右の頬に触れるとたまらなくなる

前回の記事で私は「家に帰ってからも変なことがあったのだが、これについては次回以降の記事で書くつもりだ」ということを書いた。ほのめかしが嫌いな私がこんなことをやるのだから、早急にはっきりとしたことを書かなければならない。そう思って、事の顛末を語ることに着手しようとしたその時、「続報」が飛び込んだのだから私は動揺した。書きかけの記事はいったん保留にしたまま、別の事柄について書くことにした。というわけで「次回に書く」という約束は嘘になる。お詫びしたいところだが、私は一応「次回以降」と保険をかけているのだから悪くない。

四月はまだ涼しい印象をもっていて、確か去年はそれなりに快適な日を過ごすことができた。しかし今年の春は暖かくなるのが少し早いようだ。季節に応じた変えなければならない様式の一つといえば、寝具だろう。何も被らなくとも寒くない時期がすぐそこまで来ているのだから。

寒い季節になると、私はコストコの毛布を被って寝ている。私がコストコに行ったわけではなく、人から受け取ったのだ。日本ではあまり見ない濃紺色の毛布は、身体をよく温めてくれる。肌ざわりも非常に良い(のだが洗濯するとそうでもなくなる)。優れものだ。
そんなコストコ毛布に問題があるとすれば、微妙に短いという点だ。睡眠中の私が暴れていると、布団も応じて動く。ふと目覚めると毛布がおかしくなっていることに気づき、正位置に戻して眠ろうとする。しかしどうもおかしい。話は単純で、布団の向きを間違えているのだ。このまま寝てやろうというほど豪快な性分でもないので、仰臥のまま布団を動かすことによって事なきを得ている。こういうことはよくある。
ところがコストコ毛布は、正しい向きになっても何だか足りない。私は特に高身長でもないので、問題は私が顔まで被ろうとしていることにある。どれくらい顔を覆うかはその時の気分で頻繁に変わる。口は確定で隠れるし、極まると目元まで見えなくなる。こうなると、あまり縦に長く作られていないコストコ毛布は、人間の足元を露出させる。それはそれで開放感があって良い気がするが、足が出ていると不思議な力によって切り落とされるのではないかと不安になるから困る。また、布団というフィールドに沿ったカッターが存在する気がするので、腕や脚が外れると大変なことになるのだ。

コストコ毛布はあまり長く作られていないので、顔まで隠すと足が出るとは先に書いた。しかし場合によっては出ない。よくわからないが、寝る度に毛布の長さが変わっているらしい。そうなると安心はできるが、新たな問題が浮上する。それは、私は顔に毛布がかかっているのが好きではないということだ。微妙に肌が疼き出してたまらなくなる。それはそれとして、顔のところまで毛布はきてほしいので、なるべく空間をつくるようにしている。あくまでイメージの話なのだが、鼻や額あたりに毛布が触れるだけで、そこから下は膨らんでいて肌に触れないという状態にしたいのだ。そのためには腕を胸または肩あたりに置いて、垂れさがる毛布を支えなければならない。その役目は必ず左腕に任せている。絶対にうまくいくわけではないので、幾度か試行錯誤してようやくまともな状態になる。
ここで気になるのが、いつまで腕を胸元に置くのかという問題だ。このポーズをとっているからには、当然ながら腕は曲がった状態になっている。日頃の生活で、常に腕を曲げた状態で暮らしていることがないので夜中になる度に新鮮な気持ちになるのだが、腕を常に折り曲げていると関節が痛みだす。痛むほどではなくとも、違和感が出てくる。こういう経験があるため、せっかく安定した状態がつくれても、いずれは腕をまっすぐに伸ばさなければならない。
気になるといえば脚もそうだ。脚を曲げた状態にして寝ると、なぜか落ち着いて眠りやすくなる。しかしこの状態で眠ると、おそろしく脚が痺れて目を覚ますことになり、治まるまで苦しみ耐える羽目になる。曲げたくなるのはいつも右脚で、寝る度に癖で足裏を左脚の膝あたりにくっつけている。しばらくはこの状態を許しているが、次第にいい加減にしろという気分になって、まっすぐ伸ばすことにしている。脚が痺れるというのは大変な苦痛で、これ以上刺激が増幅しないようにしながら、慎重に右脚をまっすぐにしている。いつまでも脚を曲げていると、永久に足が痺れ続けると考えるからだが、実際のところどうなのだろう。
痺れとは関係ないが、踵が床に面するのも気になって仕方がなくなるので、いつも足首を曲げている。私は絵描き歌のコックさんと同じ姿勢になって一日を終えている。骨が床に当っている感覚は奇妙なもので、腰の骨も同様だ。

