で生きている。とはいえ話のオチとしては、親友とは反対に惨めな路に留まっているとした方が良い気もする。ともにキモオタでいたのに相方が人生を進めて、自分は取り残されるといった趣向の自虐は、インターネットでよく見るではないか。実際私は、親友と簡単に会えなくなったことについて、いくらか悲しんでいた。これが時の経過なのだろう。幸福の追求が人それぞれ違うにしても、親友はかつての姿を知る私からすると不思議なまでに真っ当に生きることができている。一つ言いたいのは、二人の趣味が変わり、距離が遠くなっても、私は親友を親友と思い続けているということだ。年末には会う約束も交わしている。実際のところは会うまで確定ではないが、私は楽しみにしている。