30年前、宮古島の選挙の思い出

宮古島市がまだ平良市の頃。
長期続いた現職候補は中央とのパイプが太いことを盛んに訴え開発を進めた。
ゴルフ場建設で地下水汚染が危惧される中、水を守ろうという声が高まり、町医者だった伊志嶺亮さんが候補に立てられた。
選挙最終日、現職の選対事務所前に黄色いTシャツの一団が差しかかった。

市民の手作り感あふれる黄色いTシャツ。手には風船を持っている人もいた。その先頭に立っていた伊志嶺さんはいつものように少し茶目っけのある笑みを浮かべ、派手な街宣カーではなく、道をてくてくと歩いてゆく。彼らの姿を、青いハチマキを締めた集団は鼻で笑い、指さしてゲラゲラ笑う人もいた。

私はそのとき、たまたま青い集団の中で取材をしていたので、様子をよく覚えている。

その翌日、政権は交代した。
命の水を守ろうという思いが島の政治を変えた。
もちろんその後様々なことは起こったけれど、あのときの宮古島の草の根運動を思い出すと今も胸が熱くなる。ずっと忘れないだろうと思う。

誰でも聖人君子ではないし、完璧な政治家はいない。それでも、大きな利権の絡むひとつの計画を食い止めることはできた。あの時代のうねりを間近で見られたことは貴重な経験だった。

今年惜しくも亡くなられた伊志嶺亮さんの、生前のあたたかな笑顔を思い出し、少し感傷的になっている。

調べてみると、あの選挙はちょうど30年前。1994年の7月に伊志嶺亮さんは平良市長に就任している。

寝床のそばに積み上がる読みかけの本の中から伊志嶺亮さんの文章に出会う。沢木耕太郎さんの言葉を引いている。
"何かを書き、言うこと自体が、すでに「恥」である、という自覚を持つことが教養である"
「鏡台」に私の胸も痛む。早く手紙を書きたい、知らない人に向けてではなくお世話になった方々に。

平良市時代の1994年から宮古島市になっても2008年まで市長を務められて、私の帰郷時期と重なるため思い出も多い。あるときは読み終えた『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の原作をさらりと庁舎ロビーの本棚に寄贈していた。宮古の文化を支えてこられた伊志嶺さん、私の尊敬する大先輩の一人である。

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