見出し画像

1月 15 | 一年で聖書を: 創世記36-38 ; マタイ10:21-42

創世記36:エドム、首長
   37:夢
   38:主の目に悪しき
マタイ10:21-42:報い

1. 平和ではなく剣をもたらすために来たイェシュア
・・・しかしその平和が実現される前に、「剣」がもたらされなければならないのです。その場合の「剣」とは何でしょうか。イェシュアが地にもたらす(=投げ込む)「剣」とは神のことばを意味します。イェシュアのもたらす「剣」とは「神のことば」と同義であり、その機能はいかなる剣よりも鋭い神のことばであるとしています。
イザヤ書49章2節の「しもべ(メシア)の歌」で、「主は私の⼝を鋭い剣のようにし」とあります。黙示録では栄光のキリストの「⼝から鋭い両刃の剣が出ていて、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」(1:16)とあります。①②の「剣」のギリシア語は「マカイラ」(μάχαιρα)ですが、黙示録に出てくるイェシュアの「剣」は他に「ロムファイア」(ῥομφαία)です(1:16, 2:12,16, 19:15,21)という語彙が使われています。しかしヘブル語の「剣」はいずれも「ヘレヴ」(חֶרֶב)が使われています。この「ヘレヴ」の初出箇所が創世記3章24節にあります。
【新改訳2017】創世記 3章24節
こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。

「輪を描いて回る炎の剣」(新改訳2017)となっていますが、新共同訳は「きらめく剣の炎」と訳しています。口語訳は「回る炎のつるぎ」と訳しています。神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置いて、人が勝手にいのちの木に至ることができないようにされました。ちなみに、人はエデンの園を追放されたとあります。追放されてどこへ行ったかと言えば、「エデンの園の東に」とあり、七十人訳聖書は「エデンの園の前に」住まわせたと訳しています。「東」と「前」もヘブル語では「ケデム」(קֶדֶם)という語彙です。ですからエデンの園の「東」とも、「前」とも訳せます。いずれにしてもその境目にはケルビムが置かれており、やがてエデンの園が回復して、人がいのちの木への道を通って自由に食べることができる時まで、エデンの園を守っているのです。
イェシュアが「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。」と言われたことを考えるとき、「いのちの木への道を守るために、・・輪を描いて回る炎の剣」と対応させて考えるなら、真理は「炎の剣」に対応します。その「炎の剣」はすべての偽りを見抜いて焼き尽くす炎である神のことばと言えます。
やがて「終わりの日」にエデンの園が回復するとき、そこに住むように定められた者たちは神のことばによる禊(みそ)ぎを受けなければならないのです。エデンの園は神の祝福の総称である「平和」(「シャーローム」שָׁלוֹם)そのものです。その祝福にあずからせるために、イェシュアは「わたしは剣をもたらすために来た」(マタイ10:34)と言っているのではないでしょうか。究極的な真の平和(シャーローム)がもたらされる前に、神と人との誤ったかかわりが、神のことばである剣によって焼き尽くされ、平和への幻想を断ち切られなければならないのです。そのためにイェシュアが神のことばという剣をもたらす(=投げ込む)ために来たと理解するなら、最も近しい関係にある「家の者たちがその人の敵となる」(36節)ということも理解できるのです。
特にユダヤ人の家庭において、イェシュアがメシアであると信じる者が一人起こされると、その家では葬式が出されると言われます。その背景にはクリスチャンがユダヤ人を迫害してきたという根強い歴史的事実があります。ユダヤ人が今もイェシュアを信じることのできない理由は、そうした背景があるからです。日本では信仰を持つと世間体のゆえに勘当されるというレベルですが、ユダヤ人の場合は、勘当される程度ではなく、死んで亡くなったという葬式レベルの扱いを受けるのだそうです。今日のメシアニック・ジューと言われる人たちの多くはそのようにして信仰をもっているのです。それゆえ35節にあるように、「わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです」というのは真実なのです。
この35節をギリシア語で読むとより明確です。「なぜなら、わたしが来たのは、人をその人の父に逆らわせ(κατά)、娘を彼女の母に逆らわせ(κατά)、嫁を彼女の姑に逆らわせ(κατά)て、仲たがいをさせる(二分させる)ためだからです。」となります。ヘブル語は「離れさせる」を意味する「パーラド」(פָּרַד)の使役形が使われています。イェシュアが来たことによって、それまでの人間的な絆が断ち切られ、離れさせられ、互いに憎しみ合うことが起こり得るのです。なぜなら、地上のどんな貴重なものも色褪せるくらいの宝をイェシュアに見出した人とその価値を見出せなかった人との間に、たとえ夫婦や親子や親戚や親友と言われる関係であっても、価値観による分裂が起こってしまうからなのです。家族が分裂するくらいなら神を信じる信仰をやめてしまおうと思う者も出かねません。ですからイェシュアは以下のように言われるのです。

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?十二使徒派遣に見るイェシュアの宣教戦略%284%29

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?