こういったことを意識し続けていると、とても眠れない。埒が明かないので寝返りをうったりする。幼い頃はうつ伏せでないと眠れない人間だったが、それはいつからか不可能になった。だから寝返りをうつのは気分転換でしかなく、結局は仰向けに戻る必要がある。横を向いている時に眠気がきた場合は、すぐ仰向けになる。そうなるとまた眼が冴えるのではないかと危惧するが、大抵は杞憂に終わる。

私が寝返る際は、必ず左を向く。右に寝返ることはまずない。それは私の右隣に、ダイソーにてスカウト(=購入)したぬいぐるみ(怪獣くん)が居て、身動きが容易でないからでもある。それだけではなく、私は右側を床につけたくないのだ。つけたくない部位はただ一つで、右頬だ。さらに限定すると、頬のエラが敏感になっている。

十歳にもならない頃、自分の顎に何かがあることに気づいた。奥歯の下の顎の謎。骨と皮膚の間に、小さな玉がある。右の顎に一か所あって、左にはなかった。触り続けたところで謎は解決しない。ただ好奇心があり、そこには不審に思う心が一部を占めていた。私が目指しているのは、謎の玉を消すことだった。方法は簡単で、潰せばよいのだ。なんとも残酷だと思う。とはいえ、もし本当に潰れたら玉の成分は内部でどうなるのか。私は玉に触れ続けた。時に優しく、時に厳しく。一貫して思うのは、「結局これはなんだ」だった。いつしか目的を失い、雑に扱ってもいい玩具同然の物体となった。どれくらい触り続けていたかは思い出せないが、何か月にも及んだ感覚はある。
結果として、謎の玉は肥大化していった。目に見えてわかるほどではなかったはずだが、あまり私が頬を触っているので、見かねた母が「もうよせ」と言うのでついに止めることにした。今まで癖になっていたことを止めるのは辛いものだが、当時はあまり苦しまなかった気がする。それくらい親から言われたことを絶対だと感じていたようだ。これまた期間は忘れたが、次第に玉は小さくなっていった。といっても徹底的に触らなかったので、経過がわからないのだ。謎は謎のままで、終わりもあっけなかった。
というわけで事態は大きくなりはしなかったが、弊害として未だに右の頬に触ることに抵抗を覚えるようになった。顎の部分に触れると、くすぐったいと言うのが近い妙な気分になって、たまらなくなる。寝ているとき、試みにうつぶせで右の頬を床につけると、五秒も耐えられない。それくらい敏感になってしまった。
意を決して右側を触ると、確かに玉がある。左側にはない。正体を調べると、もしかすると「顎下腺腫瘍」というものなのかもしれない。良性か悪性かでいうと、可能性は半々らしい。私の場合、腫れもしなかったし痛みもなかったのでそこまで問題ではないはずだ。そうであってほしい。何より玉を確認したのは子供の時であり、そこから長いつきあいを続けているのだ。そして触れることすらままならないほど大事にしている。というわけで良性とする。これは私が五歳頃から飛蚊症になっていて、視界に漂う浮遊物を不思議に思っていたのと同じで、良いも悪いもない「既にあるもの」として向き合うしかないということではないのか。

私が仰向けでしか眠れなくなった理由は他にもあって、2016年から重度のASMR中毒になったからでもある。常に耳にイヤホンが刺さっているため、首を動かすと床とイヤホンがぶつかって耳を圧迫することになる。絶対に仰向けの状態が安泰だ。近い内にASMRのことについても記事を書きたいが、私はどうにもASMRというのは極めて個人的な趣味であって、あまり人に大っぴらに語るものではない気がしてならない。抵抗もあるにはあるが、私は欄干代表になったからには「パレーシア」の精神で語り続けなければならないと思っているから、あえてやるしかない。だから次回以降に書くつもりだ。もちろん「次回以降」なので次回に書くとは限らないのだが。

布団にくるまりながら聴くASMRは最高だが、もう季節はそれを許さない。コストコ毛布に暇を出す日は近い。


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